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トップ > ロシアン・ライカ > ロシアン・ライカ - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年8月22日 1時)

アメックス

1981年、アメリカのカメラ雑誌のボスのアシスタントをしていた時、編集長のケプラーさんはアメックスのゴールドカードを持っていてそれはお金持ちの象徴のように見えた。彼の住まいはアッパーステートの豪邸だし、白いロールスロイスのオープンカーも所有している。80年代初期、30代の自分のあこがれのステータスはこれを語呂合わせで言うなら「アメックス、ロレックス、ファイロファックス」だった。その三位一体を手に入れた時には、これで本当の大人になれたと思った。 アメックスの機関誌に無理してエッセイを掲載するようになったのはその当時の話だ。ウイーンのフンデルトワッサーの珍奇建築などを原稿にまとめて、それをプラハからフェデックスでFDを編集部に発送した。そのフェデックス代は何と100ドル(そう、FD1枚の送料が!)したのだから、今にして思うと驚きである。その代金はアメックスカードで支払った。まだインターネットなどない時代の優雅な話だ。 アメックスで決済を続けて、すでに20余年だ。だいたい、欧州とかインドとかにビズネスクラスで往復の航空券になるほど決済しているのだから、まず半端ではない。それで一回も支払いを怠っていないのは、当たり前とは言え、我ながらたいしたことだと思う。何年か後にゴールドカードになって、ケプラーさんと「同格」になれたと思ったのは勘違いもはなはだしい。要するに「貧乏人のゴールドカード」なわけで、員数あわせのメンバーである。いっそのこと、それを自慢にしていたのだが、数年前にプラチナカードの会員を大増員する計画があったようで、今度は「貧乏人のプラチナカードホルダー」にグレードアップした。インターネット時代以前なら、専用のトラベルセンターのコンシュエルジエと24時間電話のつながるのが売りであったようだが、自分は電話で他人と会話はしないことにしているし、そういう雑事はオンラインでホテルからエアチケットまで全部とれるようになったのだから、今のサービスはあえていえば「単に会費が高いだけがステータス」というのがサービスとも言える。下のスーパーでチリ産の800円のワインを買って、プラチナカードでそれを払うというような、「ドブ板プラチナカード」なのだ。 いわゆるブラックのセンチュリオンカードの存在が噂されるようになった。その会費が20万とか言うので、本当のセレブにはこれは安すぎるのではと不公平感を感じていたら、知り合いのブラックカードホルダーさんの話では、今年から36万だかに年会費が値上げになったそうである。プラチナカードが年会費10万円だから、これはフェアであろう。 そのブラックカードホルダーはそんな高額な会費は支払えないと、プラチナカードに「ダウングレード」してもらったそうだ。自分などはプラチナの年会費の支払い時期がくると、その支払いにあたふたする方なので、アメックスのカードで一番、トラッドでかっこいい、グリーンカードにダウングレードしたいので前から調べているが、そういうことをされると向こうはご商売にならないから、その方法は教えないようになっているらしい。 佃から通勤路で、有楽町線から日比谷線への乗り換えのコンコースにアメックスのカウンターが出来て、通行人をキャッチするようになったのは数ヶ月前からだ。だいたいが、みんなが急いでいる乗り換えの通勤路でキャッチセールスをやるなどはかなり気の利かない管理職の頭脳が考えたのであろう。しかも通勤客はそれがそういう商売なのを知っているわけだから、顧客の獲得率はかなり低いであろうと他人のビジネスの心配までしている、心配性のあたしだ。 ここは場所が悪い。この勧誘方法は通行人にくじを引かせて、それが全部当たりくじで、カウンターに誘導して勧誘するというギリシャ時代からの古典的手法だ。以前、秋葉のヨドバシでこれにひっかかって、賞品のポストイットをもらった。これが案外に使いやすいのも皮肉である。 アメックスは四半世紀前なら一種のステータスの幻想もあったが、今はだめだ。同様にダイナースも今年からマスターと相乗りの大衆カードになってしまった。 ★上の画像の撮影は、ローライミニデジカメだ。今日は佃を出るときに急いでいたので、R8を机の上に忘れてきた。このローライミニデジカメは常に築地の市場かごに入っているから、忘れるということはない。

作者: チョートク

更新日:2008年8月22日 0時2分

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ベランダから星を見る

先々週の水曜の午前2時であったか、珍しく星影澄んだ夜があった。それで双眼鏡を持ち出してベランダで星を見たのである。佃に住むようになって20年近くになるがこんなことは初めてである。 見たと言っても日本の東京の中央区の星空のそれであるから、星座の形などは見えるはずもなく、かろうじてはくちょう座の形をきれぎれに認めただけであった。あとは木星。この「きぼし」は大東京のような世界最悪の場所でも星の存在の代表になっている。 他の恒星は町の明かりで全滅であったとしても、この遊星だけはちゃんと見える。それにしても東京の星空というのはその状況を云々する前に星空を見る時間が東京人には与えられていないのだから、最初から問題にはならない。 外国の夜でふと気がつくと満天の星である。それがたそがれた町はずれであったりすると、そこの人々の暮らしぶりは、ラスベガスなどよりずっとゴージャスに思えるものだが、そういう鄙びた村とか町の人の暮らしは星空などは興味がないのにきまっている。 サウスモラビアの古都テルチエに最後に行ったのは昨年の1月のことであるが、凍結したクリスマスのデコレーションがまだそのままに残されていて、そのルネッサンスの広場の上には豪華な冬の星座が展開していた。 しかし犬も歩いていないような寒夜に星空に感心するのは、自分のような天空がしらっちゃけた場所に住んでいる時代錯誤のロマンチストばかりというわけだ。 マンハッタンの場合、あの長い島の上空の星空は望めないが、ロングアイランドでもホボーケンでもひとたび「本物のアメリカの領土」に移動すれば星空は望める。 長く住んだ、123w48stの名前ばかりが立派なプレジデントホテルは最近は豪華ツーリストホテルに格上げされてしまったが、四半世紀前にはそこらでウエルフェアのお世話になっている連中の住処であった。自分も週明けにはかならず、20ドル札の束を握って、フロントまでその週の部屋代を払いに行ったが、それが半年だか経過した後に、数百ドルのキャッシュバックがあった。ようするにそこを住処としている「貧民」を憐れんで、税金をバックする、仕組みらしい。当時のニューヨーク市長は凸凹の道路を修理しないことで、自分の歳出の少なさを自慢する、白いセーターを着た白熊みたいな、コッチだった。 おととしの信州と甲州の境で見た降るような星空は忘れられない。人里離れた一軒家の旅館には、小学館の取材で行った。自分が取材される側だったが、薪で炊いたお風呂に感心して、庭から夜空を仰いだら宝石箱のひっくり返しであった。 昨年の今頃、プラハのアトリエで床に大の字に成って見た天頂の星も優秀なスペクタクルである。プラハのアトリエは家主が室内の大改修をして、まるで3流のデザイナーズマンションみたいになってしまったのだが、唯一の利点は6個ある天窓がクリアガラスになったことだ。1930年代にできたこの本ものの貧乏人の画家のアトリエは、天空の散光を取り入れるためにスリガラスになっていたのである。 それが80年ぶりかに、クリアなガラスになって、しかも天窓だから虹も白鳥の飛行も、星もようするに目の上、頭の上でおこっている事象が全部見える。双眼鏡で星座を見るには、アトリエの床に横になって天に顔を向ければよいのである。 2001年、欧州からの戻りにタイ航空がインドとバングラデシュのナトリウム灯でえんえん数百キロにわたって照明された明るい国境に見た地平線近くにまたたかない、黄色い星があった。最初は何かわからなかったのだが、これはカノープス、老人星なのである。飛機が南方のそれも1万メーターを飛行していたから、見えたわけだ。老人星は昔から見ることがむずかしい星といわれ、それを見た者は幸せになるともいわれる。 今の「幸せ」とは、あの時のカノープスの瞬視のおかげなのだ。

作者: チョートク

更新日:2008年8月21日 8時4分

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レクタフレックス20000B

レクタフレックスは伊太利亜のカメラであることはいうまでもない。初期の一眼レフはどうしてこうも美しいのかとほれぼれするデザインだ。同様の次第は同時代のコンタックスSにも感じられる。無論、ライカやコンタックスのRF全盛時代だから、あたまでっかちのペンタプリズムはなるべく軍艦部には突出させないという、デザイン上の暗黙の了解があったものと思われる。実際、1947年製(自分の生年だ)に生まれてきた一眼レフは美しい。レクタフレックスは伊太利亜で生産された空前絶後、唯一の35ミリ一眼レフだ。そうそう、英国製の唯一の35ミリ一眼レフには、レイフレックスがある。これも美麗なデザインである。 一眼レフは紆余曲折を経て、カメラ人類の大半の尊敬するデジタル一眼レフに「進化」したわけであるが、その「ロゴを見るまでどこのメーカーの製品か不明である」というのは、まったくいただけない。レクタフレックスもコンタックスSも、そしてレイフレックスも、時代をもっと最近にシフトさせるのなら、ミランダだって、ニコンFだってキヤノンフレックスだってペンタックスだってミノルタSRだってペトリペンタだって、それらのカメラを100分の一秒だけ瞬視しただけで、それが何であるのかわかる。一方で、最近のデジタル一眼レフはそりゃフルサイズで画像の乱れもなしに6400まで無理なく撮影できるのは偉いと思うけど、カメラを見て、そのロゴを見て、初めてそのメーカーがわかるのははなはだ残念だ。 プロ用の映画機材、アリフレックスとかアトーンとかいう70年代の値段は天文学的な数字であったが、あの手の世界じゅうで3000台とか2000台とか少数が生産されたプロ機材は実に美しかった。それを手に入れるためにはまさか悪いことはしないにせよ、万難を排してでもそれを入手しようと思った。今になって、経済的にかなり無理をしてそれらの世界の銘機が佃の部屋にがらくた同然に並ぶ光景を見て、人生の夢が実現したという感覚はなく、「手にしてみると大したものではなかった」という軽い失望感の方が先にたつ。それでもそのデザインを鑑賞するに、アリフレックスはそのように、アトーンはこのようにそれらのデザインのラインをうたっている。他にデザインで勝利しているのはフランス製のエクレールとか、同じくフランス製のパテ(足穂の御贔屓なパテベビーだが、自分の好きなのは70年代のパテ16BTL)などなど。 レクタフレックスのこのモデルは10年以上前に坂崎さんの友人から買った。坂崎さんがそれを持参してくれて、銀座8丁目の並木通りであったか、まだ坂崎さんの車が黒いジープであった当時の話だが、ボンネットの上に各種のカメラを並べてカメラ談義となった。まるでモスクワのイズマイルスカヤパークの蚤の市状態だ。坂崎さんの友人から託されたそのレクタフレックスを手にして、坂崎さんに何枚かの万円札を渡した。まるでモスクワの青空市だ。 それから7年ほど経過して、レクタフレックスの本がイタリアから出た。この本はイタリアがグラフィックの本家であることを標榜しているような、美麗なハードカバーだ、英語版であったがその本は数年前に土浦のさかい写真実験室にあずけてしまったので、手元にないから、あらためてもう一冊、買った。これはイタリア語版なのである。やはりイタリアのカメラの話だから、言語はイタリア語に限る。その本を見ていて、譲り受けたレクタフレックスは20000Bという、製造台数が200から300というレアものであることが判明した。レクタフレックスはその製造番号でモデルを特定するのである。 レクタフレックスはデザインもさることながら、専用ケースなど革製品の作りは非常に良い。レクタフレックスローターという50-75台の製造記録のある、ターレットで3本のレンズを交換する特殊カメラ(1950年代にはまだズームレンズは一般的ではなかった)についている革製のストラップなどは、半世紀経過しているのに、先月に工場から出荷されたかのようなフレッシュさである。 一方で、レクタフレックスのアメリカでの輸入代理店がアメリカでしつらえた、レクタフレックス用のセットケースなどは、すでにその縫い目がばらばらになっている。無残。 レクタフレックスの中身がデジタルであったらよいのに、、、、と妄想しているのである。

作者: チョートク

更新日:2008年8月20日 8時31分

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Dell vs Powerbook

ヒルズで仕事をするようになって、満5年は過ぎて、6年目になった。その間に本も20冊以上は出ている勘定になる。 最初のうちは、本のあとがきに「49fの暮れなずむ東京を見つつ、著者」などと気取っていたのは良いが、それがそのあとの数冊のあとがきで、ソナタ形式で繰り返されるようになるとどうも鼻につく。それで最近では他の言葉を選んだりしているのだけど、それが何であったのかは記憶にない。 あたしの場合、あとがきというのは一種の宣戦布告だから、一番最初に書いたりするものであって、出版社の編集者さんは最初にそこだけを見たり、また書評を書いてくれる先生方はまずそこから読み始めるので気が抜けない。だからもう少し、まともなあとがきを書こうと思っているのだが、思うにまかせない。 先週は家人は新潟の「別荘」に行っていたので、おもに佃でライカインコの飼育掛を拝命しつつ、仕事をした。佃にはシステム9−2−2の旧式のパワーブックしか置いていない。その理由は、フレッツとかいうブロバイダーの光接続がそれにしかセットされていないのだ。パワーブックのタイガーから接続もできたのであるが、それはこの前、HDがクラッシュしてしまい、そのままになってしまった。要するに、セットアップのとき、付属のCDで助けを借りないとマンションの光は接続できないという面倒がある。 持参のパワーブックで世界のどこでも、ホテルの部屋でもいきなり無線ランに接続できるのが普通なのに、フレッツとかいうのはその間にワンクッションあるのは理解できない。やそれでYAHOO BBに乗り換えようとしたら、うちのタワーはフレッツだけの独占らしくて申込自体ができない。なにか裏カルテルでもありそうだ。 ヒルズで使っている型遅れの2台のパワーブックはそのまま無線につながるのだが、佃はその面倒がある。その接続のアシストのCDがどこで手に入るのかもわからないので、実に困っている。フレッツなんとかのHPでも調査したが、こういうHPは知りたくもないことばかりで、知りたいことが出ていないのは他社のサポートと同じである。 それで佃ではメールをチエックしたり日記の更新くらいなものである。システムが古いからエアチケットなどもPCで買えないわけだが、考えてみればそれを佃でやってしまうと、わざわざヒルズに来る意味もないので、考え方によっては佃のPCはあまり万能ではない方が良いのである、と、思いこむことにした。 ヒルズではまるで4流の為替業者のように3台の電子計算機を並べて仕事をしている。この中で一番に速いのは、言うまでもなく右端のデルである。これはライブラリの貸出マシンだ。 まずヒルズの5年間で自分にとって何が教育されたのかというならば「ウインドウズを使えるようになった」という一点に尽きる。使えこなすなど最初から望んでいない。退屈なパワーポイントなどは間違っても使う気にならない。 第一、新型カメラの発表会でパワーポイントを使っての暗い場でのプレゼンは眠気を誘うから、ほとんど寝ているようである。 しかしPCはやはり新しい方が高速なのであって、5年型遅れと7年型遅れのパワーブックはどうも安物のデルの相手にもならない。最近のデジカメと同じであって新しさはそのままに価値であるのだが、それならデルをを一台買おうなどという気分には絶対にならない。 かつて、ネクストなどには確固たる物欲を刺激するところがあった。それがマックでもパワーブックG4などは物欲を刺激してそれを手に入れることが、人生の一部の目的にはなった。そのパワーブックもマックブックという変な、よっくもっくみたいな名前になってから、すっかり物欲が萎えてしまった。これも年のせいであろうか。 10数年前、秋葉に意を決して、30万円ほどのマックを買いにゆくことがあった。でも、その売り場で躊躇してしまうのである。同じお金をライカに投資した方が良いのでは、と、賢いユーザー気取りの自分は思いとどまった。 あの判断は今でも正しい。PCの方は処分するのにもお金がいる。ネクストのカラーステーションなどは、モニタとマシンを捨てるのに1万円もかかった。

作者: チョートク

更新日:2008年8月19日 1時14分

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ライカとエクレールに亡き人を偲ぶ

ギャリーウイノグランドは例のコンポラ写真家の数人のスターのひとりである。コンテンポラリイフォトグラファーズトワードアソーシャルランドスケーブという、じゅげむのようなタイトルの四角い、白い、ハードカバーの写真集を60年代の半ばに銀座のjena洋書店から買ってきて、われら写真学生はこれをバイブルにしていた。 その中の4名だかの、メンバーはいずれも健在だけどただひとり、ウイノグランドだけは早くガンで卒している。彼の愛用のライカM4は普通のクローム仕上げであるが、彼のストリートスナップのその激しさがそこにあらわれていて、ベトナム取材でもないのに、こんなにカメラがやれれるのか、、、と思った。そのカメラはそ後、他の写真家の手に握られて今でも作品をものしている。 人間の命に比較すると、ライカの命はながい。 連載の扶桑社の文芸誌en-taxiでの次回「カメラとあるく」のために平カズオさんの奥様のまどかさんに過日、お目にかかって平さん遺愛のライカM3を拝借した。この前のニコンサロン銀座での平さんの作品が秀逸であって、それはそれまでの自分の平カズオ像を一掃したのである。撮影のため、拝借したライカはオリジナルのブラックペイントだが、すでにすべての塗料がはがれている。次回の連載のタイトルはそれで「平カズオさんのライカと歩く」となるであろう。 せっかく、ヒルズにご足労いただいたので、クラブで平さんを偲んで、献杯をしようと思った。ところが御盆の数日はクラブはずっとお休みなのだ。それで49fのゲストルームで赤ワインを献杯した。そのワインは有楽町のビックカメラの酒売り場で買った。そこでワインを買ったのは初めてである。 平まどかさんは、木村伊兵衛さんが愛用していた、ライツ製の28ミリのクロームファインダーを示した。そこには革ケースの内側にIHEI kとある。記憶にあるマヌスクリプトでインキ書きだ。平さんは木村名人に可愛がられた。木村さんのミュージアムが出来たら、そこに寄贈するのに、まだ出来ないのでしょうか、とまどかさんは言った。 これが金曜の夜。 土曜の夕には別の来客が2名。チエロのもときち、と、kataoka yukikoである。 もときちもkataokaも実に久しぶりに会った。そのきっかけは、この1月にビッグバンをした新川の画廊男の縁なのである。 4個のグラスに赤ワインを注ぎ、その1つを「お誕生席」に置いて献杯。画廊男の思いで話しなどをぼつぼつしていると空はフェードアウトして東京タワーの背後の夕焼けの積乱雲がわだかまって凛としている。 時が移って、複雑にからんだ空のはるか上の方で雷の電光が走った。それが実にドラマチックなので、3人で観賞した。遥か東の地平線に見事なエクレールの痕跡はまるで、スケッチのように見えた。 これは画廊男が我々に見せているパフォーマンスなのだと、3人でうなずきあった。 画像はリコーR7で撮影。

作者: チョートク

更新日:2008年8月18日 0時1分

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KCチョートクカメラコラム

KCチョートクカメラコラム ★デジタルカメラ VS 銀塩クラシックカメラ ニコンFに付いていたレンズをちょっと借りて、ニコンD700で使う ニッコール350ミリというのはトリプレットタイプであるから、SPファンには人気のTニッコール105ミリf4と同様な構成だ。小型軽量の先細りレンズの105ミリf4がそのまま大きくなったと思えば良いのである。 だから、350ミリf4、5は「大形軽量」という変な言い方もできる。 60年代に「スペイン偉大なる午後」を撮影した、奈良原一高さんはもっぱら闘牛でこのレンズを使っていた。「ぼくは何時も闘牛場で一番長いたまを振り回しているカメラマンだった」と往時を一高さんは追想している。 一高さんは、あまり腕っぷしの強いタイプではないが、大形軽量だからT350ミリを愛用したのであろう。 あたしのレンズはもともと、ブロニカD用なのを、コパルの0番を付けて、4x5にも使える。 急に冷涼になったので、その反動でちょっと夏ばてにて、寝室で横になって、柳田国男校定の「紀行文集」(昭和5年博文館)を見ていた。これは江戸時代の諸国の紀行文の集成だ。 川面に大勢の人間のおたけびが聞こえてくる。北京の馬鹿騒ぎがここまで聞こえるわけはない。 バルコニーに出たら、永代橋の上は人で埋まっていた。 革命か!? いや、3年に一度の深川のお祭りのみこしが小雨にけぶる永代上を渡っているのだ。この間、やっていたと思ったらもう3年が過ぎたのか。まったく油断もすきもない。 これは撮影しようと思って、手許のニコンD700の24ー70ミリを外し、ベランダに出て、オートニッコール200ー600F9のレンズで連続して撮影。ライカインコが勢いにて、脱走してはならぬと気を使う。 すぐに部屋に戻って、PowerBookで結果を見たら、どうもシャープさが欠けているのは、この長いズームの癖玉のせいである。すぐに350ミリF4、5に付け替えて撮影した。こっちはなにしろ玉は3枚なのだから、抜けは良い。シャープさも満足できる。 それがこの画像である。 御覧のように、350ミリはニコンFに付けていつも見える場所においてある。それにはフイルムが入っているが、日曜の午後ではラボはお休みだしいかんともしがたい。こういう「お祭り写真」はやはり速報性であろう。D700の勝ちである。 D3を使い慣れた指先には、D700のシャッターストロークがやや長く感じるので慣れるまでにちょっとまごついた。 銀塩カメラの銘機、ニコンFのレンズがそのままに使えるのは、やはり大したものである。 その使い勝手は、ライカのレンズをそのままエプソンで使えるようなものだが、フルサイズの画面がやはりこの場合には相当効果的だ。 永代橋上のみこしの行列は気温22度の霧雨に濡れてなかなか進まない。 芥川が「本所両国」の中で、明治時代にまだ残っていた、隅田川の河を船で流す「水売り」のことを書いている。その売り声が水面にずーーーっと響いて、それが無気味であったと。 永代橋上の「わーーーーーーっつ」という閧の声も無気味である。 画像はベランダから永代橋を望む。 ニコンD700 ニッコールT350ミリF4、5

作者: チョートク

更新日:2008年8月17日 17時0分

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ebayでRolleflex Standard をゲット

まだ東西ドイツが対立していた当時、ローライのセンター、ブラウンシュバイクは東ドイツの国境に近いさぶざむとした街であった。ローライの工場も閑散としていて、ラインが稼動しているのは一本くらいではなかったか。これは1970年代後半の話なのである。 工場を案内してくれた広報部長さんが、これは個人的な意見と前置きして「今でも自分の一番愛用しているのは、戦前のローライスタンダード、それとライカ3aです、と言った。今のマニュアル以外のことは口が裂けても言わない広報関係さんに比較すると、30余年前の広報担当はかなり自由な意見が言えたものだと感心せざると得ない。 その後にブラウンシュバイクに行ったのは90年代のことでたしか、当時のローライは韓国資本が入っていた用に記憶する。その後のブラウンシュバイク行きは2001年9月のことであって、その時にはパナソニックの広告の仕事で行ったのだから、むろん、ローライに行く時間はなかった。 その時には、旧東と西のドイツの地図を持って、昔の国境に沿ってドライブしたのである。すでに統合から11年が経過していたから、以前の東と西の差というのはその風景が「薄められて」しまい、ほとんど区別が付かなかった。 ブラウンシュバイクからそれほど遠くない所にあるのが、ルネッサンスがそのままに活きている、古都クエッテインブルクなのである。夢のような古都であった。 そのかつての西と東の領域を認識する方法はドライブ中にすぐに発見した。旧西と旧東とでは高圧の送電線のスタイルが異なるのである。いかに旧東の街が西側のお化粧をしても、その背景の鉄塔を見ると、その土台が分かるというわけである。 そのローライの広報部長さん、お勧めの戦前のローライスタンダードだが、これは軽くてシンプルで実によいカメラである。しかも大成功したカメラであるから、市場には潤沢にあってその中古価格も安い。 ebayで手に入れたのは、f3、5付ではなく、人気のf3、8付の方である。別にテッサーの暗いレンズの方が優秀というわけでもないのだが、これは「気分」の問題なのである。 その価格は160ドルほどであって、アメリカのセラーから買った。送料を加えて199ドルあまりだった。 嬉しいのは、箱型のケースが付いていることだ。 目下、えい出版から「ローライフレックスワークショップ」を執筆中だ。このローライを持って38年前にジャンプして、かの豊田とか名古屋とか常滑などを撮影に行く予定だ。 NDCの「三馬鹿アシスタント」とは、あたしと青山達雄とLAの遠藤知有であることも、すでに30有余年が経過して忘れられている。その前の初代の「三馬鹿アシスタント」は沢渡さん、有田さん、野沢さんであって、これはもう人間国宝に属する。

作者: チョートク

更新日:2008年8月17日 0時1分

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8月15日の憂鬱

昨年はこの日はプラハに居た。一昨年はどこに居たか忘れたけど、それは日記を見れば分かる。ただしそれを調査するのも面倒である。 63年前。 1945年の8月15日の古日記は、散見するにそれぞれに面白い。足穂は居候から居候の宿無し暮らしでこの日は引っ越しをしていた。その中でお昼のラジオのことにちょっと言及している。 荷風もこの日の記述に関しては淡々としている。内田百間の場合には、正午より重大放送ありというので、小屋から出て、母屋の二階の受信機の前に正座して、玉音放送を聞いた。涙が出てとまらなかったが、何の涙であるのか、それを考えることが出来ない、と記している。 陛下のお声は録音だが、終戦の詔であると記しているのはさすがだ。一般には漢文体の言葉だから、何を言っているのか分からないというであった。 当時のラジオは音ではなく「声」なのである。今のラジオ体操の歌の「ラジオの声に」という歌詞がかろうじてその生き残りである。 当時のラジオは文化であると同時に市民が最初に経験した暴力でもあった。犀星とか、足穂の記述の中に隣で一日中なりっぱなしのラジオの声に激怒して、ステッキでそれをたたき壊したり、どなり込んだりの話しが出てくる。今の時代は騒音の中でラジオなどは小さい声の方である。いちいちステッキで「ちらちら行灯」(これは犀星のラジオ嫌いが当時の受信機を呼んだ言葉)を打ち壊していては、それこそステッキが何本あっても足りない。 8月15日の憂鬱はそのラジオ放送関係のことではない。 昨日、夕刻、ヒルズに客があった。東京カメラクラブの旧友のおーにょさん(仮名)である。おーにょさんとのつきあいは実に古くて、あたしが日本カメラのフォトこんの審査をしていた当時、おーにょさんはライカで図マールで撮影したモノクロ写真を応募してそれが佳作に入選した。 それ以来、彼は東京カメラクラブの重鎮であった。そのおーにょさんと10年ぶりに会ったのは、民放でクラシックカメラのシリーズの番組を開始するので、その相談である。この番組は今朝からクランクインしているはずだ。 それは良いのだが、久しぶりの旧友を歓待しようとおもった。49fから一番近い飲み屋は、51階のクラブである。そこで麦酒でも一杯やろうと思った。 ちょっと厭な予感がした。あたしはお目当ての店に行くと、かならずそこは休みなのである。そういうジンクスがある。行き着けの店が閉店になると言うジンクスもある。その事情を知っているのは、おつきあいの長い浅田恵理子くらいのものだが、実際、浅田の荻窪在住時代には、ここで馴染みになった三軒の酒亭、つまりオリエンタルグリーン、荻の茶屋、それにウイスパーズカフェが閉店している。 工藤ゆきの実家のシャーロックホームズも閉店、最近では月島の西仲通りのたまやも閉店してしまった。どんどん行く場所がなくなってくる。先週、NHKに見学にいって、「瞳」のセットを視たら、そのたまやの前の紅いポストがTVのセットでもそのままにあるので、まるでたまやで呑んで、そのまま佃に戻るような錯覚がもたらされた。 そのいやなジンクスが適中した。ヒルズクラブは14日から17日まで改装のためお休みであるのだ。以前、やはり客がきて、これはお正月のことであるが、上に行ったらお休みだった。正月の3日にクラブが開いていると思うほうが思想が間違っているのであろうが、クラブに御盆休みがあるとは思わなかった。 それでおーにょさんに非礼を詫びて、ロッカーから出してきた、96パーセントのポーランド製のウオッカに氷りをいれ、ソーダを満たし、それで乾杯した。 憂鬱はそれで去ったわけではない。金曜と土曜の夕刻にまた客がヒルズに来る。自分の知っているヒルズの店は51fのクラブしかない。どうせ、ヒルズの中の他のレストランは御盆休みのお客で山盛りであろう。 それでまたあたしの来客に非礼を詫びなければならぬことになる。 画像はおーにょさんの愛機、ローライSLX。背景はきぬかつぎ。おーにょさんは「理科系」なので、自分でこういうカメラのメンテナンスができるという。すごい。カメラはR7。

作者: チョートク

更新日:2008年8月16日 0時1分

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雲の日記

改造社の昭和4年刊の円本のルビ付き文の中に、子規の一冊があり、その中に「雲の日記」という小品がある。4段組みで半頁もないような短い記述だ。その円本は今、プラハのアトリエと、佃に1冊づつあるが、佃のそれが見当たらないので記憶だけであるが、晩秋から冬にかけての雲の観察だ。 これが好きである。 似たような天然自然の記録には、独歩の武蔵野の中、あるいは足穂の「横寺日記」にもある。独歩のは雨や嵐のことを日記風に記述しているが、足穂のそれが灯火管制下の横寺町の袖擦坂の崖上から視た、星座観察なのだ。 佃の仕事場の大机の上は数年来、乱雑を極めてレンズ1本を置く余裕もなかった。それを決心して机上のがらくたを他に移動したら、PCを置くスペースができた。 この言い方は実は正しくはなくて、PCの周囲にスペースができたのである。 もっと凄いことは、PC(片遅れのPowerBook)を机の下に格納すると、そこに飛行機のFクラスのデスクの8倍はありそうな広大な平面が出現する。 普段、隅田川の川面を視て、窓際に勝間光学とkernの双眼鏡を備えて、一杯やるのであるが、席を大机の前に移動すると、眼下の隅田川は視野に隠れるけど、無限の距離の空と雲が見えることに気がついた。 それで最近では夕刻の良い時間までにあわててヒルズから走って戻ってくる。 積乱雲の奥行きを勝間の6x30で観察してついでに、R8を接眼部に押し付けてこういう画像を撮る。手前のシルエットはライカインコのパレスである。 勝間のレテイクルはkernのそれに比較して「写真映り」が良い。実際にこの十字線はスイス製のkernや、バイロイト製のシュタイナーm22の方が見えは良いのだけど、勝間のは文字がでっかいので、いかにも映画の中のワンカットという感じだ。 積乱雲は飛行機の中から視るのが最高だ。それが機体を墜落させる暴力そのもので、シップへの脅威がそのまま眼に見えているからだ。 だから亜細亜線などを飛行するのは興味深い。下の画像は同じカットだが、勝間双眼鏡はなし。 終戦50周年のその日に台北から成田にJALで飛行した時、はじめて副操縦士が左席(つまり機長席)に座った。その時の機内アナウンスはまだ慣れていない感じであったが「左側にかなり高度のある積乱雲が見えていますが、飛行には影響はありません」とあった。 やはり左席パイロットになってはじめての飛行では巨大積乱雲が気になるのである。その雲はまさにこの雲をずっと高くした感じでそれは左の窓から1時間以上も見えていた。 あの下は豪雨で強風が舞っているのだなと思った。

作者: チョートク

更新日:2008年8月15日 0時1分

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KCチョートクカメラコラム

★KCチョートクカメラコラムデジタルカメラVS銀塩クラシックカメラ二台のNikon------------------普段はこのコラムはデジタルカメラと銀塩クラシックカメラに稿を分けて記しているのであるが、今回は「五輪特番」というわけでもないが、たまたま2台のニコンが手もとに集まったので、それをコラムにする。 登場するのは、ニコンS2と最新モデルのニコンD700である。6月の西安行きではほぼ1週間、毎日、ニコンD3を片手に徒歩で西安市内を闊歩したので、大分体力は鍛えられた。その時に思ったことは、D3のような大きい、重い機材でもそれがいったん撮影体制になってしまうと、カメラという存在は「自己に対立する存在」ではなくて、逆に視神経の延長、自分の身体の一部と誤認されるようなところがあって、その重さはほどんど気にならなくなる。 ようするに、この30年で自分の体重が20キロ増えたけど、それは一応、日々の暮らしにはそんなに負担になっていない(だからこそ、心臓などに負担がかかって成人病上問題なわけだが)ということだ。ただし、D3のカメラサイズはいかにもものものしいので、これが新華社のオリンピック取材班ならともかく、自分のように西安の裏道、横道、獣道を闊歩するにはちょっと目立ってしまう。 いきなり登場したD700の場合、その重さはたかだか200グラムほどの軽量化なのであるが、サイズが小さくなったので、競合機のEOS5とどっこいどっこいの大きさだから、これは街ち歩き用の一眼カメラの大きさのとしては有り難い。 そのD700をニコンから8月末までかり出したので、それを肴にしてこの残暑を乗り越えようという魂胆である。 こなた、ニコンS2は1955年の登場である。D700との、その時間差は半世紀以上あるのだが、こうしておじいちゃんと孫ほどの年齢差のつ2つのカメラを並べてもあまり違和感は感じないのが愉快だ。寧ろ、NikonのそのNの斜めの線がぐにゃりとしているのが、現代的な今様のNIKONのロゴよりもかっこよく見える。 それにS2だって、見方によってはこれもk一種の疑似デジカメであって、CCDはフィルムが代用しているものの、その後、画像をCDに記録しておけば、それなりに便利である。 ニコンD700とS2の最大の違いを書き出すのなら、D700の方は撮影枚数が撮り放題で材料費はほとんど無料なのに対して、S2の方はどんなにがんばっても撮影枚数は36枚、つまり3ダースであることだ。 タバコをすっていないので、1箱に入っているシガレットの数は知らないけど、仮に24本としても、タバコとか撮影とか「身体に害のあること」の回数はせいぜい、2ダースとか3ダースとかの数にとどめてその数に見当をつけておいた方が体にも精神衛生上でも良いのに決まっている。 D700と、S2の最大の相違点はS2にはドラマがあるが、D700には高性能しかない、という皮肉な見方も可能だ。かの、ゲバラは大のカメラ好きであって、クローム仕上げのS2に50ミリf1、1をつけたのを持っていたらしい。革命の父がf1、1付きのニコンを持っていたというのは、これはすでに神話に属するが、さて、D700の場合には登場したばかりであるし、神話というのはある程度、それを醸す時間がかかるものだから、D700神話が醸される前に、次のD800とかD900に登場されては困るわけだ。 700と言えば、ちょうど1年前、ソニーのα700が登場して話題沸騰になったが、最近はあまりソニーの新型爆弾のうわさもない。ソニーのフルサイズも待たれる。D40とか40Dとか、700とか、メーカ−によって同一の型番なので混乱する。

作者: チョートク

更新日:2008年8月14日 16時5分

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