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トップ > シャー・ペイ > シャー・ペイ - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年8月22日 1時)
仁義なき戦い
昨日、仕事を退けて買い物をして帰宅したら、トイレの電球が切れていました。ドアを閉めると真っ暗。こんなところで転んでけがをしてはつまらないので、買ってきたビールとご飯のおかずを冷蔵庫にしまって、ふたたび買い物へ。電器店ではなくホームセンターへ行き、電球をまとめ買いしてきました。
帰宅途中、古本や中古CD、DVDの置いてある店へ。中古DVDのコーナーで『仁義なき戦い』(深作欣二、1972年)を見つけました。2480円。ちょっと考えて、「持っていてもいいかも」と思って購入しました。
昨日の記事で、ソビエト映画『1953年の冷たい夏』に東映ヤクザ映画の影響があるかもしれない、と書いた直後のことでした。今調べると、オリジナルの『仁義なき戦い』は5部作まであって、僕はそのうちの何作目かをTV放映で観たことがあるきりで、有名な第一作を観たことがなかったんですね。で、『1953年の冷たい夏』との間に影響関係はあるか?と考えながら観てみました。
作品のタッチはそんなに似てはいないと思うんですが、片や敗戦、片やスターリン死去、という時代における価値観の混乱に翻弄される人間を描いている、というのは同じなのかも、と思いました。キーワードは「恩赦」です。『1953年の冷たい夏』では、スターリン死去によって本来まっさきに釈放されるべき無実の政治犯2人は流刑地につながれたままで、出してはいけない凶悪犯のほうが恩赦によって娑婆に出てくるという逆説的な状況が、何も起こらない僻遠の流刑地に暴力を呼び込んでしまう、という設定になっています。片や、『仁義なき戦い』のほうでも、後半、金子信雄演ずる山守組組長に懇願されて2度目のヒットマン役を引き受けた広能昌三(菅原文太)は、サンフランシスコ講和条約締結(1951年)による恩赦で娑婆に出てくる、という設定。朝鮮特需に沸きかえる娑婆にでてきた広能は、ヤクザ社会のルールが激変していることに深く失望します。『1953年の冷たい夏』においても、主人公ルズガー(くず)ことセルゲイはさいごモスクワへ戻っていくのですが、その孤独さ、寡黙さには、どこか菅原文太演ずる広能昌三の面ざしがあるかもしれません。
いろいろ書きましたが、ロシア映画に詳しいかたがたの間ではこの点がどう議論されてるのか、僕知りません。昨日も書きましたが、僕は映画は得意じゃありません。細部について思い違いをしているかもしれません。時間ができたら、また見比べてみることにしましょう。
作者: russiansf
更新日:2008年8月21日 15時45分
渚ようこ「カスバの女」
夏季休暇から帰ってきました。
実家へ帰ったら思いがけない用事が待っていて、バタバタと落ち着かない休暇になってしまいました。それでも、何日かは何もしない日があって、骨休めにはなったと思います。
実家には、親戚から新鮮な卵が送られてきていて、毎朝のご飯が楽しみでした。夏の早朝、すっきりと目が覚めて、酔いも完全に抜けたさわやかな空腹感を感じて、台所で目玉焼きを焼いて、白いご飯をほおばった時の何とも言えない幸福感。ハムかベーコンがあればもっと良かったでしょうが、塩コショウを軽く振ったふつうの目玉焼き、十分おいしかったですよ。
夏休みにはあれもしよう、これもしようと考えるのですが、たった8,9日で洋書を何十冊も読めたりはしないので、まあ、なんにもしない普通のお盆でしたね。ただ、映画のDVDを何本か観ました。
前にもちらっと書きましたが、僕は映画が大の苦手です。何がダメかというと、ひとつには、あの長さ。パッケージを見て「133分」とか書いてあると、それだけで倒れそうになっちゃいます。若い人に教えたりしてると「映画が苦手」とばかりは言ってられなくて、最低限のものを買ったり、BSで録っておいたりするんですが、ふだん帰宅したら疲れてて、2時間以上も集中して画面を見る気になれなくて、観てないものがすごく多いんです。
今回はいろいろ用事もあったけど、10日足らずの間に4本観ました。これは自分としてはかなり頑張った数字です。リストは以下のとおり。
「灰とダイヤモンド」(アンジェイ・ワイダ、1957年)
「永遠と一日」(テオ・アンゲロプロス、1998年)
「マンダレイ」(ラース・フォン・トリアー、2005年)
「1953年の冷たい夏」(アレクサンドル・プロシュキン、1987年)
まあ、どうということのないリストですが、「1953年の冷たい夏」、初めて観ました。ははあ、これが噂の…。スターリンの死去した1953年、ロシア北方の離れ小島の流刑地に、恩赦で刑務所を出てきた強盗団が押し入る、という話。流刑地といっても、そこにいるのは港湾長と民警ひとり、わずかな村人。政治犯はたったの二人です。そのうちの一人、「くず」と呼ばれ、無能で怠け者だと思われていた政治犯が実は練達の銃の使い手で、隙をついてまず6人の強盗のうちの一人を倒し、銃を手に入れ、バッタバッタと悪党どもを倒していく…という展開。以前、さるかたが東映ヤクザ映画の影響を指摘していて、ほお、と思ったことがありした。ヤクザ映画も詳しくないので、細部がどう、という議論は僕にはできませんけど、やっぱ深作とか観てるんでしょうかね、この監督。
ただ、重い映画ばかりでしたので、最後は音楽のDVDで休暇を締めくくりました。実家の本棚を見たら、あ、ここにあったか渚ようこの新宿でのリサイタルをおさめたDVD。全編いいんですが、時間があまりなかったので、好きな曲を飛ばし聴き。高橋ピエールさんのガットギターだけをバックに歌う「カスバの女」。いや~、粋です。銀のドレスに左胸の赤いコサージュといういでたちの渚ようこさんの身体に、花を咲かせずに散っていった数知れない過去の無名の歌謡シンガーの魂が宿ったような、そんな一曲です。
今回は思いがけない用事で数日つぶれましたけど、夏休みは普段観てないDVDを観るというのもなかなか悪くないですね。今晩は『パン・タデウシュ物語』観よう。
作者: russiansf
更新日:2008年8月21日 1時17分
竹田の子守唄(薮入りのため更新を休みます)
昨日、柏原芳恵さんについて書きました。「明菜や聖子に比べれば、時代を超えた強烈な個性みたいなものにいまひとつ欠ける」と書きましたが、この認識は大いに改める必要があります。当初大きなヒットに恵まれなかった柏原さんですが、7枚目のシングル「ハロー・グッバイ」がオリコン6位に入ったのを皮切りに、以後18枚連続トップテン入りという堂々たる記録を達成ました。これはもう、80年代を代表するビッグアイドルと言わなければなりません。
…などと書いているうちにもう職場は一斉休業に入りました。職場の連絡網で今日中に片づけなければならない用件を確認していたら、ある人が夏季休暇のことを「薮入り」と表現していました。丁稚さんや女中さんがお盆などにお休みを貰って帰郷する、という意味だと思うんですが、そっかあ、僕も明日から「薮入り」なんだ。
と書いているうちに、この曲が聴きたくなってきました。「竹田の子守唄」。「盆が来たとて 何うれしかろ かたびらはなし 帯はなし」という例のアレ。そうですねえ、昔、『寺内貫太郎一家』だったか『ムー一族』だったかで、樹木希林さん扮するばあちゃんが「『薮入り』ってのはね、お盆になっても帰るうちのない子が藪の中に入って泣くから『薮入り』というんだよ」と語っていたのを鮮明に思い出します。
ともあれ。休みです。CD店に行ったり、古本屋に行ったり、スイカ食べたりしながら、のんびり骨休めしましょう。ブログは、ケータイから更新するかもしれませんが、基本的にはお盆過ぎまでお休みです。
はやも行きたや あの在所こえて
むこうにみえるは 親のうち
作者: russiansf
更新日:2008年8月8日 18時0分
柏原芳恵「最愛」
昨日から、まだ福耳「星のかけらを探しに行こうagain」の心地よい余韻にひたって過ごしてます。杏子さんの浴衣姿が目の前にちらついて、仕事しててもうわのそら。もうすぐまとまった休みです。素敵な出逢いがあるといいなあ…って、あるわけないんですが、仕事から帰ってニュースを見てたら、今日は旧暦の7月7日なんですって。わーん(と感激して泣いてる)。
でもねえ、こっちが「見つけた!」と思っても、お相手が「見つけられた!」と思わなければ、織姫と彦星にはなれないわけでして。昔、ジャズのスタンダードにEasy to Loveという曲がありまして、「恋するは易し」などという訳をつけるのは実は誤りでありまして、まだジャズ評論家だった大橋巨泉さんが「惚れっぽいあなた」という極めつけの邦題をつけまして…という話を昔、相倉久人さんの本で読んだことがありますが、この「惚れっぽい」、いい言葉ですねえ。若い男の子は、可愛い子を見るとすぐ好きになっちゃう、それぐらい元気がないといけません。そうしてふられた、袖にされた、気持ち悪がられた等々、人生の滑った転んだをやって、だんだん大人になっていけばいい。
反面、女の人ってどうなのかなあ。先日、CDケースからふと取り出した柏原芳恵のベスト盤。明菜や聖子に比べれば、時代を超えた強烈な個性みたいなものにいまひとつ欠ける気がして聴いてなかったんですが、なにげなく車んなかで聴いてると、けっこうはまりますね。強烈な個性に欠ける分だけ「ちょっとなら媚薬」のようなきわどさを狙った曲は、今聴くといまひとつで、あくまでも淡い淡い片思いを歌った歌のほうがかえって強い訴求力を持っています。「春なのに」の卒業での別れ。「花梨」での、東京へ行く幼なじみとの別れ。いずれも、何度も聴きかえしたくなる味わいがあります。そして、「最愛」。「誇らしそうな貴方」と「愛されてもふさわしいと思える きれいなひと」が旅立ってゆくのを、黙って見送る女の子。二番目に好きな人、三番目に好きな人、その人なりに愛せるけれど、一番好きだったのは死ぬまで貴方なのだ、という告白。うわあ、女の子も惚れっぽいですねえ。どーせオトコの作詞家が作った歌でしょ、と思ったら大間違い。中島みゆき作詞作曲です。
「夏模様」という曲も、これきりお別れですか?と名残惜しそうな女の子の歌です。いろいろ発見があって、すごく勉強になりました。柏原芳恵『ゴールデン☆ベスト』、全19曲です。
作者: russiansf
更新日:2008年8月7日 20時30分
星のかけらを探しに行こうagain~Augusta Camp 2007~
数日前、阿久悠氏のトリビュート盤について書きました。すっかりハマッて繰り返し聴いてますが、聴き疲れしてきました。あの尋常ではない濃厚さ。あればかり聴いてると、ちょっとワタクシめの軟弱な音楽的心身、持たないですね。すこし休まないと。
今日は、そうめんでも茹でて、スイカでも食べて、夕涼みしましょうかね。そういやウナギも今年は食べに行ってないなあ。
以前書いた福耳(杏子さん、山崎まさよしさん、スガシカオさん、元ちとせさんら、オフィス・オーガスタ所属アーチストから成るグループ)の新譜『DANCE BABY DANCE/夏はこれからだ!』が届きました。休みに入ったらゆっくり聴こうと思ってとってありますが、「星のかけらを探しに行こうagain」だけはすでに繰り返し聴いています。
以前にも書いたとおり、昨年の「オーガスタ・キャンプ2007」でのライヴ録音。旧西武ドームでのライヴの、ステージと客席が一体となった楽しさ、なごやかさが、この一曲にパックされています。リードをとるのはもちろん杏子ねえさん。エグみのあるハスキーな声がステキです。「この宇宙(そら)を見上げていると 遠い記憶がうずく/生まれる前のこと 思い出しそうになる/こうして巡り合ったこと偶然じゃないかもね/運命の導き 信じてみたくなる」。この甘美な、ユング的世界観。杏子さん自身の作詞です。素晴らしいですね。浴衣を着て、うちわを手に持って、誰か気の合う女性と、夏の夜空を見上げたくなる、そんな曲です(ワタクシめにはそんなお相手、いませんけどね)。
仕事に疲れて、目もかすみ、腰も痛い…最近はさんざんですが、お盆休みは、この曲聴いて星空を見上げて、しみじみと和みましょう。
作者: russiansf
更新日:2008年8月6日 13時34分
ヴィクトル・ツォイの本
ロシアの某共和国の若者から本が届きました。
『ヴィクトル・ツォイ 太陽という名の星 詩、歌、回想』
今は亡きロシアン・ロックの星、ヴィクトル・ツォイの回想本です。まだパラパラ見ただけだけど、夏休み中に読めるかな。ツォイ来日時の写真が載ってます。「日本のロックスターКейски Куата(ケイスキ・クアタ)」とあるのはもちろん桑田圭祐。きょとんとした顔のツォイと一緒に写ってます。「日本におけるもっとも主要な音楽マネージャーのひとり、カイチョウ」とあるのは、これがひょっとして有名なアミューズ創業者、大里洋吉氏でしょうか?
作者: russiansf
更新日:2008年8月6日 16時39分
僕のソルジェニーツィン
ソルジェニーツィンが亡くなった、というのを、僕は馬鹿なことにニューヨーク・タイムズ電子版の速報で知りました。おや、と思って国内のニュースサイトを見たら、すでにちゃんと記事が出ていました。
ずっと昔、まだ普通の会社に勤めていたころ、ロシア文学専攻の道に進んだ先輩と街を歩いていました。ふと僕はこう言いました。「ソルジェニーツィンは官僚の街モスクワを嫌悪したが、同時に商業の街ニューヨークにも愛想尽かしをすることによって、認識の自由のための闘士たりえている。だが、フリードマンはたかだか反共の闘士に過ぎない」。これは僕が自分で考えたことではなくて、当時読んだばかりの西部邁氏の何かの本の一節でした。『経済倫理学序説』だったかな、記憶にたよって今このように書いていますが、正確な引用ではありません。「要確認」です。ただ、論旨はほぼこの通りだったと思います。ふと口をついて出てくる、それくらい印象的な箇所だったのです。それを聞いた先輩、即座に「じつはソルジェニーツィンは『認識の自由のための闘士』たり得てないんだよ」と答えました。当時(80年代の中ごろ)、僕は、露文専攻の先輩がなぜそんな否定的なことを言うのかわかりませんでした。が、今になって思えば、反体制作家ソルジェニーツィンを西欧寄りのリベラリストだろうと単純に思い込んでいた当時の文学青年たちは、彼が実際のところは西欧嫌いのナショナリストであるらしいことをだんだん知り始めて、奇異の念に打たれていた最中だったのです。
ずっと後になって(ってこの表現、便利ですね)、僕自身がロシア語ロシア文学に足を突っ込むようになりました。90年代の中ごろは毎夏ロシアへ通って、数百冊の古本を買いあさりました。
そんなある夏のこと。サンクト・ペテルブルクの古本屋さんで、ソルジェニーツィンの選集を見つけました。日本円に換算すれば数千円。これは買いだ、と思ったそのときです。開襟シャツの中年のおじさんがレジの店主らしき男の人に話しかけるのが聞こえました。「あのソルジェニーツィンの選集はばら売りしないのか」「しないよ。全巻でないと売らない」「なぜだ。高すぎる。もっと安くならないのか」「だめだ」…こんな会話だったと思います。そのおじさんはしばらく店主とそんな会話を続けました。
この場面で、僕がその選集を全巻引っつかんでレジへ運び、お金を払って、さっさと店を出て行く、なんてことはさすがにできませんでした。このおじさん、よっぽどソルジェニーツィンが読みたいんだなあ、でも、その数千円というのは、このおじさんの月収の何分の一かに相当して、とても払えたもんじゃないんだなあ…と強い印象を受けました。それは、長い年月の果てにロシアの人々が手に入れた「言論の自由」というものの、ある側面だったのだ、と思います。
あのときは、僕も自重して、店内に他の客がいなくなったら買おう、と思ったのですが、なかなか人がいなくならず、あきらめて店を出ました。
当時はとにかく、国際コンクールで優勝したピアニストの演奏会を、日本円50円くらいで聴けた、という時代ですから、ロシアの本は安かったですね。でも裏を返せば、僕は金に飽かして、ロシア国民の大切な財産である古本を買いあさっていたわけで、品のない、はしたないことだったのかもしれないな、と思います。
夏になると、サンクト・ペテルブルクの、あのおじさんを思い出しますね。その後ソルジェニーツィンの本は買えるようになったんでしょうか。
作者: russiansf
更新日:2008年8月5日 15時49分
山崎ハコ「ざんげの値打ちもない」
買って来ました、『歌鬼(Ga-Ki) 阿久悠TRIBUTE』。全部聴く価値のある素晴らしいトラックばかりですが、今日はこれについて書かなければなりません。
作詞:阿久悠 作曲:村井邦彦 編曲:山崎一稔 山崎ハコ「ざんげの値打ちもない」
本家、北原ミレイにまさるヴァージョンがあるわけない、と思いつつも、この3流エロ劇画タッチの詞と山崎ハコの暗い情念がどのように共振するか、期待はそこにありました。期待は十分満たされました。そして驚きは、オリジナル・ヴァージョンにはない「4番」の歌詞。一番が14歳で窓にちらちら雪が降る部屋での処女喪失、二番が指輪を贈られて花を飾られてのみすぼらしい嫁入り(内縁婚?)、三番が19歳、ナイフを手に握って自分を捨てた男を待ち、なんとこの山崎ハコヴァージョンの4番では、主人公は「とうに二十を過ぎ」た歳で、「鉄の格子の空」を見上げているのです。これ、どういう経緯で付け加わったのでしょう。もともとオリジナルを書いた当時にあったもので、内容が忌避されてあえてカットされた、ということなんでしょうか。我々が「4番」と思っている詞は5番になっていて、主人公は「ざんげの値打ちもないけれど/私は話してみたかった」とストーリーを締めくくります。いやあ、こいつは驚いた。知りませんでした。阿久さんの本とか読むと、どこかにこの曲のことが書いてあったりするのでしょうか。ともあれ、結果的に、このトリビュート盤を、ただの「いいカヴァーアルバム」で終わらない価値のあるものにしています。今年一番かも、というぐらいの圧倒的な聴き応え。
トリビュート盤の最後は杏里「ひまわり娘」。この、愛と狂気と孤独と情念の詰まったアルバムを明るく締めくくります。他にSFジャズなMizrock「ペッパー警部」、ディキシーランド風な中西圭三「たそがれマイ・ラブ」、あーあーあの声で歌い上げる森山直太郎「思秋期」など、しばらく聴きこみそうな曲がザクザクです。
作者: russiansf
更新日:2008年8月5日 16時13分
藤井郷子と吉田達也
藤井郷子pと吉田達也dsのユニット、藤吉(とうきち)。2002年5月のカナダの音楽祭でのライヴ『Toh-Kichi』は死ぬほど聴きました。
ベースレス、ピアノとドラム、それに声、という編成の持つ自由度のもと、藤井と吉田が次々とワザを繰り出す本当に面白いアルバム。逆説っぽい言い方になりますが、パーカッシヴな藤井のピアノとメロディアスな吉田のドラム、という対比が鮮やかです。極度に張りつめた音楽でありながら、そこかしこで溢れ出るユーモアがまたなんともよくて、深刻ぶらないフリーミュージックの一つの理想形がここに実現されていると思います。タイトルToh-Kichiのkichiが、どこかで「キッチュ」Kitschという概念と呼応している観すらあって、いや~ほんと、面白い。
今調べると、この二人はもう一枚共演盤がありますね。注文しました。3~5週間というから、届くのはお盆過ぎかなあ。
作者: russiansf
更新日:2008年8月1日 18時45分
ピンナップ・ベイビー・ブルース
いつも書いていることですが、最初に入った大学時代のことを、時々思い出します。何か勉強したい欲求はあるんだけども、入った学科はその欲求とあんまりマッチしなくて、文学や芸術に対する漠然とした憧れと、実際に出席しなければならいない民法や簿記の授業の深いギャップを前に、呆然としたまま4年間が過ぎていきました。
いつも前を通りかかるパン屋さんに、どこかの製菓会社のポスターが張ってありました。何の商品のポスターかは忘れましたが、商品ではなく、それとは関係ない、普段着の女の子(たぶんモデルさん)がポーズをとって大写しになったポスター。可愛い。キュート。二十歳前の男の子なら誰でもそう思うような、きれいなポスターでした。ある日、意を決してパン屋さんに入り、「このポスター、いらなくなったらいただくことはできませんか」と訊いてみました。
パン屋さんのおばさん、たいへん困った顔をして、「すみません、近所の工業高校の生徒さんから、もうそういう申し出が何人もありまして…」とのこと。きっと、いつもパンを買いに来る16,7歳の高校生がそういうお願いをするのはわかるけど、この大学生、勉強もしないで何考えてるんだろう…そう思ったんじゃないかな。
シーナ&ロケッツの「ピンナップ・ベイビー・ブルース」では、歌の主人公は、地下鉄の駅のポスターの、水着姿の女の子に恋をします。生身の女性ではなく、ポスターのなかでほほえむ女の子をさらってどこかへ行きたい、というあてどのなさ、そのまま、当時の僕の心象風景です。
久しぶりに聴きたくなってCD棚を探しました。40分ほど「ここでもない、ここでもない」と探索した挙句、眼の前にあるのを発見。オリジナルLPは1981年9月5日発売『ピンナップ・ベイビー・ブルース』。ただ、このアルバムに収録されてるのは、シングルとはヴァージョンが違うんですよね。シングル・ヴァージョンが聴きたいなあ。ベスト盤とか買えばいいんでしょうかね。
ピンナップ・ベイビィ
お前をはがしてさらってゆきたい
ピンナップ・ベイビィ
お前をはがしてさらってゆきたい
(作詞はなんと、今調べると糸井重里氏です)
作者: russiansf
更新日:2008年7月31日 21時45分