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トップ > 警察問題 > 警察問題 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月2日 2時)

[鉄道旅行]さよならフィーバーを避けながら0系「こだま」に乗ってみる

 0系「こだま」の定期運転最後の日である11月30日が迫ってきた。

 60年代の日本の鉄道における"高度成長"を象徴する新幹線0系。当時の車両はもう残っていないとはいえ、1964年から20年間も造り続けられ、21世紀まで生き残ってきたプロトタイプが消え行こうとする。

 今の30歳代、40歳代、50歳代、それぞれが小さな時に眺めていた図鑑や絵本の表紙を飾っていたのは超特急0系。あまりにも当たり前すぎる電車であったため、正直、80年代頃は鉄道マニアにとって新幹線車両というのはあまり趣味対象とはなっていなかった。その象徴が役目を終えようとしている。気にならないわけはない。

 この夏、「ポニョ」の舞台を訪ねて広島県三原に行ったとき(宮崎駿が鞆の浦を「崖の上のポニョ」の舞台と言いたがらない理由。 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月)も新大阪駅から0系新幹線に乗車している。18きっぷシーズン前とは言え、指定席1両は体験乗車の団体客で残席ゼロ。残る自由席5両も乗車率にすると3割程度ではあったが、マニアさんはそれなりにいらつしゃった。

 秋になるとその数も増している。週末になると、朝日の「初代新幹線0系フィーバー ラストランへ異例の警備」、産経の「ファン殺到!「0系新幹線」引退控えJR西が“厳戒態勢”」の記事のような状態になっているとか。

 てなわけで、

  • 最終日とか、12月の「ひかり」としての運転とか、0系にとって非日常的な状態はあまり興味がないので避ける
  • マニア以上に、ライトなファンや通りすがりの観光客が集まりやすい土休日は避ける
  • 新大阪を朝に出る下り2本には特に人が集まりやすいので避ける。
  • 夜間帯の列車はあまり景色も見れないのでこれも避ける

というような観点から、選んだのは博多発岡山行の「こだま638号」。

 17日夜(18日未明)の寝台特急「富士」で大分へ行き、「カルトな鉄道マニアが愛した別府の遊園地ラクテンチケーブルカーを訪ねて。 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」で書いたラクテンチケーブルに乗った後、博多駅前の東横インで宿泊。19日朝、博多駅へ向かった。


博多駅発「こだま」は博多南駅からそのまま直通

 「こだま638号」の博多駅発は9:19。

 ただ、7時前に早起きできたんで、まずは博多南駅へ行っておきたい。

 ご存知の方も多いと思うが、博多南線は、未完である九州新幹線(博多〜新八代)の路盤を使って運用されている通勤路線で、0系も含めた新幹線車両が、博多駅と車両基地の側にある博多南駅との間を行き来している。九州内にあるけど、運営は山陽新幹線と同じJR西日本である*1

 われらが「こだま」の0系も、前運用として、博多南線の博多南駅7:14発、8:17発、および9:07発の上り3本の運用に入る。どうせなら、博多からではなく、博多南から乗り込みたい。

 博多駅8:12発の博多南行き列車は100系4連だった。3年後には九州新幹線も行き交う路盤を進みつつ、博多南駅8:17発の0系6連とすれ違う。これは博多駅到着後、折り返し回送となって博多南駅に戻ってくる。

 その次の上り0系は9:07発なので、それまで博多南駅の周辺をぶらつく。

 8:26発の100系4連、そして8:40発の700系(レールスター)8連がそれなりの通勤客を乗せて出て行くと、通勤のピークを終えた1面1線のホームには静寂が訪れる。車両基地内の新幹線の多くは出払っているようだが、遠くに500系の頭が見える。12月から0系に代わって運用に入る8両「こだま」用の編成なのか。

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 そして、われらが0系。

 新幹線の路盤から分岐するレールの向こうから、あの真ん丸の顔が見えてくる。新幹線の本線から外れているんでポイントのカーブもきついんだろう。キイキイ音を立ててくる。カメラを構えているのは私ともう一人だけ。後の通勤客にとっては見慣れたら風景なのだろう。0系が近づいてきても誰一人目を向けようとしない。

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 8:53に到着。その後、車内整備と進行方向エンドの交換を行い、5分後に扉が開く。

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 博多南線638Aは博多南駅を9:07に発車する。僕の乗り込んだ先頭の6号車、自由席には15人ほど。シートは2列×2列の大型サイズなんでゆつたりとまどろみながら、前夜の睡眠不足を補うことにする。

 博多駅には定刻9:17着。僕以外の乗客はみんな降りていく。代わりに同数ぐらいの乗車がある。

 ここから列車番号は638Aのまま「こだま638号」と名乗ることになる。着席した人たちはビジネス客が多いが、0系を目的に乗ってきた感じの人たちも3、4人ほど。でも、あまりマニアっぽい感じの人じゃない。でも、やっぱり九州のマスコミでも報道されているんだろう。携帯の写メで0系を撮る人たちがそれなりに群がってくる。見ていると、テレビ局のクルーが車内でロケを始める。片手に新幹線をモデルにした人形。九州ローカルの番組なんだろうか。見知らぬタレントが座席で窓辺に佇むシーンを収めると、そそくさと隣の五号車へと行った。

停車時間はわずか2分。外に撮影に行こうかと思うがそんな時間はなさそう。発車間際になってグループ客が7人ほどいっせいに乗ってくる。朝っぱらなのに、みんな赤ら顔。しかも大量に未開封のビールを持ち込んでいる。静かだった車内が一気に喧噪に覆われる。ふう。

 「こだま」は定刻9:19に発車。

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最後の0系車内見学。様変わりしたところと昔と変わらないところ

 次の小倉ではビジネス客とテレビクルーが降りていき、代わりに山陽方面へ向かう人たちが乗り込んでくる。マニアっぽいのも数人、そういや昨日の「富士」で見かけた人も3人ほどいる。

 関門トンネルを潜る間に車内見学。

 まずは3号車の公衆電話。

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 テレホンカードと電話機か……。むかし、ここから外部に電話をかけることだけでも「凄い」と思える時代があったんだよなあ。ほんの10年ほど前までそんな時代が続いた。外部から車内にかかってくると「○○様、3号車の電話まで……」と車内放送があったんだよなあ。それを宣伝目的で使う企業まで出現した。プッシュホンになって、トンネルでも使えるようになり、そしてテレカ対応になって、そして……。携帯電話が日常になった今ではそれも遠い昔の話。

 車販準備室。ここが空きスペースになってどれぐらい経つんだろうか。ステンレスとかはきれいに保たれているだけあって、なんだか遠い昔のような気もする。

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 3年前の正月に乗ったときは、まだビュフェ付きの0系も走っていたんだよなあ。20年前、1998年3月号の時刻表の編成案内のページ。日本食堂や帝国ホテル、都ホテルという食堂車の定番会社の中で、にいきなり「Mr」とか記号が出てきたときは驚いた。ビュフェでレンジでチンしたビーフカレーを出していた丸玉給食。意外に旨かったんだけど、あの会社はいずこへ……*2

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 そして最後尾である1号車の乗務員室。あの向こうで座ってみたいと何度、夢見たことか。

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 いや、実は、一度、営業運転中の新幹線の乗務員室にお邪魔したことがあるんです。それも20年前、高校の修学旅行で新大阪から小倉へ向かう貸切列車でした。鉄研メンバーでデッキのあたりをウロウロしていたら、車掌さんが後ろ側の運転台に招き入れてくれた。団体なんで仕事がなくてヒマしていたんでしょう。鉄道マニア的にはサイコーの角度から広島駅にちょうど駅構内に入ってきたオリエント急行と遭遇*3。小一時間ほど数人でお話しさせてもらった上で、「あさかぜ」の個室寝台の使用済みカードキーをちょうだいした。その時の新幹線はもちろん0系。


博多〜岡山間で計8本の「ひかり」・「のぞみ」に追い抜かれていく

 新下関駅は9:49着。

 ここでは5分停車。その間に後続の「のぞみ16号」に抜かれていく。先頭車へ行くと、同業者が5人ほど。平日の上りゆえにマニアは少ない。これはラッキー

 で、N700系が時速300km/h(?)で通過。うーんブレてしまった。まあ、いいか。

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 続く厚狭駅には10:06着。ここも5分停車。待避線と通過線の間にはコンクリートの柵がある。新幹線ホームが設置されたのは2001年と開業から四半世紀してから。以前の面影がそのまま残っている。

 少し待っていると「ひかり454号」が通過。レールスター仕様の700系。こっち方が見栄えはするなあ。

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 新山口駅は30秒停車。徳山駅は10:39着。5分停車で「のぞみ18号」N700系の通過待ち。空が青くなってきたからか今度はシャツタースピードも露出もイイ感じだけど、押すのが早すぎた。

 次は新岩国駅11:02着。「ひかり476号」と「のぞみ176号」の通過待ちなんで、ここでは10分間の停車になる(ただしこの日は「のぞみ」の運転なし)。時刻表を見ていたら時間があるのは分かっていたんで、下りホームへ。僕の動きを見てか、数人のマニアも後を追う。

 発車後、車内販売が6号車へやってくる。

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 今回のさよなら0系キャンペーンにあわせて、主要駅で0系をデザインした駅弁というのが販売されているらしい。車販にも持ち込んでいるというので期待していたのだけど、置いてあったのは幕の内弁当が一つのみ。う〜ん、ちょっとなあ。でも、朝が早かったので腹は空いている。とりあえず0系の車販でモノを買うのもこれが最後だし……とベタな理由で買ってみた。期待していなかった分、中身がバラエティーに富んでいて意外に良かった。新山口駅持ち込みの「幕の内(きらら)」は950円だけどオススメ。

 広島駅は短時間で発着し、次の東広島駅は11:42着。ここの5分待ちでN700系「のぞみ20号」。「もう博多『のぞみ』はN700系だなあ」と感心していたら、シヤッターチャンスを逃す。もう通過シーンを撮るのも厭きてきた。

 新幹線と言えば16両が常識だった時代に成長したマニアの1人として、22年前の国鉄最後のダイヤ改正で6両編成の0系を見たとき、なんとも言えぬ寂しさを感じたモノだけど、今となっては、時代の先端に行っていた当時とはまた別な愛嬌というのも湧いてきた。これはこれでいいんだろう。たぶん

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三原駅の8分停車の間に0系見物にやってきた幼稚園児たち

 三原駅は11:59着。ここも8分待ちで「のぞみ」と「ひかり」に追い抜かれる。光の加減からすると、下りホームから撮れば順光になるかな......というので再び反対の下りホームへ移動する。

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 すると、階段の上では小さな子供たちの団体さんが30人ほど待ち受けていた。近所の保育所か幼稚園からやってきたんだろう。

 ちょうどホームに下りの100系「こだま」がやってきたのだが、先生に従い、ホームの黄色い線の内側にきちんと整列しながら、みんなで新幹線を見物している。

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 園長先生っぽい男性の

「今日は500系以外の新幹線はみんな見れたね*4。どの新幹線が一番好きかな?」

との問いかけに、

「あの丸いの!」

「おだんごさん!」

「ボロ!」

とチビちゃんたちは応えている。もちろん、今日のヒーローは、上りホームに停車している0系なんだろう。

 時代は流れども、新幹線のエースであり続けた。いろんな海外で鉄道マンたちと話す機会に恵まれてきたが、プロである彼らが知っている、そして尊敬してくれる日本の鉄道というのは、もちろん新幹線。それは300系でも700系でもましてやMAXでみなく、われらが0系である。

 そして僕自身。鉄道マニアとして永年やってきたその中で、一番古い記憶というのが、新幹線博多開業翌年の1976年の夏。京都から博多まで乗車した「ひかり」で、当然、0系。それから32年の歳月が流れたのか。

 今日、三原駅で出会った園児たち。10年後、20年後、そして30年後まで、丸っこい顔をした新幹線がご近所を走っていたと言うことを。そして0系という名前と姿を覚えてくれてるといいな。


淡々と岡山駅に到着した0系「こだま638号」

 新尾道駅、福山駅と停車し、新倉敷駅ではまた5分停車。700系「のぞみ」に抜かれていく。偶然、乗り合わしたらしいちょっと美形の女の子も携帯のカメラで0系をぱちり。

 そして次は終点の岡山駅。

 あの懐かしいメロディーが流れて、車内放送で岡山駅での乗り換え案内。ここは「のぞみ」だけでなく、四国方面や山陰への特急、山陽線、津山線、赤穂線、吉備線、伯備線......と乗り換え列車の説明が長いんだよなあ。

 定刻12:53に到着。

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 博多や広島から乗ってきた人たち、そして次の「のぞみ」を待つ人たちも含めてみんなで0系を取り囲む。博多南駅から4時間ほど、運用廃止前にもかかわらず、穏やかな雰囲気で、マニアだけでなく普通の人やチビちゃんたちに取り囲まれながら、0系を見送ることができた。いいタイミングでお名残乗車ができたような気がする。

 扉を閉めて10分ほどホームに留まった後、13:05に再び動き出した。折り返し線にいったん留置され、次は岡山14:51発「こだま659号」として博多駅へ向かうことになる。11日後の11月30日、この博多行き列車が0系最後の定期運用となる。

 もうたぶん0系が走っているシーンを見ることはないと思う。最後の姿が気にならないと言ったらウソになるけど、最終日とかイベント用さよなら列車を見送るのは止めておこうと思う。非日常的な喧噪の中で0系を見てもつまらないと思うから。そこらは自身のポリシーとも繋がる話なんだけど、それはまた別の話。


<参考>

2006-11-21海外では、0系新幹線が今でも人気です。 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月

2007-12-19おお、ついに0系廃止の日が報道されてしまった…… - とれいん工房の汽車旅12ヵ月

<オススメ>

編集長敬白: 0系、ラストウィーク。

*1:ただ、開業前の取り決めにより旅行センターはJR九州の「ジョイロード」。JR九州の社員も駅に従事

*2:貼付の写真は05年1月。丸玉食品の現在はこちら→http://www.marutama-net.co.jp/company/enkaku.html。1987年に新大阪駅構内で営業を始めたご縁で新幹線のビュフェを担当したのかな。「ウエストひかり」として0系食堂車が機能したのは1988〜2000年

*3:フジテレビのイベントでヨーロッパから日本に来てたんですよ

*4:これもなかなか濃い質問だが、僕も500系「のぞみ」を見たかった

作者:katamachi

更新日:2008年11月26日 20時16分

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[鉄道旅行][廃線]カルトな鉄道マニアが愛した別府の遊園地ラクテンチケーブルカーを訪ねて。

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 別府市の老舗遊園地「別府ワンダーラクテンチ」が十一月末でいったん休園となることが五日、分かった。

ラクテンチ今月末で休園へ大分合同新聞、2008年11月05日

 山陽新幹線0系が08年11月、そして東京発九州行きブルトレが09年3月に廃止......と報じられている中、この秋、チャンスがあれば九州へ行ってみたいと思っていた。

 そんな中に飛び込んできたのが上のニュース。大分は別府温泉にある「別府ワンダーラクテンチ」http://www.wonder-rakutenchi.jp/という遊園地も今月末で休止になるという。

 このラクテンチ。戦前から続く由緒ある遊園地である。地方の小都市にしては珍しい。絶叫マシーンが導入されることもなく、昭和期っぽいレトロさと、遊園地が子供向けだった頃の色遣いと、「探偵ナイトスクープ」の"パラダイス"的なニュアンス。それらが色濃く残っている所である。

 そんな前時代的な遊園地は大都市部からほぼ一掃されているので、興味深いと言えば興味深い。ただ、それだけなら鉄道マニアが飛びつくはずもない。

 ここが屹立しているのは、温泉旅館が密集している平野部と、山の中腹にある遊園地とを結ぶ坂道に、園直営のケーブルカーが運転されている点。しかも、これ。戦前の1929年、鉄道省から地方鉄道法の免許を受けて開業した本物の鉄道会社の施設だった。延長キロは300mにも満たないミニ鉄道ではあるのだけど。

ラクテンチケーブルは、鉄道マニアが「日本の全鉄道完乗タイトル」を目指すための最大の関門だった

 今でも岡本製作所という遊具製造メーカーが国土交通省の監督下で鉄道事業法の許可を得て運営している鉄道であり、その意味ではJR東海や西武鉄道、銚子電気鉄道などと同格の存在でもある。

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 鉄道乗りつぶしなんて趣味がマニアの間で一般化された80年代から、旅行派の鉄道マニアの間では常々、話題になってきた。「おい、あんた、ラクテンチのは乗ったのか?」と。日本の鉄道を全て踏破したいと考えているマニアは少なくない。なら、鋼索鉄道として運営されているラクテンチケーブルも、とりあえずは押さえておかねばならない。

 ラクテンチのケーブルは、遊園地と一体化された施設の一つになっている。すなわち入園料を払わないとお目当てのケーブルカーに乗車することができないのだ。その点、東京ディズニーランドのモノレール(これも旧運輸省の免許線)とは異なる。

 値段は700円(当時)とか決して高くはない。その出費に文句を言う人はいないだろう。ただ、独身男の鉄道マニアが、遊園地を1人で訪ねるのには様々な葛藤が必要だ。知り合いのいない地方都市とはいえ、正直、気恥ずかしい。そして、そんな世間体への未練に打ち勝った物だけが、来るべき「日本の全鉄道完乗タイトル」という栄光に向かって走ることができる。

 僕はラクテンチ初体験を大学一年生だった1991年に済ませている。いろんな意味で勇気が必要だったが、乗車してしまえば、他の鉄道マニアに"自慢"できる。一部の乗り鉄を除けば、こんなケーブルカーなんてマニアでも誰も注目していないからだ。

 それが今年11月で休園。ここから復活できる芽はあるのか。なかなか難しい。

 ならば、もう一度、行っておかねば......と思い、みどりの窓口で17日夜京都発(18日0:36)の特急「富士」のB寝台下段の切符をゲット。一路、大分へ向かった。平日夜ゆえにベッドはほとんど空いている。B開放式寝台の乗車率は25%を割っている。これでは廃止も致し方ないのか。

 日豊本線はダイヤが乱れていて、杵築などで運転停車、徐行が連続する。

 大分着11:31。定刻より14分遅れの到着だった。

 他の鉄道マニア同様、老いさらばえたブルトレの姿を撮影した後、別府へ向かう普通を待つのだが、なかなかやってこない。日出行きに乗って別府に着いたのは予定より25分遅れの12時20分になっていた。


おとぎの城とケーブルカーが中年男一人旅の僕を待ち受けてくれた

 ラクテンチ方面行きの亀の井バスは、駅の海側のバスターミナルから出る。1時間に2本運転で、次は12:45発だ。ケーブルカー乗り場は駅から2kmほど離れている。

 別府の山手にある住宅地を抜けていくと、道路の向こうに白とピンクと黄色で彩られた建物が見えてくる。絵本で子供が喜びそうな「ケーキで造られたお城」というイメージか。昔はもっと地味な作りだったので、現経営者の岡本製作所が四年前にリニューアルしたときにデザインし直したんでしょう。

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 ここに三十路半ばの中年男が1人で入るのか......

 初めて訪ねた19歳の時はかなり羞恥心はあった。でも、今は、ケーブルーのため、パラダイスな遊園地を見るためと割り切りが付いている。それがオトナになった証なんだろうな。

 窓口に行って、切符を一枚購入。ホームページに割引券を出したら100円おまけで、900円也。最近は鉄道マニアの個人客も多いんでしょう。窓口の女の子も事務的に対応してくれる。

 次は13:00発。写真を撮っていたら、「もう出ますよ」と急かされ、乗り場へ直行する。

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 下の駅は正式には雲泉寺駅(ラクテンチ下駅)。ここから山の中腹にある乙原駅(ラクテンチ上駅)まで253.5m。時間で言うと2、3分の距離だ。

 私の乗車を確認すると、女性の添乗者(車掌に相当)が出発を確認。ゴトゴトと音を立てて扉が閉まる。客は1人のみ。

 そして13:03出発。僕を待っていたので定刻より3分ほど遅れているが、そこらの融通はミニ鉄道なんでなんとでもなる。

 このケーブルカー。名前は、2号車「ライト」号。派手派手な塗装とは一転、車内はかなり地味なんだけど、きちんと掃除はされていて、小綺麗にはなっている。スタッフからは愛されているんだろうな(大阪のアルナ工機の1973年製 阪急系のアルナ車両、台車は1954年製と国内で現役最古参)。

 鋼索(ロープ)に引っ張られてスルスルとレールを登っていくと、ラクテンチ上駅舎の真上に観覧車のミニ版みたいなのがくるくると回転している。昭和テイスト満載の遊具が、ただ1人の乗客である僕を迎えてくれる。

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 やがて中間部の交差地点に差し掛かる。

 対向してくるのは1号車「スター」号。真っ赤に塗られた車体はインパクトはあるが、これも50年以上前の車両だ。

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 ひと息に行き違いをして、後部に視点を移すと.......眼下に別府の街と湯けむり、そして海岸線が一望できる。遠くには大分のコンビナート。別府に来るのは4年ぶりなんだけど、この街、ヨソ者が思っているより意外に大きいんだよね。

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 とか、考えていると、もう終着駅が近づく。

 13:07、ラクテンチ下駅に到着。わずか235mの旅は終わった。

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 待ち客がいないからか、黄色のライト号はすぐ出発。さっきの女性添乗員と共に下っていく。今度は代わりに赤色のスター号が上ってくるのだが、こちらは無人。平日の昼間、しかも長期休園の直前。客がいないとはいえ、いいのかなあ。

 さて、

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という案内に従って、外へ出てみる。

 駅舎はこんな感じ。遊具とピンクのペンキに埋もれているけど、一応、木造の趣きのある建物でした。

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「この後、ケーブルカーってどうなるんです?」という質問はできなかった

 列車に乗ること5分。鉄道マニアとしての用件は済んだ。

 この後、日本で唯一(たぶん)と思われる遊園地内のホンモノの温泉に入り、なぜか園具よりも熱心に管理されている「動物園」を訪ね、小一時間ほどこの温泉町の外れにある園内を散策した。来客が私を含めてわずか3名。途中で2人ほど加わったが、それでも5人。園内には十数カ所の有料施設が存在するのだが、そのほとんどにスタッフすら配置されていない。晩秋の平日とは言え、これでは遊園地を維持していくのは、いろんな意味でキツいのかなあと思わざるを得なかった。

 小倉へ行く特急電車の時間もあるので、14時過ぎにはラクテンチ上駅へ戻った。

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 ※運転間隔は20分毎だが、来園客の動向により随時臨時便を運行している。朝9時の開園前から従業員輸送も兼ねて運行を行っている

 駅舎の乗り場では、ちょうど昔の写真の展示がなされていた。開業まもない頃のケーブルカー、団体さんで賑わっていた高度成長期。このケーブルカー、そして遊園地がまだまだ輝いていた当時の面影を感じ取られた。あくまでも別府温泉へ来る観光客じゃなくて、地元・大分の人たちの施設だったんだろう。

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 それが、観光重要の変化、遊園地離れ、少子化、施設の陳腐化……そうしたものを背景として、利用者が激減していく。私が前に来たのは1991年。まだバブル経済の香りが残っていた時代だったが、その時でも明らかに施設は老朽化し、時代遅れになっていた。遊園地経営にとって厳しい時代が到来していた。それから17年間、よくスタッフたちによって維持されてきたんだ……と考えるしかないのかもしれない。

 次は20分発か...と駅舎の待合室で1人、たたずんでいると、いきなり強風が吹きすさむ。その拍子で木製の扉が開いた。その向こうはケーブルカーの心臓部である機械室。戦後、復活したときから50数年間、この異形の"鉄道"を守ってきた機械たちがそこにはいるのだろう。ぷーんと油の匂いがした。

 さすがに勝手に入るのははばかられたので、ちらっと部屋を覗き見する程度にする。入口の脇には、九州運輸局の張り紙、そしてケーブルカーの緊急時の連絡網が掲示されていた。ここが、戦前の鉄道省から運輸省、そして国土交通省鉄道局の免許行政の元で80年近く維持されてきた

 そろそろ出発か。時計を見ていると、年配のスタッフが姿を現した。声をかけられたんで、関西から来たんです、と応えると、最近、遠くからのお客さんが増えてきてねえ。なんて話をしてくれた。

 たぶん彼がここの責任者なのであろう。そんな超ベテランならいろいろ逸話も持っているのだろう。そして、この遊園地。11月末で休園となるけど、その後、どうなるのか。いろいろ聞いてみたいこともたくさんある。

 でも、聞けなかった。

 今度、休園しても、来年春、シーズンが始まってから再開する見通しがあるのか。正直、この遊園地に可能性があるとは思いにくい。他の用途で使うにしても、コストがかかるし、施設のリニューアルも必要であるケーブルカーを維持するということは、ちょっと考えにくい。大量輸送するほどお客さんは恒常的に来てくれるわけもないし、すでに施設の裏側へは舗装道路が繋がっている。それを知っていて「どうなるの?」とヨソ者が訪ねるのは失礼であろう。

 ちょっと話に詰まったんで、代わりに聞いたのが遊園地側の地元の方の話。施設の裏側に駅名の由来ともなった「乙原」という集落があり、公民館を中心にそれなりに人家がある。以前から、ここの人たちも、運賃を払って園内のケーブルカーを利用して下界の集落との間を行き来していた。基本的には、来園客へは以前から入園券とのセットで販売している(クルマで裏側の駐車場から入園した人は、300円/枚の園内共通の乗物券を出せばケーブルカーにも乗れるらしい)。じゃあ、地元の方向けには個別で切符を販売しているんだろうか。かねてから疑問だった。

 お話しによると、地元の自治会と会社側との話し合いで、運賃のやりとりはしていないらしい。で、たまに地元の方の利用もあるけど、通勤や通学で使う人はいないんだとか。


大きな地図で見る

 となると、昔はどうだったんだろう。運輸省や陸運局はそういう扱いを認めてくれるのか。

 いろいろもっと聞きたい。この謎の鉄道について、もっと知りたい。

 そんな思いもあったのだけど、14:20。発車の時間がやってきた。おじさんももう少し話したそうな雰囲気だったけど、さっきすれ違ったカップルも乗り場に来ているので待たせるわけにはいかない。

 行きと同じ女性スタッフに促されてホームのケーブルカーに乗り込む。車両はさっきと同じ黄色のライト号だった。

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 乗車3分。14:23に下駅に到着。

 別府駅からの特急まで時間の余裕がなかったので、窓口でタクシーを呼んでもらった。2kmほどの距離だから余裕を持って到着できた。

 駅でちょっと遅めの昼食を買い、高架上にあるホームに上がった。ふと山手を見ると、山の中腹に先ほどまでいたラクテンチ遊園地が見えている。ロケット型の温泉施設の脇に、「ラ」「ク」「テ」「ン」「チ」と大きくデザインされた文字板が見える。

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 次に来たとき。ここはどんな風になっているのだろう。ケーブルカーはまた動いているんだろうか。

 小倉経由博多行きの「ソニック38号」は定刻14:49に到着。自由席に座り、ゆっくりと動き出す電車の窓から再び文字板を見ながら、そんなことを思っていた。

 この後、九州のもう一つのケーブルカーである帆柱ケーブルを再訪し、昨年末にできたというスロープカーに乗って、「日本三大夜景」(自称)である皿倉山で、ナウなヤングのカップル2組と夕暮れから夜の帳が落ちるまで一緒に眺めていたりしたんだけど、それはまた別の話。

(園内での話は、また後ほどに書きます)


追記 その後のワンダーラクテンチの様子

 7月に「ラクテンチ(@別府)ケーブルカーが8月末で廃止か? - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」で書いたように、数年前からラクテンチケーブルの存廃はあちこちで話題となった。それからの経緯は以下の通り。

  • 1998年 ラクテンチの山側にあったリフトが廃止

 一九六二年、ラクテンチ西側の立石山に通じる延長六百五十四メートルのリフトが完成。八四年には、約四キロ離れた別府市東山の遊園地「しだかユートピア」まで結ぶロープウエーとリフトもできて、別府湾と市街地、奥別府の山々を一望する「空中散歩」が楽しめた。台風による被害などで九八年に廃止された。

【別府新聞】ラクテンチ今昔

  • 2002年 別府鋼索鉄道→別府国際観光が遊園地の一部としてケーブルカーを運行していたが施設の陳腐化や入場減で閉鎖を検討
  • 大阪の遊園地メーカー岡本製作所が引き受けを表明
  • 2003年11月 岡本製作所が譲受、施設やケーブルカーを休止して全面リニューアル
  • 2004年3月 運行・営業再開
  • 2008年7月 岡本製作所が「8月末で経営を打ち切る方針」。閉園になるのかと地元で話題に。公式サイトにも「閉園のおしらせ」が掲示。同月、入園者は前年同月比で6割増
  • 8月中旬 大分の不動産会社九州観光ホームが譲渡の契約をしたと記者会見(岡本側は他に数社と交渉しているとのみ)。施設名は昔の「ケーブルラクテンチ」に戻すという案も
  • 8月下旬 契約する予定だったが、譲渡交渉が難航。9月1日からの営業譲渡は不可能。岡本が営業を暫定的に3ヶ月延ばす方針。存続を見越して秋の行楽シーズンの団体客の予約があったため(毎日)

 経営不振から八月末での閉園も検討していた別府市の老舗遊園地「別府ワンダーラクテンチ」が九月以降、従業員らの申し出により暫定的に営業を続ける方針を固めたことが二十六日、分かった。経営する遊戯機器メーカー「岡本製作所」(大阪市)は今夏での経営撤退を表明。大分県内の企業一社と詰めの交渉を進めていたが条件が折り合わず、交渉持ち越しが決定的になったのが要因とみられる。

 同製作所は七月、入場者減少により経営からの撤退を表明。当初、八月いっぱいで譲渡先を見つけるか、決まらなければ閉園するとしていた。

 現在、県内の一社を中心に交渉を続けているが、幾つかの条件が折り合わずに難航。譲渡交渉は九月以降に持ち越すことになった。

 同遊園地は交渉が成立するとの見込みから、幼稚園などの遠足の予約を取っていた。「閉園すると来園者に迷惑が掛かる」として、同製作所に営業延長を要望した。延長期間は十一月がめどという。

 今後も数社と交渉を進め、まとまらなければ新たな譲渡先も検討し、泉都の代表的観光施設の存続を図っていくという。

ラクテンチが暫定的に営業継続大分合同新聞、2008年08月27日

 継続期間は最長で3カ月を想定。大分市の不動産販売会社「九州観光ホーム」と譲渡に向けた詰めの交渉を続けているが、今月中の譲渡が難しくなったためだという。

 岡本製作所によると、ラクテンチの譲渡をめぐって数社と交渉を続け、九州観光ホームが「最も先行した状態」だった。園のシンボル的存在の「ケーブルカー」は、鉄道事業法に基づき譲渡先の新会社が九州運輸局から営業認可を受ける必要があり、今月中に認可を受けるのは時間的に難しいという。

「別府ワンダーラクテンチ:当面営業を継続 運営会社、譲渡先と引き続き交渉」毎日新聞2008/08/28(リンク切れ)

  • 9月9日 九州観光ホームと岡本製作所が九州運輸局へ行って説明を受ける予定(実際、どうなったのかは不詳。ここで九州運輸局へ申請して、認可を受けたら正式に契約することになっていたとも報じられた)
  • 11月 4日に一部新聞が九州観光ホームとの交渉が白紙にと報道。5日以降、大分の各紙、テレビが報道

 その内容は、

  • 岡本製作所は5日、経営譲渡先として基本合意していた不動産業・九州観光ホームとの交渉が白紙に戻った
  • 「先方の経営状態などを勘案して契約を断念した。早いうちに譲渡先を見つけて開園させたい」
  • (九州観光ホーム?と)譲渡交渉を重ねたが、条件が折り合わず、「遊具を残したまま、高級料亭や温泉施設を誘致する」という構想は消えた
  • 10月から別の1社と交渉を始めた
  • 岡本製作所は「相手の経営状態を勘案して断念した」と説明
  • 九州観光ホームは「寝耳に水。断念する意思はない」
  • ただ、国土交通省の許可で運営しているケーブルカーについて許認可の申請については不透明。
  • 「一番の要因は長引く景気の低迷。大阪のジェットコースター事故や少子化などによる入園者の減少もある」
  • 「ケーブルカーの運行には国土交通大臣の許可が必要で、安定的な運行のため、譲渡先には財務力も求められる」
  • 別府市のある職員は「ケーブルカーの認可申請をしたという話を聞かなかったので、こうなるかもしれないと思っていた」
  • 別府市内の観光関係者の一人は「ゾウなど人気の動物がいなくなった。大幅にリニューアルしなければ、ラクテンチが周辺の施設に勝つのは難しいだろう」

 以上、

別府のラクテンチ月末閉園、経営譲渡交渉が白紙に戻る読売新聞2008年11月6日

どうなる“泉都の宝” 休園するラクテンチ大分合同新聞、2008年11月06日


 永年、ラクテンチの目玉であり続けた運輸省→国土交通省のお墨付きを得た「ケーブルカー」。これが本格的な物であったがゆえに、他者へ譲渡する際、その許認可の引き継ぎや手続きが面倒になってしまう。維持費なんかも相当かかるのだろう。運輸局もケーブルのリニューアルを求めていたのかもしれない。

 引き継ぎに名乗り上げていた九州観光ホームは、検索エンジンで調べている限り、大分でかなりの規模を持った不動産屋……という訳でもないようだ。九州内で湯布院などの美術館をくいつか、そしてなぜか長野県で「マルク・シャガール安曇野穂高美術館」をやっている。

 同社は高級料亭や温泉施設を誘致するとしていたようだが、それだけの体力があるのか。現・経営陣の岡本製作所はもともと遊具メーカー。大阪のエキスポランドの事故もあって遊園地を取り巻く視線が厳しくなっている中で、安直にケーブルカーや遊具を次の経営者へと委ねるのには躊躇していたのだろう。実際、8月末以降も、九州観光ホーム側が一方的に引き受け手として名乗り上げただけで、岡本側はそこらについて言葉を濁し続けた。

 この後、ケーブルカーがどうなるのか。よく分からない。ただ、「遊園地+ケーブルカー」という80年近い間続けてきた仕組みを維持するのはかなり難しそう。少なくとも、ケーブルカーはスロープカー(嘉穂モノレール社http://www.kaho-monorail.com/)など鉄道モドキの施設にリニューアルされてしまうんじゃないだろうか。

 ホームページには「ワンダーラクテンチは12月1日(月)より休園します」との掲示が出てしまっている。年内最終の11月30日には「ワンダーラクテンチ・フォーエバー!!」と題してプロレスの興業も予定されている。

 この冬、どこかいい引取先が見つかればいいのだけど。う〜ん

f:id:katamachi:20081121155140j:image


<関連>

「別府ワンダーラクテンチ」http://www.wonder-rakutenchi.jp/

 ※休園と明示。

ラクテンチ(@別府)ケーブルカーが8月末で廃止か? - とれいん工房の汽車旅12ヵ月

<オススメサイト>

日本鉄道切符公園/別府ラクテンチケーブル

 別府ワンダーラクテンチは29(昭和4)年に別府遊園として開業。戦後はケーブルカーで登って入園する珍しさもあり、ピークの60年代には年80万人が訪れた。03年からは大阪市の遊戯機メーカー「岡本製作所」が経営を引き継ぎ、現在の名称に改称した。

 休園の最大の要因は入場者数の低迷だ。施設の老朽化や各地にテーマパークができた影響で、04年度に15万人いた入場者は07年度には7万人と半減した。

http://www.asahi.com/national/update/1130/SEB200811300001.html

作者:katamachi

更新日:2008年11月21日 15時35分

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[鉄道系 時事ネタ]中之島線の乗降客数約3万人という数字のマジック。

 京阪電気鉄道は17日、10月19日に開業した中之島線の1日平均乗降客数(同月末までの平日分)が約3万人だったと発表した。開業前に見込んでいた8万人を大幅に下回る結果に、上田成之助社長は「半年程度で認知度を上げ、他社線から移ってくる定期券利用者を増やすとともに、サーカスなどのイベントで乗客増に努める」と話した。

京阪中之島線、乗降客1日平均3万人 目標8万に届かず朝日新聞2008年11月17日

 想定していた利用者が8万人/日。実際には3万人/日。目標の4割にも届かず。うう、悲惨。

 「大阪市統計書」(2006年度)によると、淀屋橋駅+北浜駅の乗車人員は87,509/日。

 これから計算すると、

  • 京阪本線 淀屋橋駅+北浜駅の乗降客数は17.5万人/日(2006年度 上の数字の倍)
  • 中之島線 中之島駅+渡辺橋駅+大江橋駅+なにわ橋駅の乗降客数は約3万人(2008年10月の平日平均)

と、中之島線の新駅4駅を足しても、既存の京阪本線2駅の乗降客数の2割に満たない。

 で、その3万人のうち約1万人は京阪本線(すなわち淀屋橋・北浜駅の乗降客)から移ったという。新駅による乗客の純増は約2万人。ううう、これはキツい。

 あと、気をつけないといけないのは、この朝日新聞が伝える数字は「1日平均乗降客数(同月末までの平日分)」なんですね。ビジネス街を走る路線なんで、休日の利用はかなり落ち込む。月平均でならすと3万人を大幅に割るんでしょうね。

 「スーパーの開店とは違い、客が増えるのは周辺の開発が進んでから。長い目で見守ってほしい」という話だけど、じゃあ、その「8万人/日」という数字をいつ達成できるのか。それを明言できないんですよね。言い訳としては弱すぎる。


まあ鉄道も空港も高速道路もどこも需要予測を大幅に下回っているんですが

 ただ、これ中之島線だけじゃない。

 90年代以降に開業した東京・名古屋・大阪圏の鉄道新線って、大方、当初予想を大幅に下回る利用者しか集めることができていない。旧運輸省から路線の免許を受けたときは、かなり多めの数字を見積もっているのだけど、実際、開業してみると、たいていはその半分程度に過ぎない。

 以前、今里筋線の利用者数をきちんと発表しない大阪市交通局 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月でも紹介したが、京阪中之島線のすぐお隣を走るJR東西線だと、

  • 着工前の1989年 50万人と予測
  • 開業前年の1996年 20万人と下方修正
  • 1997年の開業日(3/8) 10.1万人
  • 同年3月の平日 10.7万人
  • 同年4月の平日 12.1万人
  • 同年5月の平日 12.4万人
  • 同期の休日  7.0万人
  • 開業1年間 10.5万人(平日13.4万人、休日7.0万人)

とやはり予想の約半分程度(いずれも1日平均)。

 それから11年経っていますが、いまだに20万人/日という数字には達していない。

 同じく大阪市内の大阪市交通局の今里筋線。

  • 着工前の1999年 1日16万人と予測
  • 開業直前 12万人と下方修正
  • 2007年1月30日(開業1ヶ月後) 3.7万人

 こちらは中之島線以上に悲惨な数字。

 東京でも似たような感じかな。副都心線の利用が少なかったというのも、なにも開業初期にトラブルが多かったからという訳ではない。スペイン国王がお召し列車より素晴らしいと激賞したという、つくばエクスプレスにしても、利用者が多くて成功したという報道が多かったけど、建設を始める前である80年代に予想されていた数字と比べれば、かなり数字は小さい。

 別にこれは鉄道にのみ限らない。空港や高速道路、港を建設するときもいつも同じ。

 建設を始める前には膨大な需要予測の数字を叩き出し、その建設の必要性を訴え、で、実際に開業して、事前に発表された数字と食い違っても、誰も知らんぷり。

 中之島線だと誰に責任があるのだろう。

 第三セクターに出資した大阪市や大阪府? 必要もないのに建設を煽った京阪電気鉄道? 景気対策を理由にして90年代末にゴーサインを出した旧運輸省=国土交通省? ここ数年、京阪と一緒になって中之島プロジェクトを推進してきた朝日新聞?

 なんか、ここらの責任問題はいつもうやむやにされてしまう。

 意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。そして完成したときには、決定した人間は全てその現場から遠い場所へと部署を移している。かつて、インフラストラクチャーの必要性を訴えたヤツでロクな奴はいなかったし、その口車に乗って建設しても閑散としている交通施設のリストで国土交通省の地下倉庫は一杯だ。

 と、某映画の一節を引用して改編。

 いやあ、ホント、これネタじゃなくて、8年前のちょうど今頃、運輸省の地下倉庫に日参して鉄道免許の許認可関係の文書をいろいろ調べ上げたんだけど、役人と鉄道会社の妄想でいっぱいとなった文書が山ほど積み上げられていたんだよなあ。なんで、昔の人は、こんな計画を立てたんだろうというヤツばかり。今はその一部が国立公文書館で公開されています。ヒマな人は、こちらの「公文書で探究「鉄道」 - 歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』 BUNZO」というサイトから。

 とりあえず、何十年間も、「責任者出て来い!」とボヤき続けてこられた人生幸朗師匠のような人が必要なんだろうなあ、とただただ思う次第。

 あとは関西で大物の新線は、阪神なんば線だけか。あれはどうなるんだろう。社運をかけた阪神は大丈夫か(まあ三セクだしなんとかなるんだろうけど)……と思ったりもするのだけど、それはまた別の話。


<参考>

京阪中之島線開業。そして消えゆくダイビルと朝日ビルディング - とれいん工房の汽車旅12ヵ月

作者:katamachi

更新日:2008年11月17日 22時34分

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[鉄道系 ヒマネタ]JR敦賀港線を”日本最古”と題する産経新聞とマスコミのナンバーワン好き

 どうでもイイ話だけど、鉄道マニア的には、なんだか非常に違和感を抱かされる鉄道記事を一つ。産経新聞の記事なんだけど、いろいろ変なんだ。

 JR貨物が敦賀市の敦賀港線(敦賀港駅〜敦賀駅間2・7キロ)について、早ければ来年3月中旬にも運行を停止するとの方針を同市などに説明していることが分かった。敦賀港線は明治15年に開業した日本で最も古い路線の一つで、同市の物流や観光へも影響を及ぼしそうだ。 

“日本最古”のJR貨物・敦賀港線、来年3月にも運行停止2008.11.13

「“日本最古”のJR貨物・敦賀港線、来年3月にも運行停止 」話題!‐話のタネニュース:イザ!

 これ、別に産経のスクープって訳でもない。地元の福井新聞は、前日の12日に「敦賀港線、運行停止へ 来年3月中旬から、JR貨物」との記事を配信している。運行停止の理由も

  • コスト削減や、一部をトラック輸送にすることでの時間短縮など顧客へのサービス向上

と書いてある。産経は「貨物列車での輸送は500キロ以上の距離でないと、利益が出にくいと聞いている」と書いているが、それが敦賀港駅と何の関係があるのか全く説明できていない。

 いや、それよりもヒドいのはタイトルだ。なんで「“日本最古”のJR貨物・敦賀港線」なの?

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 ※2004年10月17日の敦賀港駅「SL敦賀きらめき号」。側のキャラは「銀河鉄道999」の星野鉄郎とメーテルの着ぐるみ。


"日本最古"の鉄道は京浜間であって、敦賀港駅ではない

 鉄道マニアなら誰でも知っているように、日本で一番最初に鉄道が開業したのは明治初めの1872年。営業区間は品川駅〜横浜駅(桜木町)間だった。トリビア好きな人なら"その7年前にイギリス人が長崎で鉄道運転のデモンストレーションをしている"とおっしゃる方もいるが、まあそれはそれ。とりあえず、1番目は東京と横浜の間だよ。それは小学6年生の社会科教科書にも書いてある。

 ちなみに、産経系の扶桑社が出した「新しい歴史教科書―市販本」では、日本初となる京浜間の鉄道は本文で無視されていたと記憶している。鉄道国有法は載っているのに、なぜ。執筆者に鉄道好きがいなかったのか……(T_T)


 それゆえに、それより10年後の1882年に開業した敦賀港駅(当時は金ヶ崎駅)が"日本最古"となるのはおかしい。それ以前に大阪や北海道でも鉄道は開業している。"福井最古"や"北陸最古"なら分かるけど、"日本最古"というのは明らかにゲタを履かせすぎ。

 本文記事は「敦賀港線は明治15年に開業した日本で最も古い路線の一つ」としているんで、"日本最古"認定したのは記事を書いた記者でなく、整理部の人なんだろう。

 整理部とは、

 記者が書いた記事を価値判断し、紙面にレイアウトする。これが整理部の仕事です。どの面にどの記事を入れ、どれくらいの大きさで扱うかを決めたうえで、内容を的確に表現した見出しを考え、効果的に配置します。

神戸新聞仕事紹介 編集局整理部

出版社の編集部のようなことをしている内勤の記者のこと。

 で、記事の価値判断をするのは彼ら。送られてきた記事を載せるかどうかの判断も彼ら。タイトルを決めるのも彼ら。

 そんな整理部にOKしてもらうように、記事としてインパクトがあるように、話題を呼ぶように、新聞記事を扇情的に書いてしまう記者もいる。

 「●○○は日本初」や「ギネス認定を目指した●○○」、「日本最後の●○○」とかがあったら、地域ローカルニュースも大阪本社、あるいは全国ニュースに格上げされること間違いなし。だから、記者たちは何かの"一番"となることを探したがる。

 この記事も、記者が

  • 「日本で最も古い路線の一つ」

と頭に"最も古い"と付けて出稿し、それを見た整理部がちょいと物足りないと、

  • 「日本最古」

と最上級の表現にしたんでしょう。で、本来は福井ローカルのニュースが産経のネットで全国に配信された。

 でも、京浜間の鉄道開業から10年も後なのに、敦賀港線を「日本最古」と表現するのはあり得ない。


記事のタイトルを扇情的にしたがる記者さんたちの気持ち

 確かに、産経って、記事の見出しに扇情的なものを使いたがるのだけど、"○○で一番"という記事を書きたがるマスコミは彼らだけではない。

 たとえば、朝日もアサヒコムで「JR最後の昼間急行「つやま」で行く小旅行 - コミミ口コミ」という記事を載せている。「消えゆく昼のJR急行 「つやま」来春廃止に惜しむ声」を受けてのルポなんだろう。ここにはタイトルも本文も含めてなんら偽りも上げ底もない。「JR最後の昼間急行」というのも確か。急行の運用史・ダイヤに造詣が深い寺本光照に話を聞いているのはいい選択だと思う。だけど、「昼間の急行が最後になる」という背景と問題点について何も示さず、ただ「最後」とされている。なんで昼行急行が消えるのか説明しないと"JR最後"とタイトルにした意味はないだろう......と僕なんかも思ったりもする。

 以前、ある大手紙の大阪本社の記者が、うちに電話をしてきたことがある。質問内容は「宝塚尼崎電気鉄道」という尼崎〜宝塚間で計画されていた阪神系の未成線について。宝塚駅の近くに謎の地下道があり、それが地下鉄の駅跡だと聞いている。これって、もしかしたら関西最古の、あるいは日本最古の地下鉄じゃないのか。詳細を教えろ、何かコメントを出せ……ということなのだ。

 この線に関しては、二十数年前、朝日新聞が報じたことがある。今は亡き宝塚ファミリーパークの側に謎の地下道があり、それは尼宝電鉄が建設したものではないか?と記事にまとめていた。

 「謎の地下鉄」とは、確かに魅力的なエピソードだ。でも、僕が国立公文書館で調べた限り、そのような記載はどこにもなかった。

 宝塚市小浜地区から宝塚駅にかけてのエリアでは工事をした気配すらない。兵庫県道42号が鉄道敷地跡に敷設されたのは確かだけど、残念ながら、宝塚にある(らしい)地下道跡を鉄道駅と断定できる資料はどこにもない。鉄道建設の際、カネのかかる地下線や地下駅を事前に造っておくというのは常識的に考えにくい。そもそも鉄道省の文書では高架線で建設されることになっていた。"地下駅"を否定することはできないが、肯定できる資料は見つかっていない。ゆえに2001年に僕が本で尼宝電鉄を取り扱ったときは、ここらの話はスルーした。根拠薄弱なんで記事にはしない方がいいですよ。

 と、その記者さんに説明を申し上げたのだが、それでも「日本最初じゃないですか?」とか、「地下鉄が宝塚にあったというのは素晴らしいじゃないですか」とか、「地下駅であると証明できそうな資料はないですかね」とか聞いてくる。ちょっとうんざりして、「なら東京の国立公文書館で調べてみてくださいよ。誰でもできますよ」と申し上げたのだけど、わざわざ関西から東京へ行くのは面倒らしい。やれやれと思いつつ、電話を切った。その後、これがコラムになったのかどうか。結論は聞いていない。

 できるだけ多くの人に記事を読んでもらいたいという気持ちは分かる。タイトルとか本文とかをちょっとオーバー気味に書いてしまうと言うこともね。ブログなんか書いていたら少なからず、そういうことを考えてしまうこともある。でも、上げ底し過ぎるにも限度がある。旧石器捏造事件 - Wikipediaの背景に、マスコミが「最古の遺跡」であることを求めすぎたことなんかも忘れているのかな。

 まあ、この産経の記事で「日本最古の鉄道は敦賀港にあった」という珍説が流布するとは思わないけど……


敦賀港駅の話。

 一応、ここは鉄道系ブログなんで、敦賀港駅についてもちょっと触れておこう。

 敦賀港駅は1882年に開業した"北陸最古"の鉄道だ(当時は金ヶ崎駅)。その後、北陸本線のメインルートから外れた支線となるのだけど、一時期は、ウラジオストクなど国際航路が港に発着していて、それに接続するための連絡列車が東京・新橋から運転されていた。

 戦後は貨物線として使用されてきて、JR化時に路線はJR貨物に引き継がれた。ただ、貨物列車の運転は1日1往復だし、合理化のために敦賀での貨物取扱を中止し、福井からのトラック輸送に転換しようと言うことなんだろう。

 基本、貨物線なんで貨物好きのマニア以外にはあまり注目されてこなかったのだけど、ここ10年ほどは何度か旅客列車も運転されている。

 1999年の敦賀港開港100周年と「つるが・きらめき みなと博21」を記念して、駅近くに敦賀港駅舎が復元された。あわせて欧亜連絡列車をイメージした団体臨時列車が7月に「スーパーエクスプレスレインボー」を使った品川〜敦賀港間で、8月には「SLきらめき号」が敦賀〜敦賀港間で運転され、当時、それなりに話題を呼んでいる。以後も、イベント実施時にあわせて、蒸気機関車C56-160+12系客車、あるいはキハ58を使った臨時列車がたびたび運転されてきた。

 このページの写真は2004年10月17日の敦賀港駅「SL敦賀きらめき号」。「食フェアin敦賀」が開催されたのにあわせて、10月16日と17日の2日間、1日3往復が運転された。それ以降、調べている限り、運転された気配はないので、この17日の運転が最後の旅客列車になるのかな。(2005年と2006年の8月に花火臨が運転されていますね。「最後」と断言しなくて良かった......。id:Thscさん、ご指摘ありがとう)

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 地元の敦賀市なんかがこの路線の観光化なんかに積極的になっていたけど、JR貨物が廃止してしまうと、そこらの活用策が宙に浮いてしまう。

 先の産経の記事には、

 県や市では同線に線路と道路を走行できるDMV(デュアル・モード・ビークル)を運行し、観光資源としての活用も検討していた。

 同市では敦賀港の多目的国際ターミナルの本格供用を控えており、河瀬一治市長は「多様な輸送手段の確保や敦賀港線の歴史的重要性から、運行再開に向けて敦賀港の利用促進に努めたい」とのコメントを出した。

 またDMVかよ。あるいは北九州市で3年前に休止された貨物線が門司港レトロ観光線となったように、"特定目的鉄道"として観光用に転換されるのかも。敦賀市って、原発のお陰でおカネを持っていそうだしホントにやるかもしれんよ……とは思うのだけど、それはまた別の話。

作者:katamachi

更新日:2008年11月15日 9時48分

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[アニメ][雑記]オタク第2世代が生き延びてきた80年代後半の「アニメ冬の時代」

 俺は松谷さんのような第二世代の論客が台頭してきて、社会学的なアプローチからオタク問題について書き始めるのを待っていました。先にも言ったように第一世代は当事者性が強く、それがゆえのメリット・デメリットが諸刃の剣になってしまうところがあります。つまり自分の体験を特権化するあまり、客観性が保ちにくいということですね。

たけくまメモ : 第二世代から見た「オタク問題史」

 オタク第1世代である竹熊健太郎による言葉。

 これまでオタク論と言えば、竹熊や大塚英志、岡田斗司夫、宮台真司などオタク第1世代(1960年前後生まれ)によって紡がれることが多かった。ただ、彼らは70年代後半、"オタク状況"が成立した現場に立ち会ってきたこともあって、それゆえに発言の中に好むと好まざると自分の見てきた視点からのバイアスがかかってしまう。で、その下の世代によって歴史をまとめていくことが大事なんだ、という文章だと理解した。

 僕は1972年生まれなんでオタク第2世代(1970年前後生まれ)に分類される。

 この世代、ガンダムあたりからエヴァに至るまでオタク文化を支えてきた核となる層なのだけど、どうもあまり語られることが少なかった。

 ヤマト&ガンダムのムーブメントにはきっちり引っかかっているし、名作劇場・藤子アニメ・タツノコ系・魔法少女物、戦隊物など第二次アニメブームの諸作品を基礎教養として幼少期から体験してきた世代でもある。ファミコンの出現にも立ち会っているし、コミケの巨大化、二次創作の一般化、やおい系の拡充.....の担い手でもあった。

 また、テレビアニメというものが家庭で当たり前になって、小学生がアニメを見るのに誰も咎めない時代に育っている。中学生になると大方の子供はアニメから卒業しているんだけど、80年代には中高生向けのアニメ雑誌やマンガ青年誌というものも既に存在していた。コドモからオタクへとステップアップしていくことも容易になっていた。それゆえオタク第1世代のような自負は不要であった。

 もちろん、そこには、同級生たちや親たちの冷たい視線があったりする。当時、アニメというのはやっぱり小学生で卒業すべき"こども向け作品"であるという考えからは抜けきれなかった(たぶん今も)。周囲から「まだアニメなんか見ているのかよ」と、からかいや小バカにしたような言葉が発せされるたびに、過剰に反応してきた連中も少なくない。「アニメ好きだから(今だとオタクだから)差別されるんだ」と思いこんでしまう。そんな葛藤があったりもしたんだろうけど、それはまた別の機会に。

年代分類世代
1945〜1954プレおたく世代マンガ世代 団塊の世代
1955〜1964おたく第一世代テレビアニメ世代 新人類世代
1965〜1974おたく第二世代ゲーム世代
1975〜1984おたく第三世代ネット世代

※竹熊氏作成の表を引用。第2世代がゲーム世代と言われるのは違和感あったりするがまあそれはそれ。元の表にあわせて「おたく」としたが、本文では「オタク」と表記する


オタク文化断絶の危機にあった80年代末の「アニメ冬の時代」

 さて、オタク第2世代が、ただのコドモからオタクへとシフトしていったのは、ガンダムブームが席巻した80年代である。

 ただ、実際、上で書いたように、アニメ好きのコアな連中がみんな"オタク"(当時はそんな言葉は知られていないけど)になったのかというと、そういう訳でもない。実は、80年代半ばぐらいから、オタク趣味の中核とも言えるテレビアニメが「冬の時代」に突入し、アニメブームが急速に萎んでいく。それ以前からオタク的活動をしていた連中は、そんな端境期に直面している。

 境目は1984年か。この年、「風の谷のナウシカ」・「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」・「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」と劇場三作が大絶賛を得ているのだが、その一方で、春期のテレビアニメの放映本数は45本から35本に減っている。

 続く1985年、アニメのメディアミックスに積極的だった角川書店が「月刊ニュータイプ」を創刊。同じ月、80年代初頭のアニメブームの牽引役だった「機動戦士ガンダム」の次作「機動戦士Ζガンダム」の放映が開始。アニメ誌各誌とも大々的に特集し、あのブームよ再び……と期待していた。のだが、当時の中高生から絶大な人気を集められたわけではない。もちろん雑誌を買うようなコアな層はメカやキャラを追いかけてはいるのだが、先のブームを支えた一般層からの幅広い支持を得ることはできなかった。

 1986年以降、またもや期待を集めていた「機動戦士ΖΖガンダム」は、こども向けに路線変更したのが受け入れられず、迷走したまま終了。翌1987年の「機甲戦記ドラグナー」でこの路線も終焉を迎える。

 大きなおにいさんが愛した「うる星やつら」、びえろ魔法少女物の「パステルユーミ」も1986年に相次いで終了している。

 アニメ雑誌の休廃刊も続いた。1986年に「マイアニメ」、1987年に「アニメック」と「ジ・アニメ」。古参の「アニメージュ」も迷走し始めて、いつしかジブリアニメの宣伝媒体と化していた。

 その宮崎駿も「天空の城ラピュタ」(1986)の成績が伸び悩む。映画会社からは「もうダメなんじゃないの」と言われるようになり、次の「となりのトトロ」(1988)は「火垂るの墓」との併映。春休みが終わった後という中途半端な時期に公開され、その時点ではまだ大衆的な認知を受けたわけではない。押井守も「天使のたまご」(1986)の後、その作風が受け入れられずに、3年ほど業界から干される形になる。大友克洋の「アキラ」(1988)はオタク層とは別な人たちをターゲットにしていた。富野が満を持して出してきた「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」(1988)も、旧作テレビを再編集した三部作ほどの注目を集めるに至らなかった。

 こうして、この時期、アニメブームの牽引役だったオタク第1世代の残党、そしてまだ中学〜高校生だったオタク第2世代がこの世界から離れていく。そしてブームは下降線を辿っていく。そんな80年代後半は、「アニメ冬の時代」とも言える状況になっていった。実際、当時の「アニメージュ」誌を繰ってみると、人気作品がない中で何をプッシュしていけばいいのか分からなくなって迷走している状況がよく理解できる。


1990年頃から再び潮目が変わってくる

 もちろん、そんな時期でも、それなりに人気を集めた作品はある。たとえば、

  • 1987年
    • 赤い光弾ジリオン
    • ミスター味っ子
    • アニメ三銃士
  • 1988年
    • 魔神英雄伝ワタル
    • 超音戦士ボーグマン
    • 鎧伝サムライトルーパー
  • 1989年
    • らんま1/2
    • 機動警察パトレイバー
    • 天空戦記シュラト

などなど。

 ただ、これらの作品。当時、後にオタク第2世代と分類される中学〜大学生たちから絶大な支持を受けたわけではない。オタクたちの趣向の細分化が進み、爆発的なヒット作が生まれなくなった。小さいときに体験してきたヤマト・ガンダムのようなブームは期待できなくなった。

 あと、このリストからは意図的に無視したのだが、「アニメ冬の時代」、実際に普通の中高生に一番受け入れられていたのはジャンプ系のアニメであろう。「北斗の拳」や「シティーハンター」、「オレンジロード」などなど。後はサンデーの「タッチ」とか。ただ、一般層にも受け入れられた作品だと、マニアは盛り上がりにくい。アニメ誌としても、他社のマンガ原作のアニメをなかなかプッシュしづらい。特にジャンプ系のキャラを大々的に使うことはいろいろ難しかったと聞いている。

 やがて、テレビアニメのメインターゲットであるコドモたちの数が減少→テレビゲームの普及→視聴率の低下という状況が深刻になってくる。

 1989年になると、フジテレビや日本テレビが視聴率の取れなくなったゴールデンタイムのアニメ番組の本数を削りだし、夕方時間帯に新しいアニメ放送枠を設けた。予算も大幅に削ったのか、作画も何もかもがイマイチ。この年、一時的に放映本数は増えるが、80年代初頭に目が肥えてしまったオタクたちの目に止まる作品は少なかった。

 そんな中、1990年、NHKで「ふしぎの海のナディア」の放映が始まる。あのガイナックスがNHKで冒険活劇物を始める……という報を聞いて、オタク第2世代たちはどよめきだした。実際には、例の「南の島編」あたりで作画は崩壊し、物語も迷走し始めていたのだし、全体的に見ると"名作"とは言い難かった。でも、庵野秀明らスタッフは、最終回までどこか突き抜けてくれるような姿勢を見せ続けてくれた。長らく冬の時代を過ごしてきたオタクとしても、久しぶりに、みんなで楽しめる作品を見させてもらったという気分になれた。

 そして、1992年。「美少女戦士セーラームーン」の放映開始。この年の夏、コミケの会場ではこの作品の話題で持ちきりだった。「大きなおにいさん」たちは少女向けアニメの中に久しぶりの鉱脈を見つけたようで大絶賛していた。この時期からテレビ東京系のアニメを中心に、意欲的な作品が多数、出現する。

 そこらの勢いが、1995年の「新世紀エヴァンゲリオン」へと繋がっていく。「ガンダム」あたりで去っていた連中が、"オタク"としての自意識を持ちつつ、再びマーケットに帰ってきた。


自分語りを基本にしたオタク論に感じる限界

 さて、こうして1985〜1990年頃、いわゆる「アニメ冬の時代」のアニメ事情を語ってみた。僕自身、宮崎駿や押井守、名作劇場、藤子アニメ……とアニメ界の主流から外れた作品を好んでいたので、オタク第2世代のメインストリームにいたわけではない。ただ、アニメ誌を見て、隣で観察していた限り、以上のような認識を持つに至った。

 この間、

  • OVAという新しいジャンルが出現するものの、途中で尻すぼみに
  • 初めからオタク向けを意図した作品群が登場する
  • マニアの趣向からズレてきた宮崎駿が一般層にも認知されジブリブランドが確立
  • 大塚英志の「物語消費論」とメディアミックス戦略の深化
  • テレビアニメが視聴率を取れなくなった
  • やおい系を中心とする二次創作同人誌の市場化
  • ファミコンの普及で、オタクにとってアニメが絶対的な物でなくなった
  • 宮崎勤事件

と、「冬の時代」には、オタク文化の転換点となる様々な現象が起きているのだが、どうもそこらはスルーされてしまいがちだ。オタク論を積極的に語るオタク第1世代、第2世代で、この時期、現役で活動をしていた人は決して多くないからだろう。

 冒頭の記事で、竹熊は、

 第一世代は体験を特権的に持っているがゆえに、つい「自分たちこそ本当のオタクである」と考えがちです。だからこそ、新しい世代が台頭してきて自分たちの体験や感覚が「古い」ことを自覚せざるをえなくなったとき、「オタクはすでに死んでいる」などと口走ってしまうのです。

 別にあれはオタクが死んだのではなく、第一世代が歳をとって時代の変化について行けなくなっただけの話ではないでしょうか。

としている。これは先人として尊敬すべきスタンスだと思う。

 唐沢俊一や岡田、大塚、竹熊たち第1世代の自己体験をベースとしたオタク論は非常に魅力的なのは確かである。「なんでオレはここ(オタク界)にいるんだろう」と迷える子羊たちに一つの指針、そして友人同士で語り合えるネタを提供してくれた。

 だが、彼らの語る歴史観には、個人的な体験から全体像を語ろうとするがゆえに、自分たちの経験していない要素(たとえば「アニメ冬の時代」)については黙殺されている。竹熊は「第一世代が歳をとって時代の変化について行けなくなっただけの話」とするが、ついていけなくなったのは20年以上も前の話じゃないか。別にオタク趣味の最前線で活躍していなくても、"オタク"について語ることは可能だ。ただ、自分語りを基本にしている限り、「あんたら、本当は分かっていない」と現役から批判されるのは当然とも言える。

 オタク第1世代とオタク第3世代とのギャップを埋めるためにも、竹熊の指摘するように、複数の資料や証言元にあたりながら「オタク史」(その核である「アニメ史」)を構築していくという地道な作業が必要なんだろう。

 でも、特定の史観から脱しながら、全体像を語れる人ってなかなかいないんだよね。ことアニメ史に関しては、「冬の時代」に、「アニメージュ」、「ニュータイプ」で活躍してきた小黒祐一郎なんかが適任だと思うんだけどどうなんだろう。彼が「アニメスタイル」の「アニメ様の七転八倒」「第66回 TVマンガが「アニメ」になった時」と続く連載で語っていたアニメ史、そして宮崎駿論って、いろんな意味で興味深かったんだけどなあ。カネにはならないと思うけど、一度、チャレンジしてくれないかな。

 と、海外に渡航した2000年以降、すっかりオタク産業から縁遠くなって、「ハチクロ」と「のだめ」ぐらいしか見ていないと言ったら、第3世代の女の子から「もうオタクじゃないですよ」と烙印を押された自分が語る言葉ではないのかもしれないけど、それはまた別の話。

<参考>

id:kanose氏「ヤマトやガンダムによってアニメは大人のものになったのではなくて、小学生向けが限度だったのを中高生までをターゲットにできるようになった - ARTIFACT@ハテナ系

エヴァ前夜はアニメ史的空白だったか?

作者:katamachi

更新日:2008年11月10日 22時55分

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[鉄道旅行]さよならフィーバーを避けながら0系「こだま」に乗ってみる

 0系「こだま」の定期運転最後の日である11月30日が迫ってきた。

 60年代の日本の鉄道における"高度成長"を象徴する新幹線0系。当時の車両はもう残っていないとはいえ、1964年から20年間も造り続けられ、21世紀まで生き残ってきたプロトタイプが消え行こうとする。

 今の30歳代、40歳代、50歳代、それぞれが小さな時に眺めていた図鑑や絵本の表紙を飾っていたのは超特急0系。あまりにも当たり前すぎる電車であったため、正直、80年代頃は鉄道マニアにとって新幹線車両というのはあまり趣味対象とはなっていなかった。その象徴が役目を終えようとしている。気にならないわけはない。

 この夏、「ポニョ」の舞台を訪ねて広島県三原に行ったとき(宮崎駿が鞆の浦を「崖の上のポニョ」の舞台と言いたがらない理由。 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月)も新大阪駅から0系新幹線に乗車している。18きっぷシーズン前とは言え、指定席1両は体験乗車の団体客で残席ゼロ。残る自由席5両も乗車率にすると3割程度ではあったが、マニアさんはそれなりにいらつしゃった。

 秋になるとその数も増している。週末になると、朝日の「初代新幹線0系フィーバー ラストランへ異例の警備」、産経の「ファン殺到!「0系新幹線」引退控えJR西が“厳戒態勢”」の記事のような状態になっているとか。

 てなわけで、

  • 最終日とか、12月の「ひかり」としての運転とか、0系にとって非日常的な状態はあまり興味がないので避ける
  • マニア以上に、ライトなファンや通りすがりの観光客が集まりやすい土休日は避ける
  • 新大阪を朝に出る下り2本には特に人が集まりやすいので避ける。
  • 夜間帯の列車はあまり景色も見れないのでこれも避ける

というような観点から、選んだのは博多発岡山行の「こだま638号」。

 17日夜(18日未明)の寝台特急「富士」で大分へ行き、「カルトな鉄道マニアが愛した別府の遊園地ラクテンチケーブルカーを訪ねて。 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」で書いたラクテンチケーブルに乗った後、博多駅前の東横インで宿泊。19日朝、博多駅へ向かった。


博多駅発「こだま」は博多南駅からそのまま直通

 「こだま638号」の博多駅発は9:19。

 ただ、7時前に早起きできたんで、まずは博多南駅へ行っておきたい。

 ご存知の方も多いと思うが、博多南線は、未完である九州新幹線(博多〜新八代)の路盤を使って運用されている通勤路線で、0系も含めた新幹線車両が、博多駅と車両基地の側にある博多南駅との間を行き来している。九州内にあるけど、運営は山陽新幹線と同じJR西日本である*1

 われらが「こだま」の0系も、前運用として、博多南線の博多南駅7:14発、8:17発、および9:07発の上り3本の運用に入る。どうせなら、博多からではなく、博多南から乗り込みたい。

 博多駅8:12発の博多南行き列車は100系4連だった。3年後には九州新幹線も行き交う路盤を進みつつ、博多南駅8:17発の0系6連とすれ違う。これは博多駅到着後、折り返し回送となって博多南駅に戻ってくる。

 その次の上り0系は9:07発なので、それまで博多南駅の周辺をぶらつく。

 8:26発の100系4連、そして8:40発の700系(レールスター)8連がそれなりの通勤客を乗せて出て行くと、通勤のピークを終えた1面1線のホームには静寂が訪れる。車両基地内の新幹線の多くは出払っているようだが、遠くに500系の頭が見える。12月から0系に代わって運用に入る8両「こだま」用の編成なのか。

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 そして、われらが0系。

 新幹線の路盤から分岐するレールの向こうから、あの真ん丸の顔が見えてくる。新幹線の本線から外れているんでポイントのカーブもきついんだろう。キイキイ音を立ててくる。カメラを構えているのは私ともう一人だけ。後の通勤客にとっては見慣れたら風景なのだろう。0系が近づいてきても誰一人目を向けようとしない。

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 8:53に到着。その後、車内整備と進行方向エンドの交換を行い、5分後に扉が開く。

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 博多南線638Aは博多南駅を9:07に発車する。僕の乗り込んだ先頭の6号車、自由席には15人ほど。シートは2列×2列の大型サイズなんでゆつたりとまどろみながら、前夜の睡眠不足を補うことにする。

 博多駅には定刻9:17着。僕以外の乗客はみんな降りていく。代わりに同数ぐらいの乗車がある。

 ここから列車番号は638Aのまま「こだま638号」と名乗ることになる。着席した人たちはビジネス客が多いが、0系を目的に乗ってきた感じの人たちも3、4人ほど。でも、あまりマニアっぽい感じの人じゃない。でも、やっぱり九州のマスコミでも報道されているんだろう。携帯の写メで0系を撮る人たちがそれなりに群がってくる。見ていると、テレビ局のクルーが車内でロケを始める。片手に新幹線をモデルにした人形。九州ローカルの番組なんだろうか。見知らぬタレントが座席で窓辺に佇むシーンを収めると、そそくさと隣の五号車へと行った。

停車時間はわずか2分。外に撮影に行こうかと思うがそんな時間はなさそう。発車間際になってグループ客が7人ほどいっせいに乗ってくる。朝っぱらなのに、みんな赤ら顔。しかも大量に未開封のビールを持ち込んでいる。静かだった車内が一気に喧噪に覆われる。ふう。

 「こだま」は定刻9:19に発車。

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最後の0系車内見学。様変わりしたところと昔と変わらないところ

 次の小倉ではビジネス客とテレビクルーが降りていき、代わりに山陽方面へ向かう人たちが乗り込んでくる。マニアっぽいのも数人、そういや昨日の「富士」で見かけた人も3人ほどいる。

 関門トンネルを潜る間に車内見学。

 まずは3号車の公衆電話。

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 テレホンカードと電話機か……。むかし、ここから外部に電話をかけることだけでも「凄い」と思える時代があったんだよなあ。ほんの10年ほど前までそんな時代が続いた。外部から車内にかかってくると「○○様、3号車の電話まで……」と車内放送があったんだよなあ。それを宣伝目的で使う企業まで出現した。プッシュホンになって、トンネルでも使えるようになり、そしてテレカ対応になって、そして……。携帯電話が日常になった今ではそれも遠い昔の話。

 車販準備室。ここが空きスペースになってどれぐらい経つんだろうか。ステンレスとかはきれいに保たれているだけあって、なんだか遠い昔のような気もする。

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 3年前の正月に乗ったときは、まだビュフェ付きの0系も走っていたんだよなあ。20年前、1998年3月号の時刻表の編成案内のページ。日本食堂や帝国ホテル、都ホテルという食堂車の定番会社の中で、にいきなり「Mr」とか記号が出てきたときは驚いた。ビュフェでレンジでチンしたビーフカレーを出していた丸玉給食。意外に旨かったんだけど、あの会社はいずこへ……*2

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 そして最後尾である1号車の乗務員室。あの向こうで座ってみたいと何度、夢見たことか。

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 いや、実は、一度、営業運転中の新幹線の乗務員室にお邪魔したことがあるんです。それも20年前、高校の修学旅行で新大阪から小倉へ向かう貸切列車でした。鉄研メンバーでデッキのあたりをウロウロしていたら、車掌さんが後ろ側の運転台に招き入れてくれた。団体なんで仕事がなくてヒマしていたんでしょう。鉄道マニア的にはサイコーの角度から広島駅にちょうど駅構内に入ってきたオリエント急行と遭遇*3。小一時間ほど数人でお話しさせてもらった上で、「あさかぜ」の個室寝台の使用済みカードキーをちょうだいした。その時の新幹線はもちろん0系。


博多〜岡山間で計8本の「ひかり」・「のぞみ」に追い抜かれていく

 新下関駅は9:49着。

 ここでは5分停車。その間に後続の「のぞみ16号」に抜かれていく。先頭車へ行くと、同業者が5人ほど。平日の上りゆえにマニアは少ない。これはラッキー

 で、N700系が時速300km/h(?)で通過。うーんブレてしまった。まあ、いいか。

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 続く厚狭駅には10:06着。ここも5分停車。待避線と通過線の間にはコンクリートの柵がある。新幹線ホームが設置されたのは2001年と開業から四半世紀してから。以前の面影がそのまま残っている。

 少し待っていると「ひかり454号」が通過。レールスター仕様の700系。こっち方が見栄えはするなあ。

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 新山口駅は30秒停車。徳山駅は10:39着。5分停車で「のぞみ18号」N700系の通過待ち。空が青くなってきたからか今度はシャツタースピードも露出もイイ感じだけど、押すのが早すぎた。

 次は新岩国駅11:02着。「ひかり476号」と「のぞみ176号」の通過待ちなんで、ここでは10分間の停車になる(ただしこの日は「のぞみ」の運転なし)。時刻表を見ていたら時間があるのは分かっていたんで、下りホームへ。僕の動きを見てか、数人のマニアも後を追う。

 発車後、車内販売が6号車へやってくる。

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 今回のさよなら0系キャンペーンにあわせて、主要駅で0系をデザインした駅弁というのが販売されているらしい。車販にも持ち込んでいるというので期待していたのだけど、置いてあったのは幕の内弁当が一つのみ。う〜ん、ちょっとなあ。でも、朝が早かったので腹は空いている。とりあえず0系の車販でモノを買うのもこれが最後だし……とベタな理由で買ってみた。期待していなかった分、中身がバラエティーに富んでいて意外に良かった。新山口駅持ち込みの「幕の内(きらら)」は950円だけどオススメ。

 広島駅は短時間で発着し、次の東広島駅は11:42着。ここの5分待ちでN700系「のぞみ20号」。「もう博多『のぞみ』はN700系だなあ」と感心していたら、シヤッターチャンスを逃す。もう通過シーンを撮るのも厭きてきた。

 新幹線と言えば16両が常識だった時代に成長したマニアの1人として、22年前の国鉄最後のダイヤ改正で6両編成の0系を見たとき、なんとも言えぬ寂しさを感じたモノだけど、今となっては、時代の先端に行っていた当時とはまた別な愛嬌というのも湧いてきた。これはこれでいいんだろう。たぶん

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三原駅の8分停車の間に0系見物にやってきた幼稚園児たち

 三原駅は11:59着。ここも8分待ちで「のぞみ」と「ひかり」に追い抜かれる。光の加減からすると、下りホームから撮れば順光になるかな......というので再び反対の下りホームへ移動する。

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 すると、階段の上では小さな子供たちの団体さんが30人ほど待ち受けていた。近所の保育所か幼稚園からやってきたんだろう。

 ちょうどホームに下りの100系「こだま」がやってきたのだが、先生に従い、ホームの黄色い線の内側にきちんと整列しながら、みんなで新幹線を見物している。

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 園長先生っぽい男性の

「今日は500系以外の新幹線はみんな見れたね*4。どの新幹線が一番好きかな?」

との問いかけに、

「あの丸いの!」

「おだんごさん!」

「ボロ!」

とチビちゃんたちは応えている。もちろん、今日のヒーローは、上りホームに停車している0系なんだろう。

 時代は流れども、新幹線のエースであり続けた。いろんな海外で鉄道マンたちと話す機会に恵まれてきたが、プロである彼らが知っている、そして尊敬してくれる日本の鉄道というのは、もちろん新幹線。それは300系でも700系でもましてやMAXでみなく、われらが0系である。

 そして僕自身。鉄道マニアとして永年やってきたその中で、一番古い記憶というのが、新幹線博多開業翌年の1976年の夏。京都から博多まで乗車した「ひかり」で、当然、0系。それから32年の歳月が流れたのか。

 今日、三原駅で出会った園児たち。10年後、20年後、そして30年後まで、丸っこい顔をした新幹線がご近所を走っていたと言うことを。そして0系という名前と姿を覚えてくれてるといいな。


淡々と岡山駅に到着した0系「こだま638号」

 新尾道駅、福山駅と停車し、新倉敷駅ではまた5分停車。700系「のぞみ」に抜かれていく。偶然、乗り合わしたらしいちょっと美形の女の子も携帯のカメラで0系をぱちり。

 そして次は終点の岡山駅。

 あの懐かしいメロディーが流れて、車内放送で岡山駅での乗り換え案内。ここは「のぞみ」だけでなく、四国方面や山陰への特急、山陽線、津山線、赤穂線、吉備線、伯備線......と乗り換え列車の説明が長いんだよなあ。

 定刻12:53に到着。

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 博多や広島から乗ってきた人たち、そして次の「のぞみ」を待つ人たちも含めてみんなで0系を取り囲む。博多南駅から4時間ほど、運用廃止前にもかかわらず、穏やかな雰囲気で、マニアだけでなく普通の人やチビちゃんたちに取り囲まれながら、0系を見送ることができた。いいタイミングでお名残乗車ができたような気がする。

 扉を閉めて10分ほどホームに留まった後、13:05に再び動き出した。折り返し線にいったん留置され、次は岡山14:51発「こだま659号」として博多駅へ向かうことになる。11日後の11月30日、この博多行き列車が0系最後の定期運用となる。

 もうたぶん0系が走っているシーンを見ることはないと思う。最後の姿が気にならないと言ったらウソになるけど、最終日とかイベント用さよなら列車を見送るのは止めておこうと思う。非日常的な喧噪の中で0系を見てもつまらないと思うから。そこらは自身のポリシーとも繋がる話なんだけど、それはまた別の話。


<参考>

2006-11-21海外では、0系新幹線が今でも人気です。 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月

2007-12-19おお、ついに0系廃止の日が報道されてしまった…… - とれいん工房の汽車旅12ヵ月

<オススメ>

編集長敬白: 0系、ラストウィーク。

*1:ただ、開業前の取り決めにより旅行センターはJR九州の「ジョイロード」。JR九州の社員も駅に従事

*2:貼付の写真は05年1月。丸玉食品の現在はこちら→http://www.marutama-net.co.jp/company/enkaku.html。1987年に新大阪駅構内で営業を始めたご縁で新幹線のビュフェを担当したのかな。「ウエストひかり」として0系食堂車が機能したのは1988〜2000年

*3:フジテレビのイベントでヨーロッパから日本に来てたんですよ

*4:これもなかなか濃い質問だが、僕も500系「のぞみ」を見たかった

作者:katamachi

更新日:2008年11月26日 11時16分

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[鉄道旅行][廃線]カルトな鉄道マニアが愛した別府の遊園地ラクテンチケーブルカーを訪ねて。

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 別府市の老舗遊園地「別府ワンダーラクテンチ」が十一月末でいったん休園となることが五日、分かった。

ラクテンチ今月末で休園へ大分合同新聞、2008年11月05日

 山陽新幹線0系が08年11月、そして東京発九州行きブルトレが09年3月に廃止......と報じられている中、この秋、チャンスがあれば九州へ行ってみたいと思っていた。

 そんな中に飛び込んできたのが上のニュース。大分は別府温泉にある「別府ワンダーラクテンチ」http://www.wonder-rakutenchi.jp/という遊園地も今月末で休止になるという。

 このラクテンチ。戦前から続く由緒ある遊園地である。地方の小都市にしては珍しい。絶叫マシーンが導入されることもなく、昭和期っぽいレトロさと、遊園地が子供向けだった頃の色遣いと、「探偵ナイトスクープ」の"パラダイス"的なニュアンス。それらが色濃く残っている所である。

 そんな前時代的な遊園地は大都市部からほぼ一掃されているので、興味深いと言えば興味深い。ただ、それだけなら鉄道マニアが飛びつくはずもない。

 ここが屹立しているのは、温泉旅館が密集している平野部と、山の中腹にある遊園地とを結ぶ坂道に、園直営のケーブルカーが運転されている点。しかも、これ。戦前の1929年、鉄道省から地方鉄道法の免許を受けて開業した本物の鉄道会社の施設だった。延長キロは300mにも満たないミニ鉄道ではあるのだけど。

ラクテンチケーブルは、鉄道マニアが「日本の全鉄道完乗タイトル」を目指すための最大の関門だった

 今でも岡本製作所