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トップ > 1430 > 1430 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月2日 4時)
校訂されたためであるからだと
紫式部の書いた『源氏物語』の原本は現存していない。また『紫式部日記』の記述によれば紫式部の書いた原本をもとに当時の能書家によって清書された本があるはずであるが、これらもまた現存するものは無い。『紫式部日記』の記述によると、そもそも作者の自筆の原本の段階で草稿本、清書本など複数の系統の本が存在し、作者の手元にあった草稿本が道長の手によって勝手に持ち出されるといった意図しないケースを含めてそれぞれが外部に流出するなど、『源氏物語』の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路をたどっていたことが分かる。確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も非常に数が限られている。このため現在ある諸写本を調べていけば何らかの一つの本文にたどり着くのかどうかさえ議論に決着がつかない状態である。そのため現在では紫式部が書いた原本の復元はほぼ不可能であると考えられている。なお、平安時代末期に成立したと見られる『源氏物語絵巻』には、絵に添えられた詞書として『源氏物語』の本文と見られるものが記されており、その中には現在知られている『源氏物語』の本文と大筋で同じながら現在発見されているどの写本にも見られない本文が含まれている。この本文は、現在確認されている限りで最も古い時代に記された『源氏物語』の本文ということになるが、「絵巻の詞書」というその性質上もともとの本文の要約である可能性などもあるため本来の『源氏物語』本文をどの程度忠実に写し取っているのか解らないとして本文研究の資料としては使用できないとされている。 『源氏物語』は完成直後から広く普及し多くの写本が作られたと見られる。しかしながら鎌倉時代以降の『源氏物語』が古典として重要な教養の源泉であるとされた以後の時代に作成された写本は、証本となしうる信頼できる写本を元に注意深く写しとって、きちんと校合などもした上で完成させることが一般的であったが、それ以前、平安時代には『源氏物語』等の物語は広く普及し多くの写本が作られており、その中には従一位麗子本等の身分の高い人物が自ら作ったと見られる写本もあったのであるが、物語という作品の位置付けが「絵空事」「女子供の手慰み」といったものであり、勅撰集等公的な位置付けを持った歌集はもちろん、そうでない私的な歌集等と比べても極めて低いものであった。そのため当時は筆写の際にかなり自由に文の追加・改訂が行われるのがむしろ一般的であったと見られる。この際、作者の紫式部が受領階級の娘であり妻であったという、当時の身分・階級制度の中では高いとは言えない地位にあったことも、本文を忠実に写し取り伝えていこうとする動機を欠く要因になったとする意見も学者の中には多い。また『更級日記』の中の、作者(菅原孝標女)が『源氏物語』の一部分だけを読む機会があって最初からすべてを読みたいと願ったという記述に見られるように、『源氏物語』のような大部の書物は常に全体がセットになって流通しているというわけではなかったと見られる。写本による流通が主であった時代には大部の書物は全体の中から自分が残したい、あるいは人に読ませたいと考えた部分だけを書き写すといった形で流通することも少なくなかったと考えられる。このようないくつかの現象の結果として、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのころには多くの『源氏物語』の写本が存在しているものの、家々が持つ写本ごとにその内容が違っており、どれが元の形であったのか分からないという状況になっていた。『源氏物語』が単なる「女子供の手慰み」という位置づけから『古今和歌集』等と並んで重要な教養(歌作り)の源泉として古典・聖典化していった平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、『源氏物語』の本文について2つの大きな動きが起こった。1つは藤原定家によるもので、その成果が「青表紙本」系本文であり、もう1つが河内学派によるものでその成果が「河内本」系の本文である。これ以後20世紀末ころから「別本」系本文の再評価が始まるまでの長い間、『源氏物語』の本文についてはこの2つの本文をめぐって動くことになる。この両者の作業はいずれも乱れた状況にあった『源氏物語』の本文を正そうとするものであったが、その結果は若干異なったものとなった。現在ある「青表紙本」と「河内本」の本文を比べると、「青表紙本」の方を見ると意味が通らない多くの箇所で「河内本」を見ると意味が通るような本文になっていることが多い。これは「河内本」が意味の通りにくい本文に積極的に手を加えて意味が通るようにする方針で校訂されたのに対して、「青表紙本」では意味の通らない本文も可能な限りそのまま残すという方針で校訂されたためであるからだと考えられている。このことは藤原定家と源光行らが共にほぼ同じ資料を前にして、当時の本文の状況を「さまざまに異なった本文が存在し、その中のどれが正しいのかわからない。」と認識していたにもかかわらず、定家は「その疑問を解決することはできなかった。」という意味のことを述べ、源光行は「さまざまな調査の結果疑問をすっきりと解決することができた。」という意味のことを述べるという正反対の結論に達していることともよく対応していると考えられて来た。但し藤原定家の作り上げた「青表紙本」系統の本文が本当に元の本文に手を加えていないかどうかについては、近年になって藤原定家の『土佐日記』等の他の古典の写本作成に対する態度を詳細に調査することによってある場合には積極的に本文に手を加えることもあるということが明らかになってきたために、再検討の必要が唱えられている。
月刊またやん
W.I.P.S.BLOG
ひびのつぶやき
ドラマに嵌ってる
作者:diko00
更新日:2008年11月17日 4時48分
矢沢永吉
時代を画する価値観の創造者・・・矢沢永吉・・・ 生身の人間が35億の借金背負ったら、自己破産して人生終わるだろう。 信頼していた側近の裏切り。騙した連中は有罪になったが、カネは返って来ない。 それでも永ちゃんは負けない。 ...
E,YAZAWA 「成りあがり」
カリスマ的ロックシンガー(私の父ゎ憧れw)矢沢永吉さんの長女yokoさん(22歳)が3人組みのユニット(yokoさん+男性2人) 『the generous(ジェネラス)』 を結成して 今秋デビューしる予定なんだって♪ 从*^ω^*从 まずね 10月29日にデビュー作となるミニアルバムがエイベックス(avex)から発売 ...
矢沢永吉さんの長女yokoさんが歌手デビュー♪
最後の矢沢永吉さんとの対談は感動して泣きそうだった。一見の価値ありです! ああ、明日から復帰。どきどき。実は今月をもって退社することとなりました。 今後はまた、改めて軌道修正。ほんとね、東京離れようかとも考えた。初めて考えた。 ...
復活ののろしとする、するのだ。
矢沢永吉(永ちゃん)にこないなかわいらしーちうか、キレイな娘がいたとはなぁ! 今ならニュースサイトに載っとるので、写真の画像が見れまっけど、キレイな人やで。矢沢永吉の娘とは思えまへん(あ、失礼!) スレンダーやし。22歳だそうや。 ...
矢沢永吉の娘がデビューかいな。キレイな娘やで。
作者:diko00
更新日:2008年10月18日 9時51分
追放命
サプリメントは、食品、医薬品とは異なるカテゴリーにある。FDAの定義において、サプリメントは医薬品などの大規模な治験により効果が出ることが実証されたものとは異なっているため、病気を治療するという主張はできない。しかし、DSHEAでは、科学的根拠がなくてもなんらかの証拠があれば効能を表示できることになっており、医薬品ほどに厳しい品質基準を維持する義務もないため製品の品質のばらつきも許容されている。このため効果を連想できるような表現が用いられる。DSHEAでチラシやパンフレットをラベルとみなすことを禁じ、FDAは製品の文面を製品ラベルとみなすように規定されている。パンフレットや書籍、その他の広告は、連邦取引委員会 (FTC)が監視しているため、広告に関しては製品ラベルより規制がゆるい。また、DSHEAでは製品を発売する前に、医薬品の治験のようにその成分の安全性を確認する必要はない。FDAは自ら定めた基準に基づき、安全性に問題があると見られる製品について市場追放命令を出すことができる。FDAは商品製造工場や販売メーカーへの抜き打ち検査や、消費者からのクレームの処理を行っている。詳細に渡り管理を行うと共に、基準に達していない場合・許可時と異なった配合などを行った場合には、製品の販売停止・業務停止を執行出来る権限を持つ。故にアメリカの栄養補助食品は日本国内で生産される製品に比べると、公的機関に「見張られている・さらされている」確率ははるかに高い。これに対し、日本国内で製造される栄養補助食品は事故が発生しない限り製造中止に追い込まれる確率は少ない。FDAはこれら指導を行った内容に関して、インターネット上などで詳細な報告を行っており、消費者もそれらを容易に確認することができ、それら資料を購入前の判断のひとつとして利用することが可能である。
りーまん日記
猫好きパパ
作者:diko00
更新日:2008年10月7日 19時57分
遺伝子破壊体の頻度は1.9%であった
現在、ジーンターゲッティング法を用いて遺伝子置換を植物に応用する試みが進んでいる。植物は相同組換え活性が低く、内在性の遺伝子と相同性が高いDNA断片を導入しても内在性の遺伝子と殆ど相同組換えを起こさず、非相同組換えによって標的以外に組み込まれるものが大部分である。そこで様々な工夫が必要となる。ひとつの例が、pyrimidinyl carboxy系除草剤であるbispyribacへの耐性を示すイネの開発である。この除草剤は、分岐鎖アミノ酸(blanched chain amino acids, BCAA)生合成系の酵素の一種であるacetolactate synthase (ALS)の阻害剤である。イネのある変異体は、ALSの2カ所のアミノ酸残基の変異によってbispyribacに対して高度に耐性を示す。そこで、非相同組換えによる耐性形質転換体を除去するためにpromoterとN(アミノ)末端側の配列を欠失したイネ由来の変異型ALSをイネに導入して耐性になった相同組換えによる遺伝子置換体を単離した。そのhomo接合体は著しくbispyribacに対して耐性となっていた(The Plant Journal (2007) 52, 157-166)。この過程で変異型ALSのpromoterとN末端側の配列を欠失したものを用いているのは重要である。promoterとN末端側の配列を含む完全な変異型ALSを用いればゲノムの本来のALS以外のところに非相同組換えによって挿入されてもbispyribac耐性になってしまう。また、promoterのみを除去し開始コドンから完全な変異型ALSのタンパク質コード領域(翻訳領域、ORF)を含んでいるものを用いれば、ほとんどの非相同組換えによるbispyribac耐性株を除去できるはずであるが、T-DNA taggingに用いられているようにAgrobacterium(アグロバクテリウム)法ではT-DNAはかなりの高頻度で転写活性の高い領域に挿入されるため、何らかの遺伝子のpromoter下流に挿入され、その転写方向と挿入断片のセンス鎖方向が一致すればbispyribac耐性株が生じる可能性がある。そこで、promoterとN末端側の配列を欠失したものを用いれば非相同組換えによるbispyribac耐性形質転換体によるバックグラウンドをほぼ排除できるわけである。この遺伝子置換体は基本的に標的となったALSの配列のみが野生型と一部異なるだけであり、他の選択マーカー遺伝子が存在しないため、突然変異により育種されたものと区別がつかない。このことは遺伝子組換え食品の実質的同等性を確保する上で大きな意味を持つ。変異型ALSのようなそれ自体が選択マーカーとなる遺伝子だけでなく、任意の遺伝子を遺伝子置換により遺伝子破壊する方法が開発された。この方法は、diphtheria toxinが真核生物の細胞質の蛋白質合成を阻害するため、diphtheria toxinを生産する真核細胞が死滅することを利用している。Agrobacterium法による形質転換においてT-DNAのright borderとleft borderの内側近傍にdiphtheria toxin-A(ジフテリア毒A)遺伝子を1個ずつ逆方向反復配列(inverted repeats)として配置し、更にその内側に遺伝子破壊したい配列と相同な配列と選択マーカー遺伝子を挿入することによって、相同組換えを起こしたもののみ生存できるようにしたものである。相同組換えによって2個のdiphtheria toxin-A遺伝子が除去され選択マーカー遺伝子が導入された細胞は生存可能であるが、非相同組換えによって標的遺伝子以外のところにright borderとleft borderとともにdiphtheria toxin-A遺伝子が導入された細胞は死滅すると考えられる。ただし、この方法によってもイネにおいて選択された形質転換体のうち目的とする遺伝子破壊体の頻度は1.9%であった(Plant Physiology, June 2007, Vol. 144, pp. 846-856)。今後の更なる効率上昇に関する研究は必要であろう。GM作物は、1996年にアメリカで大豆の栽培が始められて以降着々と普及してきた。2007年現在、全世界の大豆作付け面積の64%、トウモロコシで24%、ワタは43%、カノーラで20%がGM作物である(ISAAA調査[1])。特に、食生活の変化による肉類消費の増加を背景とした、飼料用穀物の需要増加は、害虫、除草剤への耐性が高く、生産性も高いGM作物の需要増加に繋がっている[1]。アメリカを初め、中国やインド、ブラジル、カナダなど各国へ普及しており、2006年時点で22カ国で約1億200万 ha栽培され[2]、更に2007年には23カ国で約1億1430万 ha栽培された(ISAAA調査)。ちなみに現在の日本の全耕地面積は約470万 haである。2007年の遺伝子組換え作物生産国は(北米)アメリカ、カナダ、(中南米)メキシコ、ホンジュラス、コロンビア、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル、(アジア、オセアニア)中国、インド、フィリピン、オーストラリア、(アフリカ)南アフリカ、(ヨーロッパ)ポルトガル、スペイン、フランス、ドイツ、チェコ、ポーランド、スロバキア、ルーマニアである。
KiraKiraBlog
忘れてください
毎日ハッピーですか?
作者:diko00
更新日:2008年9月22日 14時46分
クローバーフィールド HAKAISHA
昨年公開された、トランスフォーマーの予告上映部分で流れていた、なぞの異性人との戦いの映画映像は破壊されるニューヨークの様子が流れ、最後には プロデューサー JJエイブラムズの名前だけこの謎に満ちた映画がついに日本でも公開される ...
映画感想つれづれ日記 - クローバーフィールド/HAKAISHA /CLOVERFIELD
ここ1週間くらぃね 私のブログを訪問してくれる人の検索キーワードで上位を占めてるのがさ 『クローバーフィールド(Cloverfield)』 関連なの 从=゜ω゜=;从 なぢぇ? 。。と思ったらさ そーいゃ本日4月5日から 『クローバーフィールド HAKAISHA』 公開 ...
Heart Attack - 『クローバーフィールド HAKAISHA』 本日公開ね
かなり前から予告編が気になったこの映画『クーバーフィールドHAKAISHA』 を観て来た。 大好きなJ.J.エイブラムスプロデュース作品だ。 『M:I:Ⅲ』や『LOST』を手掛ける監督で今回はプロデューサーだ。 『M:I:Ⅲ』の時に対談させ ...
おちまさとプロデュース Tokyo... - 『クローバーフィールドHAKAISHA』を観て来た。
あっという間の歳月だった 映画『クローバーフィールド/HAKAISHA』はJ・J・エイブラムスによる徹底した秘密主義のもと、映画史上初めてタイトルも隠した映画だ。何者かの襲撃によってニューヨークの街がパニックにおちいる様子をリアルな映像と衝撃の展開 ...
ぐにゅぐにゅボンビー麺日記 - クローバーフィールド/HAKAISHA、 (´・ω・`)
作者:diko00
更新日:2008年9月20日 0時50分
晩年だけでなく
天正11年(1583年)、石山本願寺の跡地に大坂城を築く。豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。しかし城の一部に防御上の問題が有り、秀吉自身もそこを気にしていたと言われている(のちの大坂の役で真田信繁(幸村)は、防御の弱さを指摘されていた箇所に真田丸と呼ばれる砦を築き、大坂城の防御を大幅に強し、徳川勢を大いに苦しめた)。天正12年(1584年)には朝廷より将軍任官を勧められたが断ったとする説がある[5]。天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官された。そして3月21日には紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破る。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで平定した(紀州征伐)。また、四国の長宗我部元親に対しても、弟・羽柴秀長を総大将として、毛利輝元や小早川隆景らも出陣させるという大規模なもので、総勢10万という大軍を四国に送り込んだ。これに対して元親は抵抗したが、兵力の差などから7月25日、秀吉に降伏する。元親は土佐国のみを安堵されることで許された(四国征伐)。7月11日には近衛前久の猶子として関白宣下を受け、天正14年(1586年)9月9日には豊臣の姓を賜って[6]、12月25日、太政大臣に就任し[7]、政権を確立した(豊臣政権)。秀吉は「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られた、という説もある。越中国の佐々成政に対しても8月から征伐を開始したが、ほとんど戦うこと無くして8月25日に成政は剃髪して秀吉に降伏する。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多かった(秀吉を肯定することで家康を貶め、しいては江戸幕府の評価を下げることで明治政府の正当性を高めるという側面もあったとも指摘される)。その評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多い。江戸時代では逆に「徳川史観」の元に、石田三成などのように意図的に貶められた存在として描かれていた。また、ドラマなどでは前者のように人を殺すことを嫌う人物のように書かれているが、実際には松下文書や信長公記によると元亀二年では湖北一向一揆を殲滅したり、また天正五年では女・子供二百人以上を備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、子供は串刺しに女は磔にして処刑したと十二月五日の羽柴秀吉書状で報告している。このように晩年だけでなく最盛期でも、少なくとも他の武将並みの残酷な一面もあったようである。
作者:diko00
更新日:2008年8月31日 11時54分
支配する自
オゴデイが急死し、翌年にはチャガタイが病死すると、チンギス・カンの実子がいなくなった帝国には権力の空白が訪れた。次期モンゴル皇帝(大カアン・大ハーン)の選出作業にはオゴデイの皇后ドレゲネが監国となってあたったが、ドレゲネがオゴデイの生前に指名した後継者シレムンを無視して自身の子であるグユクを擁立しようとしたため、皇帝(大カアン・大ハーン)の選出が遅れた。(シレムンは、1236年に南宋遠征中に陣没しオゴデイが生前後継者と指名していた三男クチュの長男) 1246年、ようやく開催されたクリルタイはグユクを皇帝に指名したが、グユクと仲の悪いバトゥ率いるジョチは兄弟たちは出席させたものの自身は病気療養を口実にクリルタイをボイコットした。皇帝のグユクと西方の有力者バトゥの対立により帝国は一時分裂の危機に陥るが、グユクは即位わずか2年後の1248年に病死する。グユクの死後、監国となった皇后オグルガイミシュは続いてオゴデイ家から皇帝を選出しようとクリルタイを召集したが、バトゥは叔父トルイの未亡人ソルカクタニ・ベキと結んでトルイの長男モンケを皇帝に即位させようと目論み、クリルタイを欠席した。オグルガイミシュにはオゴデイ家とチャガタイ家、ソルカクタニにはジョチ家とトルイ家がつき、両陣営は後継者をめぐって水面下の対立を続けた。1251年、トルイ家の陣営はついにオゴデイ家・チャガタイ家の説得を諦め、ジョチ家の協力を受けて自領内のチンギス・カンの幕営(オルド)においてモンケの即位式を強行した。モンケは即位するやいなやオゴデイ家とチャガタイ家の有力者に皇帝暗殺を計画した嫌疑をかけて弾圧し、オグルガイミシュ以下の有力者は処刑され、オゴデイ家とチャガタイ家のウルスは解体寸前の状態にされてしまった。モンケはオゴデイが行った占領地域に統治政策を受け継ぎ、帝国のうち定住民が居住する地帯をゴビ砂漠以南の漢地(中国)、カンガイ山脈以西の中央アジア、アム川(アムダリア川)以西の西アジアの3大ブロックに分けて地方行政機関(行尚書省)を再編した。『元史』に載るいわゆる燕京等處行尚書省、別失八里等處行尚書省、阿母等處行尚書省の3つの行尚書省がこれにあたり、マフムード・ヤラワチやサイイド・アジャッル、マスウード・ベク、アルグン・アカといった財務官僚たちこれらの管轄やその補佐として各地に任命された。さらに3人の同母弟のうち次弟のクビライを漢地の軍団の総督、三弟のフレグを西アジアの軍団の総督に任命してそれぞれにその方面の征服を委ねた。クビライは1253年に雲南の大理国を征服し、フレグは1256年にはアラムートのニザール派を、1258年にはバグダードのアッバース朝を壊滅させる一方で、かねてからモンケに服属を表明していたアナトリアのルーム・セルジューク朝やファールス州のアタベク政権サルグル朝、ケルマーン州のカラヒタイ朝などのムスリム(イスラム教徒)諸政権に加え、大小アルメニア王国やグルジア王国など、イラン以西の諸勢力の掌握に勤めた。さらにモンケは南宋との決戦のため自ら長江上流域に侵入したが、苦戦を重ねた末に1259年に陣中で疫病に罹って没した。モンケの死後、首都カラコルムにあって留守を守っていたのは末弟のアリクブケであった。アリクブケはモンケの旧政府の支持を受け第5代モンゴル皇帝(大・カアン・大ハーン)に即位しようとしたが、南宋遠征で別働隊を率いて中国にいた次兄のクビライが中国および南モンゴリア、そして東モンゴリアのチンギス・カン諸弟のウルスの支持を受けて、南モンゴリアのドロン・ノールで自らモンゴル皇帝(大カアン・大ハーン)に即位した。続いてアリクブケも即位し、モンゴル帝国は南北に2人のモンゴル皇帝が並立する分裂状態となる。この内紛の最中に、西アジア方面軍の総督であったフレグはアム川以西の行政機関を支配下におき、イランに留まって西アジアを支配する自立政権、イルハン朝を建設した。それまでの帝国内諸ウルスは、帝国中央から直属の遊牧民を分与され、遊牧勢力圏を認められてはいたが、たとえその勢力圏であろうと、都市や定住民の統治は帝国中央の大ハーンの統治下にあった。イルハン朝は西アジア方面軍の将兵として配下にあった遊牧騎士だけでなく征服地の都市や定住民も統治下に置き、大ハーンの権威を戴きつつも領域国家としての自立性をもった最初の帝国内勢力となった。これは後にモンゴル帝国が4つの領域国家が大ハーンの権威下に緩やかに連合する体制に移行する嚆矢となった。イルハン朝は南カフカスの草原地帯の支配をめぐってジョチ・ウルスを継承したバトゥの弟ベルケと対立し、両政権は東方での大ハーン位の空席と武力による争奪戦という帝国の一大事をまったく無視して争い始めた。また、モンケの弾圧以来低迷していた中央アジアのオゴデイ・ウルスおよびチャガタイ・ウルスは大ハーン位争いの間に勢力を盛り返そうと蠢動した。1264年、クビライがアリクブケを降し単独の大ハーンとなったとき、モンゴル皇帝の影響力が直接及ぶのはモンゴル高原、天山ウイグル王国、チベットより東側のみになっていた。モンゴル帝国がバトゥのヨーロッパ遠征、フレグの西征のように帝国の全力をあげて遠征を遂行することは不可能になり、帝国の膨張は東アジアを除いて停滞に向かう。
=== 楓 ===
檜山情報研究所
金色のゴール
作者:diko00
更新日:2008年8月5日 19時52分
硬貨デザイン
新しく流通し始めるっていぅ硬貨のデザインなんだけどさぁ パズルのよぅに組み合わせると。。。 イギリスの国章の盾のマークになっちゃぅのょ♪ コレまぢで欲しぃんだけど ワクワク +从0゜・∀・从+ テカテカ 日本で買えるのかなぅ? 硬貨のデザインゎ公募されたものでね マシュー・デント(Matthew Dent)さんていぅ ...
Heart Attack - イギリスの新硬貨 『パズル』 なデザインになってるぅ
と言う訳で、イギリスの硬貨のデザインが40年ぶりに一新。ちなみに、Royal Mintとは王立造幣局のこと。新しくなるのは、1ペニー、2ペンス、5ペンス、10ペンス、20ペンス、50ペンス、1ポンドの7種類。ちなみに、ニュース記事によると、現在1ペニーは約2 ...
吉兆日記 - Royal Mint unveils coin designs - イギリス新硬貨デザイン発表
B3 Annex: イギリスの新硬貨デザインに採用されたのは26歳のデザイナー案 We Made This: Sterling designs. 今年から流通するイギリスの新硬貨らしいけど、いかにもグラフィックデザイン的な発想というか、ある意味“ただの思いつき”をそのまんま採用し ...
b log - イギリスの新硬貨デザイン
はおされーーーん. coin. これよこれ。 紋章学とか好きな僕には. うっとりな展開。 てか、何がすごいって. あつめると右の図のように・・・みたいな. 発想がすばらしい。 そのデザインをした方 は. 僕と同じ年。いいねー。 ...
ピヨちゃんとピヨくんのお仕事日記 - イギリスの新硬貨デザイン
作者:diko00
更新日:2008年7月20日 3時6分
軍は撃退
キューバには、当時アラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民がおり、原始的ながら温厚な性格の先住民は平和な暮らしを続けていたが、1492年10月27日、クリストバル・コロンの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。 インディオ達は、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。 スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷産業を盛んにし、インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げ、スペイン領アメリカ植民地第三の都市としてとして発展したラ・アバナには大学や要塞が建設された。19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティンらの活躍により、大陸部のスペイン植民地は既に独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はプエルト・リコなどと共に僅かに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、駐キューバスペイン軍を強化した。 また隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立した後、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、酷い混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。こうしてこのような様々な事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。 その後サン・ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入されて、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると砂糖に加えて、葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。『青銅の巨人』アントニオ・マセオ将軍 19世紀のラテンアメリカが生んだ人物の中で最も優れた人物の一人として知られる、キューバ独立の父ホセ・マルティ最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・セステベスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ十年余りに渡って続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦が成った。 しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。 1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティ自身は同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまで来た。 しかし、独立戦争の勝利が目前に迫ったある日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がラ・アバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。 こうして1898年、スペイン・アメリカ戦争(米西戦争、スペイン・アメリカ・キューバ戦争と呼ぶ立場もある)が始まると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカの圧倒的な勝利となった。 しかしアメリカは解放軍ではなく、こうしてアメリカの勝利すると、降伏したスペイン軍と結んだアメリカの占領軍により軍政が敷かれた。こうしてキューバは1902年5月20日に400年に及ぶスペイン支配から解放され独立を勝ち取ったかに見えたが、それは形式的なものであり、スペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカによる支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法に盛り込まれたプラット修正条項(Platt Amendment)には、アメリカの内政干渉権をキューバは認める、グァンタナモ、バイア・オンダの二箇所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの衛星国となってしまった。「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、精糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、はやくも1906年に反乱行為として結実し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に入らざるを得ない状況が続いた。また、1912年、1916年にも反乱が発生し、アメリカが介入する事態となった。その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。そのため、アメリカもプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなど、キューバの秩序維持に努めざるを得なかった。不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北した後、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止した上で独裁政治を開始した。二度目のバティスタ政権は一度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ(Fidel Castro Ruz)率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基く統治を復活させ、カストロらの政治犯に恩赦を与えた。カストロは、恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定により、キューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。マヌエル・ウルティア大統領、チェ・ゲバラ、カミーロ・シエンフエゴスメキシコ亡命後、カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師の“チェ”エルネスト・ゲバラ(Ernesto "Che" Guevara Lynch)と出会い、ゲリラ戦訓練を受けた後、1956年12月にヨット「グランマ号」にのってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でカストロらは壊滅的打撃を受けたが、シエラ・マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年余りのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。 革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生したが、その際に革命政権は、発足後数週間の内に軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。 その後、2月半ばにカストロが首相職に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、精糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化し、農業の集団化を実施するなど社会主義国家の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。バティスタ政権という傀儡政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、59年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。おりからの冷戦による米ソ対立の影響を受け、アメリカに敵視された革命政権はソ連に接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。アメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を国有化した。1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(プラヤ・ヒロン侵攻事件)。1962年2月3日にアメリカのケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連のミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となったが米ソの妥協で危機を回避する事態が起きた(キューバ危機)。これにより、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化したが、1965年にアメリカとキューバは、反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。なおアメリカは、1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、現在に至るまでグアンタナモにアメリカ軍の基地を置き続けている。
セブンリンガー
福岡男ブログ
メガ情報館
作者:diko00
更新日:2008年6月30日 23時43分
遣韓使
名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄・隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛の名は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門などの変名も名乗った。次弟は戊辰戦争で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松帯刀や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて新政府に江戸総攻撃の中止を命令したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの命令に従い、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄・隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛の名は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門などの変名も名乗った。次弟は戊辰戦争で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松帯刀や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて新政府に江戸総攻撃の中止を命令したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの命令に従い、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。弘化元年(1844年)、郡奉行迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(一番組小与八番)に編入された。弘化4年(1847年)、郷中の二才頭となった。嘉永3年(1850年)、高崎崩れ(お由羅騒動)で赤山靭負(ゆきえ)が切腹し、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。これ以後、世子島津斉彬の襲封を願うようになった。伊藤茂右衛門に陽明学、福昌寺(現在鹿児島市立玉龍高等学校があるところにあった島津家の菩提寺)の無参和尚に禅を学ぶ。この年、赤山らの遺志を継ぐために、秩父崩れの秩父季保愛読の『近思録』を輪読する会を大久保正助(利通)・吉井幸輔(友実)・伊地知竜右衛門(伊地知正治)・有村俊斎(海江田信義)らとつくった(このメンバーが精忠組のもとになった)。
毎日コツコツ
まんぞう日記
極楽浄土
作者:diko00
更新日:2008年6月3日 22時7分
第3位となるなど
インド経済は、1990年のイラクのクウェート侵攻に伴う原油価格の高騰及び中東への海外出稼ぎ者による送金減少などの影響から、外貨準備が輸入の約2週間分まで減少するという深刻な国際収支危機に見舞われたことを契機として、1991年から経済自由化路線へ変更する経済改革を開始した。具体的には、国内における産業規制の緩和や、貿易・諸外国からの投資の自由化を徐々に進展させ、高い経済成長を実現してきた。その成長過程は、ソフトウエアやITサービス事業といった最先端分野での存在感を急速に増大させるなど、これまでの東アジア諸国の経済成長とは異なる様相を見せている面もある。以下では、インドの経済成長の特徴及びその成長を持続的なものとするための課題を見ることで、その実像を明らかにしていく。インドは1991年の経済改革以降、おおむね高い経済成長を実現している。2005年の名目GDPでは7,854億ドルと米国の約17分の1、日本の約6分の1にすぎないものの、購買力平価1ベースで見れば、2005年時点で米国、中国、日本に次ぐ、世界第4位の規模となっている人口規模の面では、国連統計によると2005年時点で、インドの人口は11.3億人と、世界人口の17.4%を占め、中国の13.1億人に次ぐ世界第2位である。将来的に見ても、同じく国連統計の中位推計の予測では、2025年時点でインドの人口は14.47億人と中国の14.45億人を上回り、世界人口に占める構成比も18.1%に拡大することが見込まれている。さらに、その人口構成を見ると、「一人っ子政策」を採ってきた中国が急速に高齢化するのとは対照的に、インドの高齢化の進展は緩やかである(第1-4-2図)。このことは、15歳~64歳の生産年齢人口の比率が長期的に拡大していくことを意味し、今後も豊富な労働力が供給され続け、その存在感が増大していくと考えられる。サービス産業の発展は、インドの経常収支にも表れている。貿易収支では赤字が継続している一方、サービス収支の黒字幅は拡大しており、サービス産業は貿易収支の赤字を補う貴重な外貨獲得手段としてもインド経済に寄与しているこうしたサービス産業中心の経済成長を遂げるインドの産業構造をその他の東アジア諸国と比較すると、中国・ASEAN諸国では、概して農林水産業の割合が減少することに伴い鉱工業の割合が徐々に高くなっているのに対して、インドは、鉱工業の割合が20%台にとどまる一方、サービス産業の割合が50%を超えており、発展途上国としては特異な構造となっているインドの経済成長を需要項目の面から見ると、1991年の経済改革以降、輸出・総固定資本形成の対GDP比率が上昇してきているものの、2004年時点でも家計消費が対GDP比で61%を占めており、内需主導での成長を果たしていることが分かるこれは、中国が輸出・総固定資本形成が同37.6%、同38.5%となっており、外需と投資を中心とした成長を遂げていること、また、ASEAN諸国がアジア通貨・金融危機の影響もあり総固定資本形成が同20%前後と低迷する中で、輸出は同40%以上の水準を保ち、外需を中心とした発展を遂げていることと対照的である。中国、ASEAN4が経済成長を遂げる過程で外資を積極的に取り込んできたことに比べ、インドの直接投資の受入れは、対外開放の進捗に伴い近年上昇しているものの、その経済規模に対比して低水準である消費市場の拡大は、インドにおける自動車及び二輪車の販売台数の増加や、携帯電話の加入者数が近年急速に拡大していることなどにも表れている(第1-4-11図、第1-4-12図)。具体的には、インドの国内自動車販売台数は、2001年度の82万台から2006年度には185万台と2倍以上になっており、大幅な伸びを示している。また、携帯電話加入者数は、2006年12月時点で1億人の大台を突破し、中国、米国に次ぐ世界第3位となるなど、世界でも有数の市場となっている。通信分野は従来国営企業によって担われてきたが、1994年に携帯電話市場3、1998年にインターネット市場4への民間企業の参入が認められるなど、一連の規制緩和が進展した。2006年4月末時点で携帯電話市場では外資を含む民間10社、国有系2社がサービスを提供しており、新規参入企業が活発な事業展開を行うことで、サービス料金が1分間の通話が1セントと言われるほど低下し、インド政府が2015年に5億件の契約を目標にしている利用者も、2006年11月の月間増加数が680万件となるなど、世界最大の大幅な増加件数を示している。その結果、加入者数が2006年末時点で1億4,950万件に達している。こうした規制緩和等により、サービス産業のGDPに占める公的部門のシェアは、年々低下しており、1993年度と比較した2004年度の公的部門シェアの低下の状況は第一次産業、第二次産業よりも著しい(第1-4-19図)。これは、非効率な国営企業の民営化の進展や規制緩和による民間企業の参入の結果であり、このことが、サービス産業における効率化を進め、生産性の向上につながっていると考えられる。
ちちりん亭
ころっけ 301
Buttobi Blog
作者:diko00
更新日:2008年5月16日 20時52分
魚服記
青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市、旧北津軽郡金木町)に、県下有数の大地主である津島源右衛門(1871-1923)、タ子(たね)(1873-1942)の6男として生まれた。二人の間には11人の子供がおり、10番目であった(但し、太宰が生まれた時点で既に長兄・次兄は他界)。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士であった。津島家の先祖について、昭和21年に発表した『苦悩の年鑑』の中で「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた」と書いている。惣助は油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。また、津島家は、旧対馬国から日本海を渡って津軽に定住した一族であるとする説もある。1916年、金木第一尋常小学校に入学。1923年、青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)入学直前の3月、父が死去した。17歳頃、習作『最後の太閤』を書き、また同人誌を発行。作家を志望するようになる。官立弘前高等学校文科甲類時代には泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒すると共に、左翼運動に傾倒。1929年、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二の名で作品を発表。 この頃は他に小菅銀吉、または本名でも文章を書いていた。12月、みずからの階級に悩みカルモチン自殺を図る。1930年、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学。だが、高水準の講義内容が全く理解できなかった上、非合法の左翼運動にのめり込み、授業にはほとんど顔を出さなかった。また、小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。大学は留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍処分を受ける。卒業に際して口頭試問を受けたとき、教官の一人から、教員の名前が言えたら卒業させてやる、と冗談を言われたが、講義に出なかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。在学中にも、カフェの女給で人妻である田部シメ子(1912-1930)と出会い、鎌倉の海に投身する。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る1933年、短編『列車』を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加し、『魚服記』を発表。1935年、『逆行』を『文藝』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、第1回芥川賞候補となったが落選。(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』。)その後、都新聞社に入社できず、またも自殺未遂。また、この年、佐藤春夫を知り師事する。1936年、前年のパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集『晩年』を刊行。翌年小山初代(1912-1944)とカルモチン自殺未遂。一年間筆を絶ったが、『姨捨』で復活。1938年(昭和13年)、井伏鱒二の招きで山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れ、井伏の仲人で甲府市出身の石原美知子(1912-1997)と結婚。甲府市御崎町(現朝日)に住み、精神的にも安定した。『富嶽百景』など山梨県を舞台とする作品を書いた。1947年、没落華族を描いた長編小説、『斜陽』を刊行。生活のために、黒木舜平という筆名で心理サスペンス小説『断崖の錯覚』を書いたこともあるが、太宰自身はこの作品を恥じていた。39年の生涯で4回の自殺未遂を繰り返し、1948年(昭和23年)に玉川上水における愛人・山崎富栄(1917-1948)との入水心中により生命を絶つ(同6月13日)。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人による無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられている。2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日の事であった。 この日は桜桃忌(おうとうき)として知られ、太宰の墓のある三鷹の禅林寺には多くの愛好家が訪れる。太宰治記念館 「斜陽館」太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事をおこなっていたが、生地金木には生誕を祝う祭りの方が相応しいとして、遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。金木の生家は、太宰治記念館 「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。
あきてん食堂
ワケアリブログ
体脂肪を減らしたい
思いつき日記
作者:diko00
更新日:2008年4月29日 15時54分
川内康範
川内 康範(かわうち こうはん、1920年2月26日 - 2008年4月6日)は作詞家、脚本家、政治評論家、作家である。北海道函館市出身。本名は潔(きよし)。青森県八戸市に在住していた。海外抑留日本人の帰国運動や戦没者の遺骨引き上げ運動を早くから行った活動家であった。この活動を通じて政財界との関わりを持ち、福田赳夫の秘書を務め鈴木善幸元首相、竹下登元首相のブレーンでもあった。晩年は国民新党顧問を務めていた。政治思想的には「民族派」に近いとされていたが一方で日蓮宗の寺に生まれた仏教徒であり、マハトマ・ガンディーの無抵抗主義を高く評価し日本国憲法第9条は護持すべきとしていた。人脈は右派にとどまらず、アナーキストのルポライター竹中労とも親交があった。1950年代から1960年代にかけて多くの映画の原作脚本を手がける。特に1958年に原作と脚本を手がけたテレビドラマ『月光仮面』は有名で、数多くの子供向け番組の原作や監修を手がける。1970年代の特撮ヒーロードラマ『愛の戦士レインボーマン』や『正義のシンボル コンドールマン』は川内の経歴や思想を色濃く反映した作品とされる。1975年から監修として携わったテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』は1994年まで20年弱にわたる長寿番組となった。歌謡曲の作詞家としても「誰よりも君を愛す」「君こそわが命」「骨まで愛して」「恍惚のブルース」「花と蝶」「伊勢佐木町ブルース」「おふくろさん」など数々のヒット曲を持つ。まんが日本昔話プロデューサーの川内彩友美は実娘、「骨まで愛して」で知られる歌手・城卓矢、作曲家・北原じゅんは甥(元妻の親類なので血縁は無い)。かつてはメディアの露出も多く、多数の週刊誌連載を抱えていた。晩年まで地元紙である「デーリー東北」には時事問題等についての寄稿や投稿が多かった。1984年のグリコ・森永事件では、週刊誌上(週刊読売)にて犯人に対し「私財1億2000万円を提供するから、この事件から手をひけ」と呼びかける。このことで事件が収束に向かうことは無かった(犯人は川内の申し出に対し敬意を表しつつも「私は乞食では無い」と拒絶)ものの、大きな話題を呼んだ[要出典]。2000年代あたりからは年齢的な問題もあり公の場への登場は控えていたが、2007年2月、歌手の森進一に対し今後自作曲の歌唱禁止を通告する会見を開き、所謂「おふくろさん騒動」が勃発。数十年ぶりに時の人となった。この騒動は新聞の社説にまで取り上げられた。年末には薬害肝炎問題の対応に苦慮する福田康夫総理にアドバイスしたとも言われる。2008年4月6日朝、青森県内の病院にて死去。享年89(88歳没)[
作家で立派な耳毛の川内康範(かわうちこうはん)さんが88歳で亡くなったそぅですょ死因ゎ未発表ぽぃ 関係者だけで密葬が行われる予定なんだってさ 从*´ω`*从結局 『おふくろさん』 をめぐって 森進一さんとのゴタゴタゎ未解決のままになっちゃったょ ...
Heart Attack - 『おふくろさん』 『月光仮面』 川内康範さん亡くなる
森進一と川内康範の「おふくろさん」をめぐっての問題ってまだ決着していないんですね~ 誤解をとくための手紙を受け取り拒否されたとはまだまだ続くのですねhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080320-00000203-sph-ent 森進一 川内康範 おふくろさん ...
kgaichiの日記 - 森進一と川内康範の「おふくろさん」をめぐった問題は
作者:diko00
更新日:2008年4月10日 16時53分
太平洋の先
植民地(しょくみんち)とは、国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと。殖民地とも表記する。古くは古代ギリシアや古代ローマなどにも見られるが以下では近世の大航海時代以降について扱う。 近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にある領土を植民地という。植民地の統治形態には、(ア)本国は外交権や駐軍権のみを獲得し内政は先住民による統治に任せて原則として干渉しない保護領、(イ)現地の王や族長を通じて支配する間接統治、(ウ)本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治、などがある。また(エ)本国は外交、防衛のみを担当し内政は現地住民によって構成される政府・議会に委ねる自治植民地もあるが、この場合その参政権は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても公用語(本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されるのが通常だった。一般的に植民地統治が継続する中で(ア)→(イ)→(ウ)→(エ)の変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語や文化、民族意識を失っていく傾向にある。植民地における主権は領有国が有するが、特殊な形態として租借地や租界、複数国による共同統治領、国連の委任統治領や信託統治領などがあった。植民地では先住民の反乱や独立運動を抑圧するために、本国とは異なった法律が施行され、先住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは別個の法的身分に編入され、権利義務について別個の取り扱いがなされた(イギリス国民や本項の日本の植民地を参照)。1945年時点の植民地現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、国連総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。現在でも領有国が公に植民地としている地域にケイマン諸島などがある。逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、西ドイツの植民地支配を受けていると主張する人もいる。あるいは、少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われている地域を通俗的には植民地と呼ぶこともある。かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であったが、現代においては1960年に国連総会で決議された植民地独立付与宣言などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域に齎した善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配が住民に与える文化的、心理的ダメージを重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。ポルトガルとスペインはイベリア半島におけるイスラム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米のメキシコ、南米のペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。ポルトガルとスペインの領域を分けたのは、1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。大西洋上に西経46度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため南米大陸では、ブラジルのみがポルトガル領となった。1529年のサラゴサ条約では現在のインドネシアにあたるモルッカ諸島の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。ポルトガルは1418年からエンリケ航海王子の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出した。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功した。17世紀に入り、アジアで新しく参入したオランダやイギリスとの競合に破れると、南米ブラジルの植民に注力する。第二次世界大戦後、ポルトガルはインドのゴアにあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカのアンゴラやモザンビークなどの植民地も1970年代に独立した。スペインは1521年のコルテスによるアステカ帝国征服、1533年のピサロによるインカ帝国征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが、勃興するイギリス帝国の経済支配下に置かれ、さらに王朝交代によりその支配力は急激に弱体化した。1810年に至ると、ナポレオンのスペイン侵攻に乗じ、独立を試みる。植民地当局に対し、現地生まれのクリオーリョはその後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地はカリブ海のキューバとプエルトリコだけとなった。さらに、スペインは1898年の米西戦争でキューバとフィリピンを失う。1975年にはアフリカに残っていた西サハラからも撤退した。オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれる。20世紀に入っても東インド植民地(インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していた。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行った。20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っているイギリスの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰り返してきたアイルランドといえるだろう。その後大航海時代の波に乗って北アメリカ大陸に植民し、ニューイングランド植民地が成立、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った東インド会社はインドの諸勢力を巧みに操ってインドに植民地を広げる。七年戦争ではフランスと争い、カナダを獲得、インドからフランス勢力をほとんど駆逐した。19世紀始めのナポレオン戦争に勝利したイギリスは世界の海の覇権を握り大英帝国を建設することになる。その植民地はあまりにも多くてすべてを列挙することはできないが、東南アジアのビルマと海峡植民地(後のマレーシア)、中国の香港、流刑植民地として出発したオーストラリアとニュージーランド、アフリカではナイジェリア、南アフリカ、南アメリカ大陸のフォークランド諸島などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の南米諸国やオスマン帝国から独立した中近東諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。また1997年には香港を中華人民共和国に返還している。ただし、現在でもケイマン諸島、ヴァージン諸島、バミューダ諸島などのカリブ海や大西洋の島々、フォークランド諸島、ジブラルタルなどを海外領土として保有している。アメリカはイギリスから植民地 13 州を割譲されて独立したが、その後もイギリス、フランス、スペイン、メキシコから植民地や領土を割譲されまたは買収して、自国の領土を西へと拡大した。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになった。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、北部のアラスカをロシアから買収、ハワイを併合しその後州に昇格させ自国領土内に完全に併合する。さらに米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったカリブ海のキューバやプエルトリコ、東南アジアのフィリピン、グアムを植民地化した。もっとも、キューバはすぐに独立させたが、その後もキューバ革命までの長きに渡り影響下においた。アメリカは建国の成り立ちからして、他国の領土を支配するという考えに反対する人々が多いこともあり、植民地を直接経営するよりも独立した国家を間接的に支配することを好んだ。例として、米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治や経済的に影響下に置いた。これは直接には植民地としていないが、「経済植民地」とでもいえる事実上の植民地下に置き、各国に共産主義勢力が台頭するとたびたび排除するために軍を送り、傀儡政権となる軍事独裁政権を樹立させるなど、主権を無視した内政干渉を繰り返した。この体制は、中米や中東において現在も変わっていない。また、フィリピンは第二次世界大戦後に独立させたものの、同じく政治、経済、軍事すべてにおいて完全にアメリカの支配下に置いた他、戦後に日本から獲得した南洋諸島も北マリアナ諸島を除いて独立したものの同様の状況下にある。
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作者:diko00
更新日:2008年4月9日 23時51分