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トップ > ブリーダー > ブリーダー - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年11月22日 7時)

そういやそろそろはじめて1年じゃねえかと思って履歴を見たらすでに開設日は過ぎてた件

まあ1周年だからといってなにがどうしたということでもないのだが、ともあれ過ぎてしまった原因はまちがいなくふたつ前のエントリであって、『リトルビッグプラネット』をやりながらオートセーブに注目するという着想を得るまではわりと早かったもののそこからふつうのセーブやギャルゲーのセーブに対応させる構成を組み立てるのに2~3日かかり、ようやく文章を書きはじめてから1週間近く費やしてなんとか仕上がったという具合だから、開設日を気にするタイミングなどこれっぽちもなかったのであった。

1年経った。たかが1年ではあるけれども、初期のエントリなんかをぼんやり読み返してみるとやっぱりなんとなく雑に書いているところがあって下手だなと感じる部分が散見され、いや今うまくなったのかといわれればそれはともかく、とはいえ格好のつけかたくらいは覚えたという自負はあるし少なくとも下手の度合いは下がっているといってもいいんじゃないかと思うところ、無駄にひとつ年くったわけではないようである。

***

時間がかかる原因は単純に文章が長めだからだが、それについて。「サイオンジ探偵社」さん(ブログを始めて得た最大の可視的な収穫はここを知ったことだ)経由で「ブログ。長文を書くとき気をつけたいこと。」(「かみんぐあうとっ」)という話に辿りついてみるといきなり冒頭から「1.長文は好まれない/2.長文を最後まで読んでもらうには、工夫が必要」とあって、うんまあそうだよねえと、そのあとに説明されているような「工夫」をなんもせずに読んでもらえない文章を書きつづけている身としては深く頷いてしまうのであるが、なにせわたしは古い人間のために本(紙)をベースに思考する癖が染みついているから8000字の文章でさえとうてい長文とは思えず――だって8000字ってたかだか原稿用紙20枚で、一般的なハードカバーの本に換算すると10ページ強、見開き5~6枚分ってところなのだから、その20枚書くのにどれだけ時間がかかっているんだと考えればたしかに苦労はしているのだがそれも原因は自分の力量不足であり、やはり「長文」を名乗ることさえおこがましいというか恥ずかしいというか、そういう落ちつかない心持ちになるのである――、2000字くらい書いただけだとあまりの短さに強迫的な不安感に襲われるので長めに書いてしまうことは避けられそうにない(リンク先では長いと誤読可能性が高まるといった趣旨のことをお書きだが、誤読という概念の存在を認めるとして、いやしかし短いほうが誤読されやすいのではなかろうか)。始めた当初はそうでもなかったんだけれども、やっぱり批評にはそれなりの字数を費やす必要があるとも思うし……というのも考えが古いのだろう。

ただPCの画面で文字が読みづらいという事情を別にすれば、長文のブログ、あるいはウェブサイトが好まれない事情というのはけっきょく読者の覚悟に帰結するんではないかとも思う。おおむねの傾向ということでいってしまえば、やはり本の「読む」という文化に対してインターネットは「知る」文化に強みを持つ。マスコミとインターネットが対置されやすいのは、ともに知という概念を取り扱い、しかしその方法論において正面からぶつかりあうからだ。あるいはこれまで本がやってきたことにしても、小説や漫画より辞書や学術論文のほうが先にインターネットに適応したのは、やはりそれが知に特化した分野だからである。本は読むことそれじたいが目的とされる(ことが多い)が、インターネットではまず知ることが先に立ちやすく、読むことはその手段である(割合が高い)。とくに「検索」というシステムは、使用者に知ることへの欲求を満たそうとする動機を強く喚起し、そのくせ使用者の欲求とは無関係に検索結果をフラットに表示する。本を買わないまでも手に取るひとはその本に少なからず意識が向いているが、ブログの訪問者は自身の欲求と無関係にただやってくることもある。そういう完全なる無関心の人間を引きこむのがブログ主の力かもしれないとはいえ、しかしやはりそれは至難の業だろう。

「読みたい」と「知りたい」はちがう。そして少なくともわたしは書いたものを情報の断片ではなくひとつのパッケージの「文章」としているつもりでいて、本的思考にもとづいて「「読むという行為」に対して書きたい」と思う(書いたものを読んでほしいとはあまり思わない、というのも書かれてしまった以上は読者のものである、とバルトっぽく)から、それを目的としないひとが無関心でいるのは仕方ないという覚悟でいる。このブログであいかわらずアクセスが集まっているのエントリは「ギャルゲーの憂鬱」で、それは「吉祥寺 ヨドバシ エロゲ」などのワードで検索してくるひとが多いからだが、彼(女?)らが吉祥寺のヨドバシカメラでエロゲーを取り扱っているのかどうかを知りたいだけだとするならば(ちなみに扱っている、とこれが情報ということになろうか)そのほとんどはろくに読まないままブラウザの「戻る」ボタンを押して去っているにちがいないし、二度と訪れることもないだろう。いや確証もないまま断定するのは定着してくれたひとがいた場合に失礼だとは思うがしかしシステム上はそう考えた方が自然なはずである。それはエントリの内容が情報を得たいと思っている閲覧者――たぶん、「読者」ではない――の目的に合致していないことと、文章が目的以外のことに無関心な人間にまで訴求するほどの魅力を持たないこと、どちらにしろ書き手の責任ではあるがふたつの意味で仕方ないことだ。

ブログ。長文を書くとき気をつけたいこと。」でいわれているようなことは、検索などでふらっと立ち寄るような関心の度合いが低いひとを引きこむ技術だと思うけれど、たぶんそういうひとはもともと長文との相性があまりよくない。能力とか興味云々ではなく、求めるものが送り手と受け手ですでにすれ違ってしまっているからだ。だからわたしはこの問題を、読むことそれじたいを目的とする「読みたい」ひとがいてなにかの拍子でここに辿りつき、さらに文章がそのひとの求めるレベルに幸いにも届くならどんな体裁でも読んでもらえる可能性があり、また「読める」ということがわかれば今度は訪問が継続されるかもしれない、という程度のこととして考えてしまうし、どちらかといえばそういうひとの欲求にこそ忠実でありたい(ええもちろん短く書けないことについての弁解ですが)。それはわたしもまた「読みたい」人間にほかならないからでもある。

と言い訳を並べ立ててブログに最適化しない書き手であることを宣言してしまったわけですが、でもまあ実際こんなややこしい文章を読んでくれているかたもいるようだし、仕事もなんとかこれ以上は忙しくならず意欲もそれなりに残っているので、いまの更新ペースを保てるかどうかはわからないもののまだしばらくはやめずに続けていきたいと思う。それでは2年目もよろしくお願いします、とほら気づけば長くなっている。

奇跡の集中更新でした。これ以上はむりぽ。書く契機となる素材がない。

作者:DNF

更新日:2008年11月20日 1時29分

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(アニメに)「批評」は必要か

否定的なもののもとへの滞留」という、最近開設されたすばらしいアニメ批評ブログがある(しかしジジェクとは渋い――わたしも好きですが)のですが、そこで読んだエントリ「アニメに「批評/評論」は本当に必要か?」について、思うところがあったのでつらつらと。ある程度厳密性を犠牲にして感覚的に書いてしまいますので、その点はご容赦ください。トラックバック前提のエントリであることもあり、たまには敬体で書いてみることにします。

さてリンク先のエントリでは、また別のブログ「海ノ藻屑」をもとにしてアニメ批評の可能性を語っていらっしゃるのできちんと読んでいただきたいと思います。ここでなんとなく反応してみたいのはそのうち2、3、4、8といったあたりの論点についてです。

さきにわたしのスタンスをはっきりさせておくと、辞書的な意味はさておき批評(criticism)は価値を判断するものではないという立場をとっています。それはある対象によりかかって寄生するように存在するものではなく、単体で独立する言論行為である、という考えを強くもっているわけです(そして少なくともその意味においてならば、「批評はそれそのもので自律した論理をもっている独自のジャンルです」という東浩紀は正しいと思ってもいます)。批評は語るべき対象にコミットして「褒める」とか「貶す」などといった矮小な評価を下す程度のことをなすために存在するのではありません。わたしもつたないながらゲームの批評のようなことをやったりしているわけですが、そこではおもしろい/つまらない、良い/悪いという観点は持ちこまず、構造の共通点や逆に相違点などを取り出しアナロジーなどを用いて世界を語るように努めています(『AFRIKA』を口を極めて罵っていただろうという話は措きましょう。さりとて、あれも問題がなぜ起こりうるのかという関係を考えるのが主でありました)。対象に内在している価値を判断するのが批評活動と思われがちではありますが、しかしそうではない。ずっと前のエントリ「ゲーム機は世界の境界に構えている」でも書いたように、批評が、「滞留」さんのひそみに倣って「強度」ということばを使うなら、それを持つのに必要なのは外部性です。徹底的な外部から対象を解体し、ほんらいそれが意図しなかった価値を「創出」したり世界の相貌を見出そうとしたりする営みが批評となります(それはまさに「滞留」さんがやっていることでもありましょう)。ちょっとテクスト論によった考えかたではありますが。

批評の価値が「なにについて語っているか」に左右されず、語る対象から新たな解釈を生み出して世界にフィードバックしているかで決まるのならば、アニメ批評という活動では「世界を語るためのツールとして批評がアニメを選んでいる」のだといえます。その意味で東の「蓮實重彦が映画を選んだのは[…]彼の批評にとって[…]映画が利用できたから」ということばは、一面の真実を表しています。蓮實は実際、批評理論を援用しながら(草野進として)野球をも鮮やかに切り取ってしまいました。優れた批評はしばしば対象を超越しますが、そのとき批評それ自身が独立した新たなテクストとなるのです。

だから、アニメ批評がほんとうに「批評」を引き受けようとするのなら、向かう先はあくまで「アニメの場」ではなく「批評の場」であるべきです。ゆえに、2の「批評を発表する場所」は、それをパブリッシングされているものと捉えるなら「アニメ雑誌」ではなくむしろ思想誌や文芸誌だと思います。そしてそのような場は息も絶え絶えながらまだ生きています。場所は「ある」のです。東が深く関わっていた『批評空間』こそ内藤裕治の夭逝によって絶えてしまいましたが、たとえば『現代思想』『ユリイカ』(押井守の特集とかはしていましたね)などでもよいわけだし、あるいは大手出版社が発行する文芸誌なら、できのよい批評を受け入れる余地はまだかろうじて残っているでしょう(ところで『ダカーポ』『論座』『広告批評』『読売ウィークリー』(ママ)ってどれも文芸誌に属するものではないと思うのですが、というのはその概念を狭く捉えすぎですか)。大手ではないし題材もアニメとは違いますが『早稲田文学』に石川忠司の『Hunter×Hunter』分析が載ったこともありました。こういった場所は批評を批評として受け取ります。そして実例があるとおり、優れた(と編集者が判断した)批評の語る対象がアニメだったとして、それはきちんと採用されるでしょう。そこをアニメ批評の入っていく場所ではないと拒否するのはたぶん批評家の怠慢だし、アニメ雑誌を離れては生きられないのだとしたら、それはもう批評ではないのです。

だから、3「アニメ業界が批評を好ましく思ってない」というのも、批評の側からしてみれば知ったことではありません。「アニメ批評をするということは[…]アニメ業界の狭い世界で仕事をしていくこと」という前提から逃れてしまえばいいことです。業界にいないと版権画がもらえない? そもそも批評に静止画が必要かといえば、そんなことはないでしょう。アニメ誌にとって絵の有無が死活問題となることは理解できます。ですがアニメ批評はアニメ業界に嫌われたところでいささかの痛痒もありません。作品を批評家にだけ見せないようにすることなどできませんから、彼らは粛々と公開されたアニメを観て、みずからの手でそれを解体すれば済むことですし、その結論を発表するパブリックな場もアニメ業界から圧力をかけようのない雑誌です。「批評」を書くことで、アニメ業界の顔色をうかがう必要はなくなるのです。

さて、4にも絡んでくる話ですが、そのように優れた、本物のアニメ「批評」が誕生したとき、そこにどのような読者が存在するでしょうか。たぶん残念ながら、当初想定された「アニメファン」ではなく、「批評好き」ということになるでしょう。もしかすると文学の研究者がおもな読み手になるかもしれません。しかしそれは、批評がその「強度」によってあらゆる対象を観察でき、世界全体を見渡すことさえできる営みである以上とうぜんのことです。アニメ批評は批評であるがゆえに、その他の批評と同列に並びます。それはもはやアニメだけをターゲットにできない。しかしその代わりに、世界という視野を手に入れることになる。

だから――思いつくままに書いてきてしまいましたが、こういってみることにしましょう。「アニメに「批評/評論」は本当に必要」だ、ただしそれはアニメだけでなくアニメを含むすべての世界のために必要なのだ、と。

***

で最後に8。文芸批評家も食っていけないという罠。いや食っていけないということが参入の阻害になるなら(これはただの条件節ですが)なんで文芸批評家は存在するのだろうと思うわけですよ。


(追記)誤解のないよう書いておくと、批評が対象と独立しているというのは、けっして批評と対象が無関係という意味ではありません。おたがいが相手のテクストの価値を侵食することなく自らの価値を高めていく高度なせめぎあいと考えてください。

(追記2)ところで今回の内容をふまえたときに、アニメ批評における最高の人材となれたかもしれないのは、やはり東浩紀だったのかもしれません。彼がほんとうにアニメ批評を引き受けようとしたのなら(デリダ論においてそうだったように)思想の賛否は別にして尊敬すべき批評家になれた可能性はあった。しかし残念ながら現状はそうでない。「滞留」さんの失望と「東浩紀の文章を批評する日記」のエントリ「東浩紀の批評が嫌われるわけ」の怒り、けっきょく両輪において東は失敗したということでしょう。その点については、というとアニメ批評にかんする東浩紀の仕事ほとんどぜんぶということになってしまいましょうが、わたしも彼を評価する気になれません。

(追記3)そもそもそういう意味での「批評」を前提としてねえんだよ、といいたくなるかもしれませんが(その可能性高し?)、そこは勘弁していただきたく……。書き終わってから読み返してみるとほとんど理想論であって、現実の問題をなにひとつ受け止めていない気がするんですが、書くのに費やした5時間の意義を証明するためにもえいやと投下してしまいます。

作者:DNF

更新日:2008年11月18日 2時8分

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セーブすべきか、なされるべきか

「ゲームにとってセーブとはなにか」についてあれこれ考えていたら原稿用紙に換算して20枚以上のエントリになってしまいました。分割しようかと思いつつも一気に述べてしまったほうがよいと結論づけた次第で、読むのが面倒かもしれませんが興味がおありでしたらおつきあいいただければ幸いに存じます。

***

『リトルビッグプラネット』をプレイしていて、内容ではなくどちらかといえば外形的な構造の話なのだが、プレイの最中おおいにとまどったことがひとつあって、それは「セーブができない」ということだった。正確にいえばもちろんゲームの状態を保存しない/できないわけではなく、完全なオートセーブになっていてプレイヤーが選択すべき「セーブ」、そしてそれとセットになる「ロード」のコマンドが存在しないだけなのだが、あたりまえのようにセーブするという作業を身につけている身にはどうも心許なく、ひさかたぶりに乗るAT車で左足の置き所をなくして落ち着かなくなるのと似たような感覚に襲われる(*1)。しかもこのゲームはセーブしているはずのときでも小さな表示しかでないうえに操作も受け付けているため、ほとんど気づかないあいだに保存が完了されるから、最初に電源を切ろうとしたときはひととおりボタンを押してコマンドがないことを確認し、説明書も読み返してからようやく、しかしそれでも不安を残しながらようやくコントローラのPSボタンを長押ししたのだった。翌日、再度起動したとききちんと直前の状態からはじめられたときはほっとして、あらためて時代が進んだことに感心もしたが、同時にそこではじめて「セーブする」という行為について考えることになったのである。これまで深く考えずにあたりまえのようにおこなっていたセーブだが、行為を失って――オートセーブはたしかにセーブを失っている。記録ではなく、記録するという行為において――はじめてその意義を捉えようとするというのは、ありがちとはいうものの、やはり皮肉な話にはちがいない。

そもそも「セーブ」とはなんなのだろう。それはまず、だれもが考えるように、字義どおりゲームのなかの定まった状態を保存・記録することである。われわれはゲームとは別の、ふだんは「現実の」といわれる世界で生存のための活動を行っていて、ゲームだけにすべてのリソースを注ぎこむことはできない(そうしてもいいが、まもなく死ぬ運命が待ちかまえているにちがいない)。プレイヤーはいつでもいつまでもプレイヤーでいられるわけではないからかならずゲームの中断を要し、その前後を接続するのがセーブという行為ということになる。ひとまずは簡単な話だ。

もちろん単純に捉えればこれはたんなる記録であって、それ以上に積極的な意義はないととりあえずはいうべきだろう。おのおののプレイヤーがゲームをできる時間は限られており、1回のプレイでクリアしきれないゲーム(現在はほとんどがそうだ)の場合セーブができないと電源を入れ直すたびにおなじところを延々と繰り返さなければならなくなる(「そしていつもおなじ場所で死ぬ」と歌うわけではないにせよ――しかしエアーマンってそんなに強かったかな、いやそれ以前にわたしはヒートマンステージをアイテム2号なしでクリアできた)。初期のアクションゲームにステージスキップ要素が多かったのはセーブが不可能なことの裏返しでもあるだろうが、ゲームが拡大する以上、記録と呼び出しは不可欠なものにならざるをえない。べつに話をゲームやデジタルデータにかぎらずとも作業を中断するときにはその状態を保持しておかないといつまで経っても終わらないわけで、セーブとは必要性に呼応して搭載された必然的で最低限の機能と捉えるのが正しいにちがいない。

そういう意味で、セーブというのは技術的な発想であり、そこに語るべき構造などはないとふつう思われている。だがさまざまなゲームにおいてそのありかたは一様でないし、作る人間と使う人間がいれば機能に思想が付与されるのも自然の成りゆきである。たんなる「記録」に過ぎないはずのセーブという行為は、しかし搭載されてだれもが使うようになった時点で新たな意味を持つようになっているのではないか。セーブ/ロードの形態をみっつほど挙げて比較してみようというのがこのエントリの目的となる。


1. 世界のコネクタとしてのセーブ

セーブとはたんなる記録であって、そこに「再開時に前回とおなじ状態から始められる」こと以上の意味はないと思われる。だが、その「おなじ状態」というのはことのほか重要な要素ではないだろうか。なぜならわれわれはある瞬間にゲームをプレイしているとき無意識のうちに直前の状態を前提としていて、それが現在の振る舞いかたに移行して組みこまれているからだ。たとえば、アクションゲームでジャンプした瞬間やレースゲームで走行中にポーズをかけて別のプレイヤーに交替したら再開後にミスをする可能性はかなり高いだろう。べつにアクションの要素がなくてもかまわない。少々極端かもしれないが、しかし他人のRPGのセーブデータを引き取ってプレイすることも、たいていの場合は不愉快ではないか?――たとえ2周目のプレイなどでストーリーをすでに知っていて、物語に対する混乱が生じていなくてもだ。その不快感は、パーティー編成やキャラクター育成の仕方といったプレイスタイルやゲーム観の大きな齟齬や、特定のアイテムの有無および所持金の多寡といった彼我の差から引き起こされる小さな違和感の蓄積などによってもたらされていると考えられるわけだが、つまりけっきょくのところ現在の状態を過去からの連続性に求められないところに問題が帰結するだろう。単位時間の切り方がアクションでは細かくRPGでは大まかになっているにしろ、振る舞いの断絶によってゲームをプレイできなくなることに変わりはない。たとえおなじゲームであっても、プレイヤーがちがえばそこに構築されるのはもはや別の運動、別の世界である。

こういった想定から理解されるように、ひとつの振る舞いに対応できるプレイヤーはつねに1人ということになる。逆にいえば1人のプレイヤーを受け止めるにはひとつの連続的な世界が必要であり、プレイヤーが同一であり続けるならばゲームのほうも一貫している必要がある。「おなじ状態から始められる」ことがセーブ/ロードの意義だとするならば、そのシステムによって「世界の一貫性」をゲームの側から保証されていると考えることが可能だろう。それは時間軸に沿ってゲームの進行という1本の線を縦に引いていくときに設定されるコネクタのような機構だ。ゲームを中断するたびに線はいったん途切れるが、切れた線の先にはプラグ(セーブ)がついていて再起動のさいにジャック(ロード)へと接続され、総体として運動・世界・物語の連続性を保持する。また、そうやって保持されるからこそRPGなどにおいて「ボス戦の直前でセーブしておく」ということも許容される(それは辿ってきた線を少し戻るだけで、一貫性はいささかも失われない)。この意義はもはやたんなる作業状態の保持にとどまらない。セーブ/ロードすることによって、われわれは世界への一貫したかかわりを拒否されることなく「プレイヤー」でありつづけられる。昨日の自分と今日の自分がおなじだという無意識の前提は、セーブという機能によってのみ保たれている。われわれがその事実に無自覚のうちに甘んじているとしても、それはけっして軽視されるべきものではないのである。


2. 回帰地点としてのセーブ

さて前節の話は、どちらかといえばセーブ本来の機能の延長上にあり、そこから大きく外れたものではない。だが、セーブというシステムはまた別の展開を見せている。それを象徴する存在としてギャルゲーを照射してみることにしよう。わたしのギャルゲーのプレイ経験はとても豊富といえないものだが、それでも管見のかぎりでは、あるいはネットで調べた範囲で述べるなら、このジャンルにおいては非常に多くの、それこそ何十といった単位でセーブデータのストックを置けるようになっていることが一般的のようである。これは一見するとあきらかに過剰なデザインだが、ギャルゲーはたしかに意図してそれだけの量を用意しているように思える。そのことはなにを意味するのか。

機能的な観点からいえば、この設計はおそらくギャルゲー自身の構造と密接に関係しているにちがいない。ビジュアルノベル形式を採っているギャルゲーの場合、ストーリー(ギャルゲーの場合、唯一ストーリーが世界の流れを規定する要素である)の一般的な基本構造は先ほど述べたような1本の線ではなく「共通の導入部から選択肢によってストーリーが分岐し、各所でイベントが起こってそれぞれのエンディングに到達する」という具合にツリー形状をなしている。よってクリアする(すべてのエンディングを観る)には必然的に再プレイが要求されるわけだが、効率よくやろうと思うならいちど通過した共通部分を何度も見ることに意味はない(既読スキップの存在はその意識を証明するはずだ)から、ストーリー分岐の直前の状態を記録しておいて次からはそのポイントからスタートしたほうが合理的である。つまり、ギャルゲーにおけるセーブは繰り返しプレイを前提としている。もし選択肢が出てくるたびにストーリーが広がっていくなら(実際にはそこまで極端ではないにせよ)ゲームの進度に対して分岐地点の数はねずみ算式に増加していくことになるから、たしかにデータの置き場は数多く必要となるだろう。

また、「シーン回想モード」が搭載されていることからあきらかなように、ギャルゲーはクリア後のプレイヤーにお気に入りの場面をなんどでも観たいという欲求を強く喚起するジャンルである(それは○○に萌えたいという言説にひとまず回収してよいかもしれないが、本筋ではないので措く)。ただ仕様上の問題としてすべてのシーンが即座に再生できるわけではなく、たとえばわたしが最近プレイしたギャルゲーはPS2版『この青空に約束を』とPCの『群青の空を越えて』(戦闘機パイロットは憧れだから買ってしまったよ)なのだが両者とも回想モードに回収されるのは特別なイベントシーンのみであって、立ち絵で構成される日常のシーンはメニューから直接再生できないわけである。この仕様が一般的なものかどうかはよく知らないが――ただし調べてみるとべつにそのことについての悪評は見あたらないので、たいていこんなものなのだろう――、少なくともこの2作においては、回収されないお気に入りのシーンをいつでも見られるようにしたければゲーム上でその直前にセーブし保持しておくしかないということになる。このセーブはその意図からして上書きするわけにはいかないから、熱心なギャルゲープレイヤーにとってストックの数は多ければ多いほどよいことになる(*2)。

分岐のためと再鑑賞のため、ギャルゲーのセーブストックが大量に存在する理由としてはおおむねこの2点が考えられるわけだが(べつの観点を見落としているかもしれないので、お気づきのかたはご教示願いたい)、どちらの理由であるにしろセーブについての思想が前節で述べたそれとまったく異なっていることだけははっきりしている。前節で捉えたセーブは、切断された世界をコネクトしてプレイの連続性を保持し、結果的に1本の線を作り出すために存在した。世界はひとつであり、時間軸に沿って流れていくべきものであった。だがギャルゲー(に代表されるシステム)は世界の分岐のために(それとも萌えのために)、ある過去の地/時点を「回帰すべきところ」として積極的に設定する(*2)。世界は(女の子ごとに?)分かれていくものであり、過去は戻ってやりなおすためのものだ。これはさきほど述べた「ボス戦の前にセーブしておく」というような失敗に対して保険をかける行為とは決定的に違う。保険的セーブはあくまで戻らなくてすむならそれに越したことはないが、ギャルゲーには「積極的に」「肯定的に」過去を捉えようという発想が根底にある。ギャルゲーの構造は多世界的で、そういう世界を自在にプレイするためにセーブは回帰すべき地/時点の指標となるフラッグの役割を果たし、プレイヤーはロードすることで立てられたフラッグへとすぐさま向かうことができる。この場合のセーブ/ロードはいわばプレイヤーに与えらえた時空間を飛び越える装置である――世界が分岐する以前へ、または分岐した以後に並行的に生じた別の世界へ、それとも単純に帰りたい思い出の場所/ときへといつでも跳躍するための。ギャルゲーのセーブ/ロードは、その設計によってプレイヤーがゲーム内の多世界を網羅的に捉えるのを助けることになる(*3)。

セーブ/ロードが世界の跳躍装置になるということは、それが外部的なツールではなくゲームの構造そのものに組みこまれうることを意味する。その証拠に、ギャルゲーにおいてはもはや「どこでセーブしておくか」ということまでもが、つまりセーブ/ロードの存在そのものが攻略の要素となりえている(たとえばこのように)。これはセーブを線的世界の接続と捉えたままではとうていたどり着かなかった思考であり、その意義を高めた歓迎すべき進化といえるだろう。たかがセーブと侮ってはならない。ここではたしかに、機能がパラダイムを創出したひとつの好例(個人的にはギャルゲーがもたらした大きな意義としてその歴史に付け加えてもよいと思う(*4))を見て取ることができるのである。


3. 不可逆なオートセーブ

話を『リトルビッグプラネット』に戻そう。冒頭書いたように、このゲームでは完全なオートセーブが採用されており、セーブ/ロードについてはコマンドすら存在しない。ステージプレイ中でもときどき左下にアクセスマークが表示されるところを見ると、おそらく獲得したアイテムもすぐさま保存される仕様になっている。ストレスを微塵も感じさせないすばらしい設計だが、同時にそれはあくまで、世界を線的に見る立場においてのみいえることではないだろうかという疑問も湧く。

つまりこういうことだ。オートセーブとは、節目において以前の状態をプレイヤーの意思にかかわらず削除し、強制的に新たな状態に書き換える機能である。これはまちがいなく節(1)のモードとしては最適化が進んでいるが、しかし同時に節(2)の要素は完全に拒否されてしまっていることになる。オートセーブにおいてはつねに「もっとも最近の過去」のデータしか残されず、それ以外の地/時点への遡及がいっさい許されない。この強制性はかならずしも良好な進化とはいえないのではないか。たしかに便利ではあるかもしれないがしかし「機能としての利便性」にとどまるのみで、(オートではない)セーブ/ロードが獲得していたはずの「時空間の自由な跳躍」という大きな利点をみずから捨て去ってしまっているのだから。

十把一絡げにオートセーブに問題があると述べたいわけではない。ただおそらく構造的にそれを採用できるゲームは限られている。それを探るためにたとえばオートセーブのゲームの代表として『ダービースタリオン』シリーズを挙げてみると、ROMカセットを使用していた時代は週を送るごとに牧場・厩舎の状態が自動で上書きされていき、そのうえで『3』ではレース中に、さらに次作『96』ではそれに加えて平日にでも、リセットボタンを押すと強制的に翌週へと飛ばされ、リセットした週の行動はキャンセルされた(*5)。これはゲームの側からの「やり直しを許さない」という姿勢の表明であり、題材が競馬であることなどを考えてもその不可逆性を貫く態度には一定の信念が認められる(現実の競馬が不可逆に進行していく以上、それをなぞるゲームがリセットを駆使して有利な状態だけを保とうとするプレイをよしとしないのは当然だろう。『ダビスタ』においてリセットしないことは誠実さの証明であった……もっとも、「合理的な」プレイヤーはターボファイル(これまた懐かしい)を使用したうえであっさりとあの四角いボタンに手を伸ばしたにちがいないわけだが)。このシリーズにおいてはプレイヤーは過去へと戻りたがるが、ゲーム側が正当性の維持のためにそれを押しとどめようとしており、そのために強制的なオートセーブを必要としている。

あるいはくだんの『リトルビッグプラネット』の場合であるが、これはそもそもプレイヤーが過去に遡及する動機を持たないような構造になっている。ストーリーが分岐するわけではなく、またいちどクリアしたステージならいつでも再プレイ可能(むしろ再プレイを前提に作られているだろう)で、それが有利不利に影響しない。またスコアもオンラインにしろスタンドアローンにしろもっとも高いものが保持されるのでそれでかまわない。それにリビッツ(キャラクター)側に不可逆なパラメータが設定されていないから、「前の状態のほうがよかった」という後悔も発生しないようになっている。パラメータという意味では、リビッツのコスチュームは獲得したアイテムを使って自由に着せ替えられるわけだが、そのスタイルについては個別にセーブできるのもこのゲームがオートセーブを問題なく運用できることを逆説的に証明するだろう。つまり『リトルビッグプラネット』においてプレイヤーの意思で保存しておく動機が生まれる場面というのはせいぜいがリビッツの見た目を悩むときだけなのであり、それ以外では自動で状態が上書きされてもいっこうにかまわないわけである。

このように見ていくと、『ダビスタ』ではゲーム側、『リトルビッグプラネット』ではプレイヤー側という主体性の違いはあるが、どちらにも共通しているのは「戻るべき/戻りたい過去」の存在を拒否するか不要としていることであるとわかる。これらのゲームにオートセーブを搭載せしめるのは、徹底して過去を問題としない態度だ。『ダビスタ』の例からは節(1)に属する「線的な世界での保険的なセーブ」に対する許容度のなさが見てとれ、『リトルビッグプラネット』のほうからは節(2)で述べたギャルゲー的構造との相性の悪さが見えてくる。その意味でオートセーブの存在可能性はきわめて限定的だ。完全に1本の線で構成され不可逆性が問題とならないゲームなら、というよりもそのようなゲームのときにのみ、それは有効な機能なのである。

***

以上のようにセーブを概観したうえで結論めいたことを述べるなら、オートセーブは今後かならずしも主流になっていく機能ではないだろうと考えられる。少なくともRPGやギャルゲーにとってはあくまでプレイの補助的な存在にとどまり、けっしてそれだけですべてが足りるような存在にはならないはずである――なぜなら文字どおり「自動」のシステムだからだ。それがプログラムされた行為を繰り返すだけの営みであるかぎり、「同時並行的なツリー状の多世界のあいだを自由に飛び回り、過去への遡及を求める」というプレイヤーの積極的な選択を受け入れることができない。オートセーブのもとでは、ゲームは並行世界の観察や時間の逆行といった現実に対して圧倒的に優れている点を失ってしまう。それは自動であるがゆえにプレイヤーに使ってもらえず、システムとしてただ一方的に時間を下ることを強制的に要請する。機能が人間に使われることによってその機能性を拡張するならば、自動化された機能はシステムに沿って回る歯車以上の価値を持たないだろう――歯車としての価値は高くとも。その意味で、オートセーブの弱点はまさにその存在理由であるはずの「オート」の部分に隠されているというべきだと、とりあえずいまの時点でという留保はつくものの、思われるのである。

(*1)それはひとつに、セーブすることもまたゲームのプレイに取りこまれた儀式だからでもあろう。なお参考、8/20「そして儀式は蘇る」。
(*2)すべてのシーンがすぐ見直せるならこの意味でのセーブストックはたいして必要ないことになるが、そういうゲームはあるんでしょうかね。
(*3)このとき、どの世界(=攻略キャラ)に飛ぶにせよゲームがスタートからプレイされていることに変わりはない。つまり、一貫性は失われていない。
(*4)もちろんこの考えかたはギャルゲーに限らず通用するだろう。だがもっとも一般的に採りいれているのはギャルゲーにちがいない。
(*5)おなじことは『DS』でもできると思うが、買っていないのでどうなっているかは知らない。

作者:DNF

更新日:2008年11月17日 0時26分

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リトルビッグプラネット

発売前に一騒動あった『リトルビッグプラネット』、無事の発売は慶賀に堪えない。とうぜん買ったばかりでまだ導入部しかプレイしていないが、にもかかわらずいってしまっていいだろう。

このゲームが生まれたというだけでもPS3の存在意義はある。いや、あるいはむしろ――このゲームを生むためにPS3は作られた。

これはそういうだけの価値があるゲームだ。

作者:DNF

更新日:2008年10月30日 22時49分

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続・ブリーダーズカップの思い出

前回の続き。

仲間内5人で『ダービースタリオン』(以下『ダビスタ』)の「ブリーダーズカップ」(以下BC)大会を開催するにあたって、27のレースを9カテゴリーにわけて設定したという話であった。あらためて書くと体重の重い馬、中間、軽い馬の3階級でそれぞれ(1)ダート、(2)1200mのスプリント、(3)1800~2000mの中距離、(4)2500~3200mの長距離、(5)牝馬、(6)牡馬、(7)1600mのマイル、(8)2400mのチャンピオン、(9)皐月賞、ダービー、菊花賞を模したクラシック、となる。

さてBCのフルゲートは16頭であり、参加者が登録していた馬の数の総計はそれよりはるかに多いから、とうぜんながら出走馬を選抜しなければならない。しかしただたんに最初に予選をやった結果で上位16頭を決めて全27レースを戦わせるのはすこし単調だし、予選だけで終わる「死に馬」も大量に出てしまう。さらに大会の優勝は「もっともポイントを多く獲得した参加者」に与えるということになっていたから、極端な話2~3頭強い馬を作って出せばそれで済んでしまう可能性もあった。もちろん、それは『ダビスタ』が上手いということと同義なのでそのことじたいに問題があるわけではないのだが、どうせならプレイヤーの総合力のようなものを顕在化させ、上手なプレイヤーが正当に報われるという基本原則を維持しつつ、しかし最後まで波瀾も起きる可能性を残すような方法はないだろうか、と考えて決まったのが以下の方式である。

(1)1人の参加者は、1階級12頭まで、3階級合計30頭まで大会登録できる。
(2)出走馬は、1頭につき5カテゴリーまでエントリーできる。ただし、牡牝限定カテゴリーは性別に応じて強制登録。
(3)1カテゴリーの登録数が17頭を超えた場合、予選を行う。予選は抽選で3組に分け、各組5着以上+敗者復活戦1着の16頭が各カテゴリーの決勝3冠レースの出走権を得る。


(1)は物量作戦を禁じ、各階級のバランスが偏らないように予防線を張っただけのものであまり本質的な意味はない。最大のポイントは(2)で、それに(3)が付随するかたちになるわけだが、1頭の馬が8カテゴリー24レースすべてを走るのではなく、最大5カテゴリー15レースに制限したうえで、全体一括ではなくカテゴリーごとに予選を行ったのである。1頭が走れるのは全体の6割までなので、こうなると極端な少数精鋭作戦は通用しない。ある程度登録馬の層の厚さがないとポイントを拾えなくなるから、中堅の馬を捨てずに育てるといったプレイヤーの地道な努力がすこし報われるようになったといえるだろう。力が劣っていても適性があえば1カテゴリーだけでも決勝進出の可能性が出るようになったこともあり、全体の顔ぶれも豊かになった。

ただし1頭最大6割しか走れないとなると盛り上がり欠ける事態に陥る可能性があった。強い馬が各カテゴリーに分散してしまい、直接対決が回避される危惧があるからだ。終盤に優勝候補が走らず、だらだらと進むのでは興が醒めるし本末転倒である。そこで、それまでは(かつての)F1にならって10-6-4-3-2-1と設定していたポイントシステムにひと工夫を加えることにした。

・カテゴリー(1)~(4):1着から6着まで、順に10-6-4-3-2-1ポイント。カテゴリー3冠制覇でボーナス20P
・カテゴリー(5)~(6):1着から6着まで、順に10-6-4-3-2-1P。3冠ボーナス15P
・カテゴリー(7)~(8):1着から7着まで、順に12-8-6-4-3-2-1P。3冠ボーナス30P
・カテゴリー(9):1着から8着まで、順に15-10-8-6-4-3-2-1P。3冠ボーナス40P


3冠ボーナスはほんとうにおまけみたいなもので、特徴は着順ポイントを傾斜させたことにある。見てのとおり1600m、2400mという競馬の基幹距離でのレースをやや厚めにし、さらにクラシック3冠に相当するレースには通常の2倍近いポイントを与えたわけだ。傾斜をつけることで手持ちの最強カードを優先的にポイントの高いカテゴリーに振りむける動機が生じると踏んでの設定だったが、個人的にはこれが会心のアイデアだったと思う。ポイント期待値を考えれば多少相手関係が厳しくても後半カテゴリーに参戦する合理性が生じるからクライマックスに強豪が集結することになったし、それを踏まえてなおポイントの低いほうを狙うのもいて、それはそれでほかの参加者の隙を突こうとする意思がはっきり見て取れて興味深かった。

もちろん問題がないわけでもなくて、最強クラスの馬の最適戦略がけっきょくのところ「カテゴリー(1)~(4)のどれか1つを使って、(7)(8)(9)にぜんぶ出る」にほぼ限定されてしまうことは、やや戦略の幅を狭めたというほかない。ただこの問題は『ダビスタ』側に起因するところが大きく、スピードとスタミナを兼ね備えていればどんな距離でもこなせるうえ、勝負根性が高ければいくらでもなんとかなってしまうという残念なシステムによって(まあしかし、シリーズ通してこのような仕様ではあった)距離適性の概念がほとんど意味をなさなかったことが「とにかく得点の大きいところにいく」という選択を優位に押し上げてしまったわけである。1600と2400にある確固たる距離の壁が存在すれば(もちろん両方こなす馬がいてもいいわけだが)エントリーが適度にばらけ、それぞれにポイントを重ねたうえでクラシック3冠に集結しつつ雌雄を決する、なんてことも期待できたものの、そこまで望むことはできなかった。とはいえ実力が拮抗していればそれぞれのカテゴリーで接戦にもなるので、致命的な瑕疵になるほどではない。

ともかく実際、最終的にできあがったこの「エントリー制限」と「ポイント傾斜」という2大システムによって、大会ではさまざまな戦略と思惑が交錯し、大きなドラマも生んだ。豊富なコマを活かすため徹底的にバランスを重視して王道を進もうとしたり、力不足でも一矢報いようと前半にリソースを集中させて逃げ切ろうとしたり。あるいは少数の強豪を後半に集めて大量得点を狙いにいき、しかしもっとも大量の得点を狙える最終カテゴリーの予選でするはずのない敗退を喫して苦境に陥ったものもいた。苦しい戦いが予想されるなか人気薄ながらだれもが予想しえなかった3連勝で3冠ボーナスを獲得し、それが最後まで効いてチャンピオンに輝いた、なんて事例もある。以前書いたとおりそんななかわたしは全大会で馬主ポイント1位を譲らなかったわけだが、結果は結果として楽しめて、休暇中のよき一大イベントになったのであった。

そんなわけで少々の欠点が存在することは認めつつも総体的にはかなり優秀な大会システムが構築されたといってもいいはずで、参加者のレベルに差がなければ盛り上がることは保証する次第である。まあ本気で3階級(出馬表や記録なども残しつつ)開催すると実働にして20時間はかかる、という点からあまりひとに勧める気は起きないのだが、体力と情熱があり、しかもその2つをおおむね自分とおなじくらいのレベルで備えている友人が4~5人いるなら――参加者のテンションがちがってくると喧嘩になりやすいのですね――いちど遊んでみてもいいかもしれない。徹マンに似た疲れが残ること請け合いではあるけれども。

……さてこの年末、なかなか会う機会を作れなくなった旧友とホテルでも借りてひさびさに開催しようかという計画が持ち上がっている。いや30も近くなってきてなにしてんだという話ではあるのだが、そんなふうに旧交を温めるのも悪くないかと思うところ、記憶の整理と予習のためにこんなことをしていたな、という思い出を書いてみたのであった。

作者:DNF

更新日:2008年10月20日 1時8分

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ブリーダーズカップの思い出/アメリカのそれではなく

だいぶまえにすこし触れたが、高校1~2年のときにぼくと周囲4~5人の友人が必死に取り組んでいたゲームは、まちがいなくPS版の『ダービースタリオン(以下ダビスタ)』であった。もちろんみなが独立に熱中していたわけではなく、このゲームを一気にメジャーたらしめた「ブリーダーズカップ」(以下BC)モードでそれぞれに育てた競走馬を対決させるために昼夜を問わずコントローラを握っていたわけである。高校生のときは半年に1回、たぶん3回ほど仲間内で「大会」を開催したし、卒業してからも(まあそもそもみなべつの高校に通っていたからそれほど頻繁に会う間柄というわけでもなかったのだが)気が向いたときに集まったりして、都合8回の大会が行われた。中学生時代は『ダビスタ3』でもやっていて、それを合わせれば12回に及ぶ。エクセルに当時の結果がまとまっているが、見返してみると馬名の付けかたなどにも時代を感じたりして、感慨深い。

さてそういう集まりのときにルールを策定するのが仲間内におけるぼくの役割で、それは事務的な作業を押しつけられたわけでなくむしろそういうものを整理するのが好きだったからだが、ともかくも開催をこなすたびに中学からの友人2人とともに運営アイデアを出しあい、終了後に反省点を洗い出してはより洗練された大会レギュレーションを構築していって、ほぼこれ以上はないだろうというものを作りあげた。おそらく「大会としての完成度」という意味において――『ダビスタ』のゲーム特性と適合しているかという問題はまた別なのだが――ぼくらのBC運営レギュレーションを超えるものはそうないのではなかろうかと自負するところである。今回は(ネタがないことをごまかすために)それを紹介してみることにしたい。

大会をやるからにはもちろん優勝馬と優勝馬主を決めることが目的となるわけだが、ぼくらは子供のころから「実力のあるものはそれを正当に発揮し、能力を評価されるべきである」という思想をもっていた――それはたぶん、ビワハヤヒデやベガがクラシックを戦い、さらに翌年ナリタブライアンが3冠を達成したころに競馬を見始めたことと無関係ではない。つまりクラシックの主役と目された馬が順調に勝利を手にするところに競技の正当性を見出して、強い馬がその能力をスポイルされることなく出し切ることによって公平性は担保されるのだと、ぼくらは語り合っていたのである――ので、当時やたらと刊行されていた若年向けの競馬雑誌(いまはほとんど残っていないだろう。現実の競馬の売り上げも絶頂期だった)で開催されていたBC大会のような「予選上位が勝ち上がって決勝一発勝負で優勝馬決定」という方法は運の要素が強すぎると感じて採用する気になれず、モータースポーツが好きだったこともあって初期のころからF1に代表される「チャンピオンシップポイント制」を導入していた。はじめのうち(当時は『ダビスタ3』だったので、12頭立て)は予選をおこなって勝ち上がった12頭をさまざまな条件で10レースほど戦わせ、各レースの1着から6着まで順に10-6-4-3-2-1ポイントを与えて総合順位を決めるという単純なものだったが、回を追うごとにその形はシャープに、しかし同時に複雑になっていった。最終的には以下のようなものである。

(1)各自の所有馬を体重別で3階級に分ける

『ダビスタ』は直線での加速が馬体重に依拠していたため、重い馬は勝ち目がなかった。その不公平をなくすために重い馬どうし、軽い馬どうしが戦うようにしたわけである。ヘビー級は475kg~、ミドル級は445kg~475kg、ライト級が~445kg。奇数なのは各階級の境界をわかりやすくして登録整理のときのミスを減らすため。またミドル級のレンジが狭いように感じるが、登録馬の馬体重分布でバランスがとれるのはこのあたりだっただけのことで、とくに意味はない。たしか境界も大会ごとに変えていたと思う。

(2)レースを条件別にカテゴライズする

1:ダート
2:スプリント
3:中距離
4:長距離
5:牝馬
6:牡馬
7:マイル
8:チャンピオンディスタンス
9:クラシック

の9カテゴリー(以下Cと略すことあり)を設定。開催順もこのとおり。

(3)各カテゴリーに3冠レースを設定する

むかしのぼくらはむやみに競馬に「ロマン」のようなものを感じたがっていたから(まあ厨二病みたいなものだ)、「3冠」という概念に奇妙なほどシンパシーを抱いていた。ぼくらにとっては「3つ勝つこと」が強さの証明だったといっていい。とうぜんながら各カテゴリーでのリーダーを決定するためにそれぞれ3冠レースを設定することになるわけである。もちろんロマンだけに殉じたわけではなく、3レースもやれば強さがポイント差になって現れやすいという合理的な理由もあった。

ということでぼくらのBCは以下のような構成で行われた。

C1 ダート3冠
1R 阪神D1800
2R 東京D1600
3R 大井D2000(東京D2100:大井は『ダビスタマガジン』に収録。用意がないときは東京で開催。以下同)

C2 スプリント3冠
4R 京都1200
5R 中京1200
6R 中山1200

C3 中距離3冠
7R 京都1800
8R 東京2000
9R アーリントン2000(阪神2000)

C4 長距離3冠
10R 中山2500
11R 東京3200
12R 京都3200

C5 牝馬3冠
13R 阪神1600
14R 京都2200
15R 東京2400

C6 牡馬3冠
16R 東京2000
17R 阪神2200
18R 京都2400

C7 マイル3冠
19R 中山1600
20R 東京1600
21R 京都1600

C8 チャンピオンディスタンス3冠
22R 東京2400(京都2400)
23R アスコット2400(東京2400)
24R ロンシャン2400(東京2400)

C9 クラシック3冠
25R 中山2000
26R 東京2400
27R 京都3000

とまあ、決勝だけでこの27レースにも及ぶ1大会を3階級それぞれで行うという、ちょっと手軽には開催できない規模になってしまったのだが、おそらく平地競馬の要素をほとんど採り入れているといっても過言ではないはずだ(しかし振り返ってみると長距離3冠に中山3600mがないのは不思議な気もする。ダイヤモンドSが好きなことが影響しているのだろうか)。実際これでやるだけでも気の置けないメンバーどうしならそこそこ盛り上がるのだが、各自が持ち寄った登録馬の中から予選を行って勝ち上がった16頭をただひたすら走らせていくだけではあまりに工夫がないし、たんにレース数が多いだけとなってしまう。そこで「馬主=参加者の戦略性」を導入するために、さらに細かいレギュレーションを設定し、このBCは完成を見ることになる。

……と文字数自体は多くないもののこれ以上続けるとさすがに縦長になりすぎるので、以降は次のエントリに回します。

作者:DNF

更新日:2008年10月8日 0時39分

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カバかわいいよカバといえどもくちびる寒し

ブログで重要なのは足の速さだというのは最近実感としてわかったことであって、つまり「出社する。」を書いた直後に「AFRIKA」の検索で何人かが訪れてくれていた。もちろんわざわざ読んで察するまでもないようにそのエントリにはなんら有用な情報もレビューも載っていなかったのであるから、せっかく来ていただいたにもかかわらずおもに時間とクリックの手間という資源を無駄遣いさせただけで終わらせてしまったことについて残念でしたとほくそ笑むしかない 慚愧に堪えないわけだが、しかし考えてみるとゲームの発売直後にそのソフトについて検索することでなんらかの情報を得よう(しかもあらためて確認するとブログ検索で来ている=個人の感想なりを入手しようとしていると推察できる)とする行動の動機の裏にはすでにネット上にある程度有用なそれが落ちているにちがいないという期待がとうぜんあるわけで、その期待を支えているのが新作情報とか攻略とかをメインに据えてせっせと更新しているひとびとなのだと思うと月2回しか更新しない身としてはみんなすげえと思わずにはいられないところである。実際「にほんブログ村」のランキング(いちおうここも参加しております。cf.左サイドバーのバナー)から攻略ブログやウェブサイトなどを覗いてみるとすさまじい速度でゲームが解かれているようで、いやまあ彼(女)らを突き動かしているのが自己満足だったり名誉欲だったりするんだろうということはこうしてだらだら文章を書いている動機もおおむねそうだからわかるけれども、しかしそれも含めて善意であって、どう書くかを考えている途中で眠くなったら寝てしまうというだめスタイルを実践するわたしには生活リソースをそのような金になるでもない(アフィリエイトを設定するにしてもきっと微々たるものだろうと推察する)善意に大きく割く覚悟はとてもじゃないが持てそうにない。趣味ってそういうものだよね、といえばそうにちがいないのだが。

さてその『AFRIKA』なんであるが、どういうゲームであるにせよとりあえずこれだけ待たせておいてそのユーザビリティかというマイナス面はまちがいなく強調できるところだろう。ロード/セーブの長さはまるで前世紀に戻ったかの感があり、セーブ画面を寝転がりながら見るともなしに眺めながらデータ容量の「387」という数字のあとに「MB」と表示されていることに気づいて思わず身を乗り出したわたしをだれが嗤えようか。KBじゃないのかそこは。プレイのスムーズさという点では近年まれに見る、PS3とは思えぬような大失敗を展開しており、こういうユーザの視点に無頓着なところはさすがソニーという感じ。もちろんそのようなある種のユーザ軽視がソニーのパターナルな成功に結びついてきた部分があることは認める(*1)のだがまあ待機時間の無駄な長さについてはそういう信念のレベルでさえないからちゃんと仕事しろという以上の感想はない。

その他ゲーム自体の印象を大まかに挙げてしまうなら、

・楽しい
・が、おもしろくはない
・というかこれゲームじゃないよねえ

といったところであろうか。動かしているだけで楽しいのはまちがいなく、わたしにしても朝までプレイしたといいつつその実はミッションの進行もせずに大半の時間を本など読みながらカバだのゾウだのキリンだのを眺めるのに費やしていたし、あるいは隣にいるおにゃのこ(脳内ではない)にしたところでやっぱり動物が池であくびをして水を浴びているさまを見ながらカバカバ叫んで、マニャンガ自然保護区をたいそう堪能したようであった。そういう部分を肯定的に見るに吝かではないものの、しかしその楽しさはけっきょくのところ現実に類似した世界をきわめて精緻に(意外とグラフィック粗いかなというのも感想のひとつではあったが)描いたことにのみ由来するのであって、このゲームが「ゲームとして」おもしろいとか、優秀なゲームだということとかをまったく証明しないという問題は残る。たしかに楽しいしそれぞれの動物の振る舞いに感動もするが、プレイヤーに喚起される感情の源泉はゲームに内在していない――話は簡単で、「カバかわいい」と萌えられるのはカバが偉いだけだ。『AFRIKA』が偉いんではない。

ゲームで現実的な世界を描くというのは、たいてい現実のほうが細かく複雑にできているためにきわめて難しい試みのように思われがちだし技術的にはそのとおりだと思うが、しかし「ゲームを作ろうとする」という出発点を観点にすれば現実がもつ価値にフリーライドするだけだからクリエイターが目的として設定するのは下の下だ。『AFRIKA』は素敵な大地と素敵な空と素敵な水面の世界に生きる素敵な動物を再現することばかりに心を砕いていることがありありと見て取れ、これはもう現実に囚われることでゲームによって新たな世界を創出してやろうという決意が失われていく好例といえよう。まあつまり技術的な困難に過ぎないことを思想的な難解さと混同してしまうと失敗するというありがちな話である。たとえばSCEジャパンスタジオのエクスターナルプロダクション部シニア・プロデューサー・池尻大作氏が公式サイト(音量注意)で「自分の目で見て、自分自身で体験しないと魅力を表現できない」とさらりといってのけているところなどにも「勘違い」は窺えるわけだが、それって志高いように思ってるかもしれませんが逆ですよ、と指摘しておくべきところ。ゲームの長所は個人の体験のような矮小さを気軽に飛び越えてしまうところにある。経験からしか快感を創造できないなら宮本茂にはなれん。

ただもちろん世界を現実に似せるだけで悪いのでもないわけで、最終的に重要なのはその世界でプレイヤーやキャラクターになにをさせどう振る舞わせるかだ。なるほど『グランツーリスモ』は現実のクルマの価値にただ乗りしているかもしれないが、しかしそれはおもしろいしゲームとして成立してもいる。それに倣って『AFRIKA』を観察してみれば……だめだわ。いや実際写真撮るだけとはどういうことだということは多くの人が感じているんではないかと思う(たとえばこのブログでも「その「まさか」だったゲーム」と述べられている)。なんだかんだでこのゲームをもっともだめにしてしまったのは「写真撮影」をゲームの行為に設定したところだろう。

それがなぜだめかといえば目的が無意味になってしまうからである。つまりとりあえず芸術性を脇におけばわれわれがアフリカの写真やビデオを見るのは容易にそこに行くことができないからで、それらは経験の代替や補完という機能を担う。『AFRIKA』の意図がサファリを疑似体験させるということなのは明らかだと思われるが、だとすればキャラクターが現地に入りこんでいる時点ですでにその目的は果たされているうえ、それどころか写真やビデオとちがい作られた範囲なら自由に動ける/動かせる点でより高度な体験にすらなっているのだから、じゃあその写真はなんのためにあるんだという話になる。あるいは記録としてとらえるにしても、写真はずっとそこに留まることができないから撮って記録する意味があるのであり、すぐ近くにカバがいていつでもクルマを走らせてそこに行けるのになぜわざわざ撮影する必要があるのか。いや写真という芸術を楽しむんだというかもしれないが、少なくともミッションで過度な芸術性は求められていないし、ほんとうに綺麗な写真を見たいならいますぐパッケージに広告が同梱されていた『ナショナルジオグラフィック』を買ってきたほうがいい。写真を撮る動機はゲーム内ですでに満たされているかゲームではまだ不可能かのどちらかで完結してしまっていて、わざわざ現実から導入する必要などどこにもない。ゲームはゲーム、写真は写真。ゲームのほうが自由度こそ高いかもしれないが基本的にそれらは独立するべつべつの疑似体験で、入れ子にして「疑似体験世界のなかで疑似体験素材を作らせる」とおかしなことになるのだ。『セカンドライフ』内でオナニーするようなものである。いやそんなことできるか知らんけど(*2)。

実際、これだけの世界を作りあげたのだからやりようはいくらでもあったはずだ。サファリを自由に走り回るだけのほうがゲーム性は低くてもまだゲームらしさがあるし、あるいはたとえば発売前、伊集院光が『深夜の馬鹿力』で「狩りのゲームでもとくに欲しくはならない、鳥になってひたすらカバの口を掃除して食べられそうになったら逃げるゲームだったらいい/ライオンの着ぐるみ着てばれないように群れに飛びこみたい」といったことを話していたと記憶するが、さすがにこれは突飛なトークのネタだとしても振る舞いを重視するゲームデザインが不可能だったとは思えない(しかしこのあたりの発想は実現可能性はともかくさすがに伊集院であって、どう考えてもゲームに対する見識という点では彼のほうが数段上だ)。それがよりにもよって写真撮るだけでゲームを偽装されては、リアルなフィールドを作るという手段であるべきことが目的と化してしまっているさまが見て取れてむなしいことこの上ない。もしかして綺麗にアフリカを作ってみせればみんながすごいねと褒めてくれるとでも思っていたのだろうか。まさかね。そうだとしたら「幼稚園行けば?」という話になってしまう。そうではないと信じたいが、しかし『AFRIKA』がゲームとして成立しきれていないという結論は動かない。

伊集院光と『AFRIKA』を決定的に分かつもの、それは「ゲームの世界でなにをするか」という「プレイ」に対する感度の有無である。全体としては、グラフィックに過度な力を注ぐとゲームじたいのセンスが欠如しがちになるという傾向にまたひとつ典型例が加わったということであり、「ゲーム=新たな世界の創造」と考えて美しいゲームの構造を取り出したいと思っている側からすればありものの世界を再現してみせてどうだと胸を張られたところでたしかにすごいですね(棒 としかいいようがなく、技術コンペティションなんかをやるのなら価値はあるかもしれんがゲームを引き受けようとしているのならやはり評価できるはずもない。まあようするにゲーム舐めんなぐらいのことはいってもよかろうと思うのだが、ところで考えてみるとこれら『AFRIKA』のだめさというのはおおむねPS3の思想的失敗に通じるところがあると気づいて、ああさすがお膝元ですねと納得するもののしかしいいのかそれは


(*1)新商品、とくにパラダイムシフトを起こすようなものの開発というのはある程度までパターナリズムに依っているとはいえるだろう。どちらかといえばソニー本体の話だが。
(*2)と思ったら公式サイトでフォトコンテストなんかやってて、まあゲームのコンセプトからしてやるだろうとは感じていましたが本格的にオナニーですなあ。「主眼は芸術性なんです」といわれるかもしれないがその被写体含めてパッケージングされた疑似体験であって、作った側がそれを切り取って送ってね、というのはあれか、気分は孫悟空を手のひらでもてあそぶお釈迦様といったところか。これも「ぼくが再現したすごい世界をみんな見てね~」というだけのことで発展性はなく、しかしずいぶん自己顕示欲の強いお釈迦様だこと。断言するが似たようなコンセプトで『シムシティ4』のスクリーンショットコンテストや『グランツーリスモ5』の走行動画コンテストがあったとして、それらはプレイヤーの世界へのかかわりがダイレクトに画面に反映されるから、『AFRIKA』のコンテストに比べてはるかに有意義でレベルの高い営みとなるだろう。あーあ

作者:DNF

更新日:2008年9月20日 7時17分

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ゲームとは操作にほかならない

関連記事:レースゲームがつながる現実(2007/12/4)


昔書いた「ギャルゲーの憂鬱」にいきなりアクセスが集中していったいなにごとか(挨拶)。まだヨドバシ吉祥寺5Fのエロゲーコーナーを見つけられないひとがいるのかと思ったら『サイオンジ探偵社』というサイトからリンクされていたようで、ありがとうございますほんとにもう。失礼ながらリンク元については存在を存じあげなかったのだが、おかげで新しい発見がむこうから勝手に飛びこんできたわけだからいい時代になったものだ。これはつまりわたしの趣味のひとつであるところの「適当な論文を拾い読みしてその参考文献を読む」(だから暗いって)の強化版なわけで、とくにアーキテクチャの観点から楽しく感じるのである……いやこんなことがとっくの昔から常識だってことは知ってますよ? ただわたし自身がブログを始めたのは10ヵ月前でして古い人間でごめんなさい。

前置きはともかく、古いゲームをたくさん取り扱っているブログ『れとろげーむまにあ』の9月1日付エントリ「レトロレースゲームの視点についての考察」がおもしろくて刺激を受けたので、遅きに失した感もあるが(だいたいにおいてわたしは遅筆なのであり、そのくせ一度に4000字も5000字も書かないと気が済まないから週1回も更新できないのである。ブログでだいじなのは更新頻度という話も読んだが、まあむりです)レースゲームにおける視点の問題についてもうすこし観察を深めてみることにしたい。


おそらく(すくなくとも現状の、そして日本の)ゲームにおいて、「レース」、とくに自動車でのそれほど一人称視点がふさわしいジャンルはないはずであり、いま発売されている正統派レースゲームはことごとく「自分のキャラクターが見えない」一人称視点(ふうのしん氏いうところの「車内からのビュー」)をメインに採用している。翻ってほかのジャンルを見るとその名のとおりFPSと、それからギャルゲーががんばっているくらいだが、しかしFPSの場合わざわざ「First Person」と名乗ることで逆にジャンルの特殊性が浮かびあがってしまっている――FRPFPR(註:9/12修正、なにをやっているんだおれは)などという区分は存在しない――わけで、けっきょくのところプレイヤーの操作スキルが攻略に直結するゲーム(ギャルゲーはそうではない)のなかで総体として一人称視点が自然に受けいれられるジャンルはレースだけだといっていいだろう。その理由に氏が指摘するような「臨場感」や「その車に乗車して運転しているような感覚」の演出を見出せることはもちろんだが、しかしそれ以上にゲームが内包する「視点そのもの」の問題さえ見えてくるはずだ。レースゲームはなぜ一人称視点を採用するのか、そしてそもそもゲームにとって一人称視点とはなんなのか。


※なお先に整理しておくと、以下の文章ではとくに断りのないかぎり、

・ドライバー=現実にクルマを運転するひと
・クルマ=現実の自動車
・プレイヤー=モニタの前に座ってゲームを操作するひと
・キャラクター=プレイヤーに操作される対象
・運転=現実でのクルマの運転
・レースゲームのプレイ=ゲーム内での運転

を想定しています。



レースジャンルで一人称視点がきわめて有効に機能する理由として、まずは当然ながらドライバーとプレイヤーを完全に同一視しやすいことが挙げられる。だがそれは単純にクルマを運転するのが自分自身であるという意味ではなく、以前書いたように「プレイヤー/画面」の入力/出力の対応と「「キャラクター」=ゲーム内のドライバー/行動結果」のそれがおなじようにできていることを含意する。野球のプレイと野球ゲームのプレイが完全に別の運動になってしまうのと対照的に、クルマの運転とレースゲームのプレイは、どちらもある入力を機械に与え出力された物理現象に反応して次の入力を機械に指示するという操作を連続的に繰りかえす運動で構成されているという点で基本的に同質のものである。前に書いたことを繰りかえすなら、現実の世界でどれだけ×ボタンを押してもわれわれ自身はけっしてボールを投げることができないが、入力と出力の関係を適切に設定すれば理屈としてはプレイステーションのコントローラで本物のクルマを運転することが可能ということだ。ようするに、たとえば4/9に書いたエントリ「血統論は現実のなかに境界を形成する」で競馬ゲームが現実の記述を内部に導入していることを指摘したのとおなじ構造でレースゲームは運動の方法そのものを現実からトレースしている(*1)のであり、このように「ゲームが記述しなければならないこと」がすでに現実のなかで記述されており、ゲームの外側に位置する自分とその内側に入りこんでいる仮想的な自分とがまったくおなじ運動の行為者として振る舞えるから、それをじゅうぶんに表現できる技術がともなうならばレースゲームでもっとも自然な視点は必然的に一人称のそれとなる(そしておなじ理由の裏返しで、『マリオカート』では一人称視点を採用しづらい)。

……以上でレースゲームにおける視点の問題にとりあえずの有効な解答を与えられたと思うものの、しかしやはりこれだけでじゅうぶんともいえない。ここまでの話はレースゲームが有する内部構造的な特徴に依拠しているが、同時に外部的な要因については触れていないからだ。これまでにもゲームとはプレイヤーとハードが絡みあう営みであるという趣旨のエントリを書いてきた身としては、やはりその観点を看過するわけにはいかないだろう。そこでハード的な思考として、プレイヤーとゲーム画面の位置のズレという観点を導入してみることにする。

ゲームが遊ばれるとき、たいていの場合プレイヤーはモニタから1.5mくらい離れ床に座っている。あらためて確認するまでもなく自明のことだがプレイヤーとモニタは物理的に隔たっているのであり、その意味で、「一人称視点」が採用されていても「プレイヤー」(モニタの外側)としての基点と「キャラクター」(モニタの内側)としてのそれはかならずしも同一の座標に置かれていない。われわれはプレイヤーであると同時にキャラクターでもあるはずだが、プレイヤーはつねにキャラクターの後方にとどまることになる。一致するはずの人格が座標としては一致しない。距離にして1.5mのこのズレは、ほんらいゲームに完全な一人称視点を設定させることを拒否する。これはゲームがプレイヤーを外部者として「も」設定する以上しかたのない現象といえる。

だがしかし、レースゲームは違和感の原因にもなりうるその距離をも有効に活用してしまう。実際にクルマの運転席に座っているときのことを思い浮かべればわかるように、プレイヤーとモニタのあいだにある空間は、擬似的にではあるものの運転席から車体までの距離として認識することができる――たとえば、プレイヤー-モニタ間の距離=ドライバー-フロントガラス間の距離、というように。もちろん、その距離の数値自体を比較しても等しくはならない。ふたたび運転席からの光景を思い出せば、フロントガラスとは1.5mも離れていないし、そもそもゲームのときはあるていど自由にモニタとの距離を変えられるから、比較じたいが無意味といえる。だが焦点は距離の大小ではなく、「距離があるという事実」そのものである。運転席と車体が、またプレイヤーとキャラクターがそれぞれに隔たっているということは、ドライバー/クルマの関係とプレイヤー/キャラクターの関係が等しく対応することを意味するだろう。

しかし、そうなるとここまでの話で設定していた前提がひとつ狂ってくる。ドライバー/クルマ=プレイヤー/キャラクターが成立するということは、レースゲームで設定されている視点、一人称の主体として振る舞っている「キャラクター」の正体がドライバーではなく「クルマ」のほうだということを示唆してしまうのだ。われわれが『Forza Motorsports2』をプレイするときに「車内からのビュー」だと思っていたはずの視点は、じつは「クルマそのもののビュー」だったのである。プレイヤーとキャラクターは、「同一であるにもかかわらずちがう座標に置かれている」のではなく、そもそも別個のものであって存在が一致していない。

一致するはずのプレイヤーとキャラクターが分離する――しかしこの事実はレースゲームにおいて瑕疵になるわけではなく、それどころかむしろ非常に重要な意味を持ちうる。その可能性を考えるためにもういちど4/9「血統論は現実のなかに境界を形成する」を確認しておきたい。競馬ゲームについてまとめたこのエントリでは、「世界を記述しようとする」行為によって世界と世界を記述した結果のあいだにズレが生じること、さらにはそのズレこそがゲームそのものだという趣旨のことを示し、そのうえで、現実の競馬における血統表はそれじたいがすでに記述だから血統表を共有する競馬と競馬ゲームはずれることなくダイレクトに接続されると述べた。ここに見られる「現実に内包されるズレ」という構造は、そのままクルマの運転にも適用できてしまう。もともと運転は、無関係であるはずのドライバーの運動とクルマの運動が適切に対応するように機械が変換することで成立している。命令する人間と実行する物体は同一ではなく、だから両者の運動もまたつねに一致しない。たとえば左に曲がるとき、ドライバーは目の前にある円形の物体を回すという、肉体的には転回とまるで無関係な動きをする必要があるが、その結果としてクルマのタイヤが左に向き左折が可能となるわけだ。このように、クルマを運転するときドライバーの振る舞い/クルマの振る舞いはつねにずれていかざるをえない。既述のとおりこのズレはすでに現実に内包されており、その理由は現実の側で「記述」でなく「操作」がなされているからということになるだろう(あるいはこういういいかたもできる、「操作は記述の一形態である」。個人的信念としてはこちらのほうが近い(*2))。

レースゲームは競馬ゲームがしているのと同様にこの操作(記述)の構造を丸ごと取りこむことで現実と直結しているが、しかしなぜ取りこみが可能なのかという疑問は残る。競馬ゲームの場合、キーとなるのは血統表であった。現実の競馬でもゲームの競馬でも血統表という装置が共通して存在し、しかもその血統表が記述の役割を果たしていたからこそ、競馬ゲームはそれを媒介にして現実を回収できたはずだ。ではレースゲームは? ここで「プレイヤー/キャラクターのズレ」が意味を持ってくる。あらためて確認しておこう。プレイヤーがドライバーに対応し、キャラクターはクルマに対応する。それぞれの運動を媒介するのが現実ではクルマの機構で、ゲームではゲーム機ということになる。この対応関係は、プレイヤーとキャラクターがしっかりとずれているからこそ機能することに注意したい。プレイヤー=ドライバー=キャラクターとしてしまうと、クルマの存在が消えてしまう。運転においてドライバーにとってのクルマがそうであるように、レースゲームのキャラクターはプレイヤーの「代行者」ではなく、あくまで「操作対象」である――プレイヤー/キャラクターのズレによってそのことが顕在化し、その結果レースゲームは現実をそのままゲームの側へと取りこむことに成功して、現実もまたゲームに表現されることを許容する。共通の構造を持つためにレースにおいてはゲームと現実の交換可能性がきわめて高く、ゆえにそれらを重ねあわせられる可能性もまた高い。だとすれば……結論は上述したものとおなじだ。もっとも自然な視点は、やはり一人称にちがいない(*3)。

クルマの運転、いや運転にかぎらずなにかを「操作(記述)する」行為は、つねに入力と出力の関係にズレを孕むためにそれじたいがすでにゲーム的な営みということができる。この「操作(記述)する」という部分が現実とゲームで共通化されたとき、ふたつの世界は重なっていくだろう。一人称視点とはいわばその証明である。レースゲームは、操作/被操作が内包するズレを丸ごと回収するようなその視点を獲得することで、みずからが現実のシミュレータとなること、そしてまた現実の代替にさえなりうることを主張しつづけている。

(*1)これもまた既述のように、野球ゲームやサッカーゲームは競技規則を現実から導入しているだけといえる。
(*2)まあおわかりのとおり、わたしは実在論を考えるときに操作主義を導入したい人間なのです。
(*3)なおひとつめの「結論」からふたつめのそれに至るまでの文章を書くのに要した時間は約4日。仕事しているとはいえ、ああもう。

作者:DNF

更新日:2008年9月11日 22時49分

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出社する。

……せねばならんと思うところ、しかしどうしようもなくねむい。ええまあ、責任はすべてわたし個人の問題に帰結するのであって、つまりいまのいままで『AFRIKA』やってたわけですがなにか。これは着いてから席で寝ることまちがいなしであろうなあとあくびをしつつ、それはそれとして早めに帰って続きをやろうと思うしだいで、そうかなるほどこれがほわいとからあえぐぜんぷしよんというやつなんですね(違)。

作者:DNF

更新日:2008年8月29日 8時7分

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一人称雑感/わたしとわたしたちの問題

しまうーにはもっと活躍してほしい(挨拶)。でなくて前回ちらりと触れた一人称の問題について雑感。

その1。エクリチュールというほどのものでもないのだが、ともあれ「ファミコンカセットに息を吹きかける」といういかにもな子供時代の行為の意味が主題だったことから先日のエントリを書くにあたって一人称はふだんの「わたし」よりも「ぼく」のほうがふさわしいのではなかろうかと考えて替えてみたところ、自分自身として文章を書くのが思いのほか楽だったという効果を生んでしまったうえに知己の読者からとっつきがよくて読みやすくなったとまでいわれてしまい、はたしてこれからどちらを使っていこうかすこし悩む。20代も半ばをすぎて「ぼく」もねえよと思っていたのだが、意外と悪くない感じもして、どうしたものか。さて。

その2。と、それとは無関係に一人称といえばわたし(とりあえず今回はこれで)はこれまで書き連ねてきたエントリで「わたし」と「われわれ」をかなり意識的に使い分けているのだが、その単数形/複数形の使い分けはそのまま「自分(限定的に)しか経験しなかったこと」と「ゲームの構造的に(普遍的に)だれもが経験しうること」に対応させているつもりである。たとえば7月19日「勇者のために世界はあるか」では「われわれは「ライアンに救われたイムルの村の子供たちが成長して魔王を倒す」というストーリーさえ、『ドラクエ4』でありえた物語として想定することができるだろう」などという文章が出てきて、まあたいていの読者は「想定しねえよ」といいたくなるところであろうが、しかしこれが「『ドラクエ4』はプレイヤーにそのような想定をさせるゲームなのだ」(本文の論旨はすこしちがうけれど、さしあたり引用した部分だけでいえば)という文意であることを考えれば、その解釈が妥当するかどうかはともかくとしても、主語に「われわれ」を使うことの正当性はある。個人の経験を超越すべき概念にかんしてはやはり複数形がふさわしいのであり、それはだれしもが体験しうる世界の相貌のひとつだからだと、すくなくともわたしは信じている。裏を返せば個人の経験でしかありえないものは責任を持って「わたし」である(「われわれ」ではない)ことを書くべきなのだろう。むやみに長く書いているように見えて、じつのところそれなりに気を使っていたりもするのである。なお、「できる」とか「しうる」といった述語はそれをする可能性をつねに残しているニュアンスが含まれるので複数形の主語ときわめて相性がいいのだった。ずりい。

その3。で、複数形の主語といえば人文系ことにフランス思想系の学者が書いた論文なんかを読んでいると主語がことごとく「われわれ」とか「わたしたち」といった複数形で記されていることに気づくのだが、それについて会社の後輩と話をしたところ、きちんとした学究でまじめに勉強を続けていた彼は、なぜなら新たな論文もまた先人の思想をもとにして生まれた成果であり書き手ひとりのものとするのではなくおなじ思想集団のなかで共有すべきだという意識が学者たちのあいだであるからだ、とその指摘の真偽を確認するすべはわたしにないものの真実だとすればしごくくだらない理由を教えてくれるわけである。前段の意図で「われわれ」を使うときには読者を強引に自分の思考のなかへ引きずりこむ(ある種傲慢な、「想定しねえよ」と拒絶する相手に対してさえ「する可能性がつねにあるのだよ」と洗脳するような)覚悟が必要なわけだが、どうやら彼らにそういう覚悟があるわけではないらしい。あげくにどう読もうとも「それはおまえだけだろう」としかいえない限定的な感想や振る舞いについてもゲシュタルト崩壊を起こすんじゃないかというほどに「われわれ」「わたしたち」「われわれ」と書いてあって、まあギルドに対して成果を分配しようというのは美しい姿勢なのかもしれないがしかしそれは同時に責任の分散にもなるわけだから複数形しか使わ(え)ないというのは自分の思想に対して責任とりたくないといっているに近いんではないかと思わずにいられないところ。子供か。

学者の世界がどこまでいっても構成員どうしでしか意思の疎通が通用しない空間なのかそれとも外部の人間が信じている象牙の塔の存在こそが蜃気楼に浮かんでいるだけで実態はもっと開かれているのか知ったことではないが、実情がどうあれわたしがこの手の論文を読むときに苛立ちを覚えるのはまぎれもない事実で、これに近い感情をどこかで抱いた気がすると振り返ってみたときにああそういえば文学(というか文壇(なる仮想空間(いやそういう仮想空間を信じることはかまいやしないがそこにより集まって世間にルサンチマンを撒き散らす(「世間はバカだ」といっていれば自分の本が売れると(あるいはバカな世間になど自分の本が売れる必要はないと(それとも自分の本によってバカな世間を啓蒙してやろうなどと))考えているならバカはどっちだという話になるんだがどうなんだと論難したくなるような)態度)))のありようが死ぬほど大嫌いだったと思い出す人間としては、「わたしたち」が主体となる文体から同業者と仲良しこよしの、しかもやや排他的な連帯といった空気を感じ取って心の底から「けっ」と唾棄するばかりなのである。だせえ。

その4。たぶん今後は気分によって一人称をころころ替えるんじゃないかと思いますが、一貫性の観点から問題があるなどといわず、ご海容いただきたいわけであります。どうぞよろしく。

作者:DNF

更新日:2008年8月27日 23時11分

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そして儀式は蘇る

一人称にも雰囲気というのがあるものですから(挨拶)。

『ゲームセンターCX』(以下『CX』)を見ていると、そういえば懐かしく、有野がROMカセットをファミコンやメガドライブの本体に差しこむ前に端子部に息を吹きかけている。だれがはじめたかまたどうやって伝わったか知らないが、たぶん全国のファミコン小僧が気づいたらおこなっていたその動作は、どこまで実効性があったのかいまもってよくわからないし、メーカーにしたらとても推奨できなかった――かりに息によって湿気をもつことで接触がよくなるために起動しやすくなるのだとしたら、おなじ理由で端子が錆びがちになってしまうわけだから――にちがいないが、ともかくぼくらが子供だったころはなかば常識的な作業のように思われていたのである。『ゼビウス』をやるときも『高橋名人の冒険島』をやるときもぼくらはなんどもカセットの溝に息を吹きかけていたし、あるいは『ドラゴンクエスト(以下ドラクエ)3』『4』のときは、唾を飛ばして端子を濡らしてしまうと冒険の書が消えてしまうような気がして、すこし静かに吹いていたのだった。

ファミコンというのは子供にとってじつに繊細な機械で、プレイ中にカセットに触れたり、運が悪いと興奮のあまりコントローラを引っ張って本体がすこし動くだけでも非情な電子音とともに画面がノイズだらけになって遊びの中断を余儀なくされる。起動するときもただたんにセットするだけではたいていうまくいかず、みんなそれぞれに自分だけの最適なカセット差しこみ位置をもっていて、たとえばうちのファミコンではカセット全体を浮かし気味にしつつさらに向かって右側をほんのすこし上げるように差すとうまく映ってくれた(『CX』では有野が無造作に差したあと「課長on!」とさけんでスイッチを入れると同時にきれいなゲーム画面が出るけれど、あれが編集の結果でそう見えるだけであって、ほんとうは毎回起動に悪戦苦闘しているとすればどれほど素敵だろうかと個人的には思っている)。ファミコンを快適にプレイするために凝らさなければならない工夫はさまざまで、そのうち基本中の基本が「息を吹きかける」ということだったにちがいない。ゲームがうまく起動せずにカセットを抜けば、埃など見あたらなくてもかならず吹いてから祈るような気持ちで差しなおす、それでゲームがちゃんと始まると無意味に信じていたし、じっさい2度目に電源を入れたときに無事メニュー画面が表示されることで、その動作が有効であると思いこんだのだ。そしてたぶん、そういうことを繰り返すうちに「カセットを吹くこと」もまたゲームを開始するためのプロセスとして組みこまれるようになっていく。もはやそれは、高橋名人が「ゲームは1日1時間」というその1時間をすこしでも有意義に使うための必死の工夫である以上に、子供だったぼくらがかならず執り行うべきひとつの儀式だったにちがいない。「ファミコンを起動するために悪戦苦闘する」というゲームからすれば外部的な、つまり身体的な困難を乗り越えることで、さらにその解決を単純でわかりやすくそれでいてちょっと独特な動作に象徴させることによって、ぼくらの意識は身体ごとゲームへと切り替わっていった。ここでは行為の有効性よりも行為じたいが行為者にもたらす効能が優先されている。極端にいえば、カセットを吹くという行為を要求していたのはファミコンの側ではなく、それを動かすぼくらのほうであり(*1)、そうする瞬間、電源を入れる以前に、ぼくらはたしかにファミコンをプレイしようと「決意」していたのだった。

ファミコンを扱ううえでの身体的な独特の所作をゲームに捧げる儀式とするなら、それはなにも開始時にかぎってなされるものではなく、ゲームの世界から現実へと戻るために、やはりぼくらは重厚な動きを必要としていた。つまり『ドラクエ3』『4』を終えるとき、丁寧にカセットを扱っていたわけだ。不確かな記憶に身を委ねれば、城や教会でセーブしたあと冒険を終了すると、画面には「おつかれさまでした。リセットボタンをおしながらでんげんをきってください」というようなメッセージが表示されて、それにしたがわなければ「ぼうけんのしょ」が消えてしまうかもしれなかったから、ぼくらは粛々とそう振る舞った。右手でリセットボタンを押したまま左手で電源を切り、画面が完全に砂嵐になったことを確認してからおもむろにカセットを抜いてかたづける。なによりもだいじなセーブデータを保護するためにはそれくらいカセットを丁寧に取り扱わなければならないと思っていたし、もっといえば慎重に差してゲームをはじめゲームを終えて慎重に抜く動作まで『ドラクエ』のプレイに含まれていたとさえいっていい。子供にすればゲームは高価なおもちゃだったが、それに対して儀式的になる動機は金額の大きさと別のところにあった。

現在ゲームは光ディスクのもので、本体にセットすればピックアップレンズがきちんと信号を拾ってつつがなくゲームを開始してくれるようになっている。ゲームがなかなかはじまらないのはファミコンのときとおなじだが、その理由はたんにディスクのロードに時間がかかるから、という内部的な都合に変わった。ただ、プレイステーションのロゴが画面に現れてメニューに移行するまでの待ち時間と、ファミコンが映らないことで浪費される時間はやはり決定的にちがう。いまのゲームが「Now Loading」と表示させているとき、ぼくらは画面をぼんやりと見やりながら、あるいは待ち時間をつぶすためにあらかじめに用意しておいた本を読みながら、ディスクの回転音が落ち着いて自分が操作する出番が来るのをただ待っているだけだ。ボタンひとつで、それどころかパネルにタッチするだけでなされるスムーズな起動。ゲームは、ぼくらがはじめようとする覚悟とはかかわりなく、確実に、かってに、しかしすこしぼんやりとはじまるようになった(ファミコンは、起動さえすればゲーム開始までは一瞬だったのだ)。レンズの汚れやディスクの傷でうまく動かず右往左往することがあるにしても、それはファミコンのトラブルを解消しようとすることほどには日常の風景でないだろう。いつもプレイするゲームのディスクをトレイに入れっぱなしにしているとしたら、遊ぶために骨を折る必要など、もはやない。

カセットの時代の終焉とともに、儀式は失われた。とはいえ、そういう儀式的な作用をもたらす装置までもが退場したかといえばそうではないはずだと考えて、ふっと『グランツーリスモ5プロローグ』を遊ぶときの「G25 Racing Wheel」(以下「G25」)が思い浮かぶわけである。「G25」は、PS3の起動に際してポジションのキャリブレーションのため自動的にステアリングをロック・トゥ・ロックさせて中心に戻るのだが、シートに座ってその回転を前にするといまから『GT5』をプレイするのだという感慨が強くなってくる。アクチュエータのきしむ音とともにステアリングが回転してさいごにカチリと中心に収まるとき、ぼくの意識はたしかにゲームへと切り替わっていくのだ。そこにファミコンに対していたときのような能動的な動作があるわけではない。USBケーブルで「G25」とPS3がつながれてさえいれば、電源が入ると同時にステアリングは勝手に回り、勝手に止まる。それじたいはとても楽なもので、ファミコンのときの苦労とは比べるべくもないが、にもかかわらずそこから受け取る感覚はじゅうぶんに身体的だし、回転しているさまもたしかに儀式的に思える。

その理由は、「G25」もまた「ハード」であることと関係しているだろう。ゲームのプレイとは、結果が画面のなかで表現されているとしても、けっきょくのところ手元の装置を操作することにほかならない。入力と出力の関係はソフトごとにちがっているものの、ゲームの感触はつねにハードの手触りに還元されるし、ソフトが毎日替わってもハードはそう頻繁に交換されない。ようするに「いまゲームをプレイしている瞬間」の楽しさを決めるのはソフトの質だが、「ゲームをプレイする恒常的な営み」に深くかかわっているのはハードの存在そのものだ。ファミコン本体・カセットに働きかけるときやステアリングコントローラの起動が可視化されるときにプレイへの決意が顕在化し、また儀式的な所作も現れるのは、ハードのもつ「ゲームをするための装置」という機能が剥きだしになって自分と相対するからなのである。

いまプレステのロゴが消えるのを待っているとき、それはすでに画面のなかだけで完結しているためにハードとのかかわりを感じることができない。だからプレイに際しての決意は固まりにくいし、待ち時間の振る舞いも儀式たりえない。ハードが剥きだしの機械から遠ざかったぶんだけ、直接対峙することは難しくなった。「G25」もすべてのゲームで使うわけではない。ぼくらはスムーズに動くハードの前で、ゲームをやるときの決意を忘れかけている。というよりは決意を必要としなくてもゲームをやれるようになったといったほうが正確だろうか。それは道具の変化がもたらしたパラダイムシフトだからどうなるものでもないし、否定するのはたんなる懐古趣味でしかないだろう――とはいえ、やはりいま有野が『CX』でカセットを本体に差すときの姿はりりしい。有野はきょうもカセットに息を吹きかけ、覚悟とともに挑戦をスタートする。ぼくらはそんな有野の姿を見て、それこそが正統な、そしてこのうえなく正当なゲームのはじめかただと、ようやく思い出す。


(*1)儀式は、その動機や意思にかかわらず執行対象ではなく執行者のためにある、たとえば葬式、たとえば雨乞い。

作者:DNF

更新日:2008年8月20日 21時7分

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表の次にかならず裏が出るわけでもないのだから

わたしもたいがい野球好きなので、四球が野球においてあまり愉快な要素でないというのは知識としても感覚としても知っている。それはメジャーリーグから草野球まで変わらないだろうし、先日も名もなきグラウンドにおいておこなわれた社内の試合でストライクが入らずに無用のランナーを溜めた結果5点あったリードを最終回1イニングで吐きだして逆転された先輩の後ろ姿をショートの守備位置から励ましてきたところだ(しかもその裏に再逆転サヨナラ打を放って白星をプレゼントし、いい後輩であることを証明してみせさえした)。四球を出すくらいなら打たれたほうがましというのは、打球がつねにアウトの可能性を秘めていることを除いてもなお有効な言説だと思われる。野手だって突っ立っているだけではつまらない。わたしはプレート位置から座って構える捕手に対してまともにストライクを投げられないヘタレなので、たとえ草野球であっても投手を担う選手には敬意を払っているし、マウンドにいるときはつねに励まして絶対に文句などはいうまいと誓っているが、とはいえ四球が野手に疎外感をおよぼし、それが原因で失点したときに徒労感を覚えることも否定しがたい事実である。投手はできるかぎり四球を回避すべきだという意見があれば、とうぜんに首肯する。

……がしかしこれはどうよ、というのが、この記事。

先頭打者が四死球で出塁したのは32回。このうち、その走者が本塁を踏んだのは13回ある。先頭で出た走者がバント失敗や盗塁失敗などでアウトになったとしても、そのイニングに得点が入ったケースは14回。従って、得点が入る確率は44パーセントになる。/一方、先頭打者が安打で出たのは72回で、その走者が本塁を踏んだ数は25回。先頭で出た走者がアウトになったとしても、そのイニングに得点が入ったのは28回だ。したがって、確率は39パーセント。/(略)安打を打たれるよりも、四死球を出した方が失点する確率は高いのである。
(「先頭打者に四球を出すと失点する!? タジケンの高校野球観戦記 Vol.6」田尻賢誉、『スポーツナビ』8月7日)

今夏おこなわれている全国高校野球選手権大会の5日目までの17試合について、先頭打者を四死球で出した場合と安打で出した場合の失点確率を比べ、安打のほうが5ポイント低いのでやっぱり四球(・A・)イクナイ!! という結論を導いているのだが、どう見ても誤差の範囲です、本当にありがとうございました。

いや、直感的に「サンプル少なすぎね?」とはもちろん思うのだが、あえて計算してみるとこの記事のバカバカしさがさらによくわかる。信頼区間95%をとって、(1)「先頭打者を四死球で出して失点するケース」と(2)「先頭打者を安打で出して失点するケース」についての誤差を出すと、

(1)1.96×(0.44×0.56÷32)^0.5=±17.2%
(2)1.96×(0.39×0.61÷72)^0.5=±11.3%

となるのだ。つまり(1)「四死球で先頭打者を出したときに失点する確率が26.8%~61.2%のどこかにある確率は95%」(2)「安打で先頭打者を出したときに失点する確率が27.7%~50.3%のどこかにある確率は95%」であり、誤差が大きすぎて――4分の1強から半分以上のどこか、という説明にどんな傾向を見出せるのか――お話にもならない。というかそもそもこれ、四死球由来の失点がたった1回少なく(40.6%になる)安打由来の失点がたった1回多い(40.2%になる)程度で論拠が崩れてしまうほど粗雑なデータなのだが、記事を書いた田尻氏はそのことをついぞ鑑みなかったのだろうか。後段で「先頭打者がエラーで出塁した数は7回。そのうち得点が入ったのはわずか2回しかない」として、しかも「この数字からもわかるように」と念押ししながら味方のエラーをカバーするために投手は奮起すると記していてますますorzな気分にさせてくれたところをみると、鑑みなかったのだろうなあ(蛇足を承知でいえば信頼区間95%においてこのデータから導ける確率は28.6±33.6%。それ以前に1回の事象の違いで14.3パーセントポイントも変動するような数字によく依拠できるなと感心すらする)。1000くらいサンプルを集めてくれば誤差も3%前後になるので有意差が見えてくる可能性はあるが、少なくともこの記事に載っているデータはまともに比較できるようなものではない。「先頭打者を四球で出すな」ではなく「安打だろうが四球だろうがとにかく先頭打者を出すな」としかいいようがなかろう(*1)。とうぜんだが、50前後の(あげくに1桁の!)サンプルから言えることなどごくわずかにすぎないのだ。なにせ、プロでシーズンフル出場する打者の打率でさえ年間±3.5%強の誤差がある――つまり、基本的に3割打てる実力の打者ならば2割6分4厘といういかにも二流の成績から3割3分6厘という首位打者クラスの打率までが誤差の範囲に収まってしまうのである(よくいう「確変」はべつに不思議なことではない)。15試合くらいの結果を集めてきたところで傾向が見えてくるはずもない。

とはいえ、たとえ統計的に無意味な数字でもそのデータを示してあらたな視点が生まれるなら、今後データの蓄積を待つことで有用な文章となりえたかもしれない(たとえば、カウント1-3から勝負すべきかどうかの目安を作れるとか)。しかし記事の結論が「四球でリズムは生まれない。投手が攻めの投球をすることでチームが勢いづく」という、まあ筆者ご本人が記すところの「何千回、何万回と耳にタコができるくらい言われ」てきた野球におけるスタンダードな言説の繰りかえしであって、ことさら「先頭打者を安打で出した場合と四死球で出した場合の得点確率の差」を持ち出してくる意味を見出せないとあっては、もうあんた「四球(・A・)イクナイ!!」っていうためにちょっとそれっぽい数字出してみたかっただけだろとさえいいたくなるんだよどうなんだそこんとこ。志なく数字を集めたところで説得力のある根拠になるはずもないのだが、ちょっとおもしろそうなデータに飛びついたあげく扱いきれなかっただけなんじゃないかという感じが透けてきたりしてふたたびorz。

けっきょくこの記事は価値のない確率を趣旨とはあまり関係なく使っているから数字をただのファッションとし