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トップ > 2006 > 2006 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月2日 1時)

20年前の博興路(旧我が家)

20年前の博興路(旧我が家)




旧青島神社(現貯水山公園)を後にして次に向かったところは博興路。

私が物心ついた頃、一家は博興路に住んでいました。


静かな住宅街でしたが一変していました。

にぎやかな市場通りになっているのです。

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↑静かだった博興路はにぎやかな市場通りに変っていた〓(1988年)。

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↑市場どおりに変っていた博興路〓。

イメージ 3


↑市場どおりに変っていた博興路〓。




人通りをかき分けながら博興路58号まで進んでいきます。

並んでいる市場が途絶えたところに、

なつかしい旧“我が家”がありました。

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↑懐かしい我が家は小学校になっていた(1988年)。




2階建てだった建物が4階建てに増築され、

「博興路小学校」の看板が立っています。

アーチ型だった入り口には四角い門がつけられていました。

この門の中心から右側が有川家、

左側が私たち一家の住まいでした。

一階は父の事務所で、台所と風呂場がありました。


その一階は、今は小学校の用務員室になっています。

姉と二人、しばらく立ちどまって中を覗き込んでいると、

用務員室からおばさんが「何か用か?」と出てきました。

姉が「私たちは昔ここに住んでいました」と言うと、


「どうぞ、どうぞ」


と、すぐ門の中に入れてくれました。

イメージ 5


↑広かった中庭は運動場になっていた(1988年)。




そこは運動場になっていて、右側に新しく校舎が建てられています。


この中庭は私が子供の頃、

姉の音頭で、近所の子供たちと運動会が出来るほどの広さでしたが、

まさか本物の小学校の運動場になろうとは・・・。


でもさすがに小学校の運動場としては狭すぎて、

子供たちが飛び回ることはできません。

その場でぴょんぴょん跳ねて遊んでいるだけです。


昔、お風呂場だったあたりに外階段ができ、

2階から上は各教室をつなぐ廊下が増設されています。


「どうしたの?」


その2階の廊下から女の先生が首を出して声をかけてくれました。

用務員のおばさんがいきさつを話すと、


「じゃ、どうぞ上がってください」


と、気軽に言ってくれます。

私たちは遠慮なく階段を上がると、そこは職員室でした。

私たち一家が寝起きしていた部屋が職員室になっているのです。


女の先生は音楽の先生で、

わざわざ生徒まで呼んできて、


「日本人のお客さんですよ」


と紹介してくれます。


手の空いている先生方も私たちを囲み、


「私の家はすぐそこだから帰りに寄って行きなさい」


と誘ってくれる男の先生もいました。

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↑職員室で生徒たちと談笑〓(1988年)。

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↑職員室で生徒たちと談笑〓。

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↑職員室で生徒たちと談笑〓。




戦後四十数年間断絶していた日本人を、

懐かしげに迎えてくれる青島の人たち。

うれしいひとときでした。


一番奥に一人座っていた共産党書記の偉い方も、

突然の闖入者を咎める様子もなく、黙って部屋を出て行きました。


とは言え、いつまでもお邪魔しているわけにもいかず、

去り難い思いを残して、人懐こい先生方にお別れをしました。


次は、ここからすぐ近くの鄒平路の家を目指します。

イメージ 9


↑博興路、鄒平路付近地図。


※現在、博興路、益都路一帯は再開発され、
 
 頤高数碼(IT)広場(ビル)になっています。

作者:

更新日:2008年11月30日 7時30分

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20年前の写真から

20年前の写真から





20年前の1988年5月、

姉と二人で、戦後引き揚げ以来はじめて青島を訪れました。


泊まったホテルは、出来たばかりの八大関賓館。

第二海水浴場の目の前でした。

当時はまだ旧市街の再開発が始まったばかりで、

八大関より東の現在の新市街はまだ農村地帯です。

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↑出来たばかりの八大関賓館前で(1988年)。




自由時間の最初の日、

私たちはまず旧青島神社(現貯水山公園)を目指しました。

その近くに私たちが住んでいた家があります。

勝手知ったる旧市街です。

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↑20年前の旧青島神社(現貯水山公園)入り口は工事中だった。

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↑階段を上り詰めて街を見下ろす(1988年)。




懐かしい神社の階段を一歩一歩踏みしめ、

拝殿のあった頂上まで登りつめて街を見下ろしました。

景色は変わったとは言え、少年時代の思い出が一気によみがえります。


「どこから来たんだい」


階段で日向ぼっこをしていたお年寄りのグループが、

見慣れない私たち二人を見て声をかけてきました。


「日本からですよ」


少し中国語が分かる姉が答えました。

グループの一団が珍しそうに寄ってきて口々に何か言っています。


この辺に日本人がたくさん住んでいたんだ、とか、

大きな小学校があったよ、とか言っているようです。


少し離れたところにいたおじさんが何やら叫んでいます。


「あのおじさんは何を言っているのですか」


姉が聞きました。


「気にすることはないよ。あの人はちょっと頭がおかしいんだ」


どうやら、「外国人と話してはいけない」と言っているようです。

未だに“文化大革命”の名残を引きずっているのでしょうか。


ひとしきり話し終わるとお年寄りグループは姿を消しました。

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↑階段の上から街を見下ろす〓(1988年)。



旧神社の拝殿は取り壊され、空地が奥のほうまで広がっていました。

誰もいなくなった階段には一組の夫婦が寄り添うように座っていました。


「この先、行けるのでしょうか」


姉が手まねを交えた中国語で夫婦に聞きました。


「行けますよ」


思いがけなくきれいな日本語が返ってきました。

品のいい夫婦でした。

姉もすっかり安心して隣に座り込んでおしゃべりを始めました。


日本統治時代、このご主人は大きな紡績会社で、

日本人と一緒に働いていたそうです。

イメージ 5


↑階段に座っていた品のいいご夫婦(1988年)。




私は話には加わらず、写真を撮っていました。

ご夫婦の写真も撮って、

写真を送りたいから住所とお名前を教えてくださいと頼みました。


「写真は要りません。名前を教えることは出来ません」


それまで穏やかな口ぶりだったご主人が、

突然凛とした口調に変りました。


「わかりました」


周りに人がいるときは一言もしゃべらなかったご主人が、

誰もいなくなってから日本語を話し始めた理由がわかったような気がしました。


長い間、自分が日本語をしゃべれることを隠していたのでしょう。

長く、辛い時代だったに違いありません。



二人の写真を撮ってから20年が経ちました。

あのご夫婦は今もご健在でしょうか。

或いはもう他界されたかも知れません。

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↑今もお年寄りたちの日向ぼっこに格好の場所(2007年)。

作者:

更新日:2008年11月27日 7時22分

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床屋のおじさんの話

床屋のおじさんの話



三か月ぐらいに一度、床屋さんに来てもらっています。

最初は簡単に見つかると思っていた床屋ですが、

出張してくれる床屋さんがなかなか見つからず、

やっとY君が同じ団地内で営業している床屋さんを探してくれました。

私の部屋まで歩いて30分ぐらいかかりますから、

それなりの好条件の料金を払うことにしています。


この床屋のおじさん、年は60歳ぐらいでしょうか。

定年後、手先の器用さを生かして、自宅で床屋をやっているそうです。


1回目はY君と一緒に来ましたから会話もスムーズに出来ましたが、

2回目は、このおじさんと私の二人だけの会話です。


「黄台路に山口医院があったのを知っているかい」


おじさんはいきなり聞いてきました。

私が昔青島に住んでいたことをY君から聞いて知っているのです。


「よく覚えていないけど、黄台路のどの辺?」

「黄台路の坂の下のほうだから、遼寧路に近いところだよ」

イメージ 1


↑黄台路の坂下付近(2006年)。

イメージ 2


↑黄台路と遼寧路の交差点。
左方向が遼寧路、右方向が熱河路(2006年)。



話を聞くと、「山口医院」というのは耳鼻科の病院で、

おじさんのお父さんがそこで働いていたそうです。


「そのお父さんはまだ元気なの?」

「いや、5、6年前にあの世へ行ったよ。84歳だった」

「そうですか。それはお気の毒でしたね」


そのお父さんから直接話を聞きたかったのに残念です。


「親父がまだ小さいとき、仕事を探しに煙台から出てきたんだ。

でも仕事がなかなか見つからなくて、とうとう行き倒れさ」


お父さんが行き倒れになった場所が「山口医院」のゴミ箱の横でした。


山口医院の奥さんが、

行き倒れの少年に気がついて、家の中に連れて行きました。

少年にご飯を食べさせ、お風呂にも入れてあげました。


さっぱりと垢を落とした少年は、

結局、山口医院のボーイとして働くことになったのです。

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↑黄台路と遼寧路の交差点〓。
手前右側の建物が取り壊された(2007年)。




何年か経ち、日本は戦争に負けてみんな引き揚げて行きました。

床屋のお父さんは職を失いましたが、

山口医院で働いているときに見よう見まねで覚えた診療技術が役に立ち、

患者を診てあげたりして食いつないでいたそうです。

勿論、偽医者ですが、戦後の混乱時代のことですから致し方ありません。

世の中が落ち着くまでそんな生活をしていたのでしょう。



中国の散髪はあっという間に終ります。

私の語学力では、短い時間でここまで聞き出すのがやっとです。

お父さんが生きていれば、もっと詳しい話が聞けたのに、

時間というものはほんとうに冷酷です。



あの戦乱の時代を生きた日中庶民同士の隠れたエピソードも、

こうして誰からも語られることなく永遠に消え去っていくのです。



この話を聞いてから、昔黄台路に住んでいた西村氏に問い合わせてみました。


「お尋ねの耳鼻科の山口病院、聞いたことあります。

黄台路と遼寧路の交差点から熱河路の方に少し行った左側にあったような?

確かではありませんが、気がしております。

耳が少し悪かった三男坊が通った事があったような、

母が亡くなっている現在はっきりしません。」


というご返事をいただきました。

このメールから察すると、山口医院のあった場所は、

黄台路というよりも熱河路と言った方がよいのかもしれません。

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↑現在の熱河路(2006年)
 

作者:

更新日:2008年11月24日 7時33分

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忘れ得ぬ中国の人々(三)

忘れ得ぬ中国の人々(三)


<この記事は青島日本中学第25期同窓会誌「魚山」

第13号(1996年5月)から転載させていただきました>



忘れ得ぬ中国の人々(3)

             柳島俊司



3.姚  志(ヤオ・チイ)


姚志はわが家のボーイで、昭和16年頃(1941年頃)に雇われてきた。

私より1歳上だったが、小柄で私と同じ位の背丈、

紅顔に目がクリクリとしていて、少し反っ歯、頭は角刈りにしていた。

15歳位なのに料理が得意で、

ギョウザなどを作るときは得意気に包丁をトントコトントンとならし、

実にうまいものを作った。

それに白菜、ねぎ、しょうが、ニンニク、豚肉等を細切りにし、

油でいためて醤油で煮る料理・・・なんというのか知らないが・・・

実にうまかった。

女房にいくら説明してもできないし、

どこの中華料理店でもお目にかかったことがない。



大東亜戦争が始まり、

マレー半島、シンガポール、インドネシアと着々占領していた頃、

私が得意になって地図を見せながら戦果を披露し、

大東亜共栄圈の理想を話し、

米・英・蘭を追放し植民地を解放して

アジアの諸民族が手を握って共栄圏を完成すれば、

皆が幸せになれると説くと、

本当に喜んでくれた。

イメージ 1


↑戦勝に酔う日本人居留民の旗行列(1941年ごろ)。



私が鉄棒が不得手だったので、

庭に鉄棒と砂場を作り、“飛行機とび”や“蹴上がりの練習をしていると、

そばて見ていて大抵私より早く出来るようになる。

悔しいので砂場で相撲をとると今度は姚志がかなわないので、

悔しがって本気になってかかってくる。


2千メートル競走の練習にもついて来るし、

兄弟みたいなもので余り親しくなり過ぎて、

生意気だといって殴ったり蹴ったりひどいことをしたが、

手向かって来ることはなく、

4〜5日そばに来ないだけで、何時の間にかまた仲直りをしていた。



姚志は父が亡くなり、母と弟妹が滄口に住んでいて、

月に一度・・・多分給料日の後・・・必ず自転車で帰っていた。

昭和19年に姚志は18歳になり、名を姚保安と改め、

わが家をやめて華北交通の鉄道警備隊に入るという。

私は治安も悪くなってきているので、

「好人不当兵」という諺があるではないか、

仕事なら工場の方に変わればよいと言って引き止めたが、

聞かずにやめていった。


その後一度、高密駅にいるといって遊びに来たが、

体もがっちりして顔付きも厳しくなっていた。

きっと家族のために収入のよい警備隊に入り、

身の安全を願って名を“保安”と改めたのだろう。

イメージ 2
オリジナルのサイズの画像を見る場合はクリックしてください。


↑昔の高密駅。



旅順に行く際、高密駅で探したが見当らなかった。

戦後を無事に幸せに生きていることを願うのみである。

                  (終)



「忘れ得ぬ中国の人々」を終ります。

ご愛読ありがとうございました。

作者:

更新日:2008年11月21日 7時17分

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忘れ得ぬ中国の人々(二)

忘れ得ぬ中国の人々(二)


<この記事は青島日本中学第25期同窓会誌「魚山」

第13号(1996年5月)から転載させていただきました>



忘れ得ぬ中国の人々(2)

柳島俊司



2.胡 先 生 (フゥ・センション)


胡先生は私の生まれる前からのわが家の番頭である。

“胡須園”といい、朝鮮銀行に勤めながら青島学院の夜学を卒業し、

日本語の読み書きヽ発音も正確で、字も毛筆・ベン字ともに美しく書いた。

経理は長年間違いなく果たし、父の全幅の信頼を得ていた。

私が教科書やノートに名前を書いて貰いに持っていくと、

毛筆できちんと書いてくれた後、ペラペラとめくって読んでくれ、

さあ勉強しなければという。

英語など中国人独特の発音で“R”を読むが、

後年米人教師の発音に似ていて、改めて敬意を感じたものである。

イメージ 1


↑1940年代の遼寧路(旧奉天路)。この先右にカーブして台東鎮に至る。



父の木工場には、大工が40人位、職工が10人位いたが、

胡先生は日本人の技師との間にたって意志疎通に努め、

双方の尊敬と信頼を得て皆から胡先生と呼ばれていた。

何かトラブルが起こると、工場で大きな声でののしり合うのが聞こえてくるが、

胡先生が出ていくと暫くしてそれがおさまる。


戦局が厳しくなりインフレが進んでくると、

時たま工場で機械が一斉に止まり、口々に何かどなっている。

今から思うとストライキだったが、胡先生の力で半日もすれば解決し、

日を越すことは全くなかった。



昭和19年も押し詰まり、戦況が日ごとに日本に不利になって来たある日、

胡先生は私の顔を心配そうにのぞき込み、


「俊ちゃん、顔色が悪いがどうしたの?」


と開いてきた。

私は暫くして


「そうかな。別にどうってことはない」


と言いったものの、胡先生にはいつも心を見通されてしまうのと、

二人だけだったので、


「日本は戦争に敗ける」


と言うと、


「そんなことまだ分からない」


と慰めてくれた。

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↑神社前で戦勝祈願をする女学生。



さらに私が


「俺は戦争に行って玉砕する。それが国の役に立つなら人生20年でかまわない。

しかし、お父さんやお母さん、妹はどうなるだろう・・・」


と決意を述べると、胡先生は


「国が敗れても、人は死なない。死んだらだめだ」


と強く励ましてくれた。

胡先生は、踏みにじられても荒らされても、

したたかに生きてきた中国民衆の智恵を私に吹き込んでくれた。

私は国が破れても生き延びられるとは思わなかったが、

誰にも言えなかったことを吐き出して、何かすっきりしたことを覚えている。


昭和20年6月、私は旅順に向けて出発、

7月には青島が戦場になるということで、

病気の母を連れて父と妹は北京に疎開した。

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↑旧青島駅(1991年)。



終戦後誰も青島に帰れなかったが、胡先生は後始末をきちんとして、

国家補償のための資産証明書まで事細かに書いて、引揚げの人に託してくれた。


その後、胡先生が露店で煙草や南京豆を売っていたという噂を聞いたことがあるが、

音信は途絶えたままである。

国交回復後、手紙を出したことがあるが梨のつぶてだった。

作者:

更新日:2008年11月18日 7時11分

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忘れ得ぬ中国の人々(一)

忘れ得ぬ中国の人々


<この記事は青島日本中学校第25期同窓会誌「魚山」

第13号(1996年5月)から転載させていただきました>



忘れ得ぬ中国の人々(一)

               柳島俊司


1、カン主婦

私が生まれた場所は、戸籍によると中華民国青島北京路38号である。

北京路は中国人の商店街で2、3階建の家がつづき、

呉服屋、金物屋、食糧品店、文具店等、卸小売の店が軒をつらねていた。

その西端に、わが家と通運公司という日本人の会社があり、

その西は広場で、向う側には膠済線が走っており、

台西鎮に向かう跨線橋があった。

丁度青島駅から1キロ位来たところである。

イメージ 1


↑1930年代の北京路

イメージ 2


↑現在の北京路(前方左折する道路が北京路)。
38号には現在新しいビルが建っている。




カン主婦は近所の雑貸店の女房で、

どういう字を書くのか分からないし、主婦も当て字である。

母性的な面白い人だったと思う。

当時、私に年子の妹が生まれ、兄は小児麻痺で片足が麻痺し、

母親は病院通いに明け暮れていた。

丁度歩き始めた私が、一寸目を離すとどこかに行ってしまい、

手に負えなくなってきたのでカン主婦を子守に頼んだようである。

私との相性が良かったのか、どんなに泣いていても、

カン主婦が来るとピタリと泣き止み、ニコニコし出したそうである。

カン主婦は私を抱いて汽車を見に行ったり、

街を歩いたり、時に自分の店に寄ったり、

夕方になるといつも街路樹の下に立って

通りがかりの若い女工に見せて自慢していたようである。

「まあ可愛い…」と寄って来る。

そのうちに

「この中で誰が一番好き…」と、

かまう者が出て、私がいつも一番の美人を指すので

「まあ−、ませている」とひと騒ぎする。

私はその頃中国語が分かったようである。

私が少し大きくなると、カン主婦は来なくなり、こちらから時々訪ねていった。

店の入り口には1銭買いの湯沸かしがピーとなっており、
(注:参照)

中には珍しいものがいっぱいあり、うどんを作る機械があって、

粉を持って頼みに来る人がいると旦那が見ているうちにうどんを作る。

いくら見ていても飽きなかった。

隣の通運公司に塩原さんという若夫婦がいて、結構相手になってくれたので、

いつも行って、「なぜ?」、「どうして?」、「それからどうして?」と、

聞いてきりがないので、それは学校に行ってから聞きなさいと言われた。

それから後、2〜3百メートル離れた田中鉄工所に、

正ちゃんという一歳上の子がいて行き来して遊ぶようになったが、

近所の中国人の子供とも喧嘩したり仲直りしたりして遊んでいた。

家には連れて来なかったが、中国人の家に遊びに行ったこともあるようだ。

妹と一緒に行って、

おやつに生の芋が出て2人で一生懸命にかじって食べて帰ったところが、

妹が家で吐いたものだから、「お前、何を食べさせた」と怒られた覚えがある。

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↑現在の北京路(2007年)




5歳頃、東の端の台東鎮に近い奉大路(現遼寧路)84号に引越した。

父はそこで、今までしていた繭の輸出の他に木工業を営むようになった。

近所には青島絲廠という大きな製糸、紡織、染色などの会社があり、

そこの社宅に日本人の子供が大勢いて、

毎日行ったり来たりして遊んでいたが、母はその前に長男(兄)を亡くし、

私を心ならずも野放しにしていた思いからか、しつけは厳しくなった。

3百メートル位離れた坂の上の家に、同年の宮沢信雄さんがいて、

2人で第一小学校前の幼稚園や桓台路の基督教会の日曜学校に通った。

小学校1年か2年の頃、

カン主婦の旦那が近くに来たからといって訪ねて来たとき、

私がどうしてもカン主婦に会いたいといってきかないので、

やむなく旦那が自転車の後に乗せて連れて行ってくれた。

街並も店も変わっていなかったが、

店に入ると狭くて雑然として何となくほこりっぽく、

カン主婦がニコニコして話しかけてきたが、

言葉を忘れて「うん」とか「あ−」としか答えられず、

ただ恥ずかしく小さくなっていた。

カン主婦も完全に日本人の子になってしまった私に

それ以上近寄ろうとはしなかった。

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↑北京路と河北路の交差点(2007年)


○注:「店の入り口には1銭買いの湯沸かしがピーとなっており」
  昔の青島では、麺類などを売っている店でお湯を売っていた。
  近所の人がやかんを持って買いに行く。
  店の出入り口の上に丸い筒状のものが突き出ていて、
  湯沸かし器の蒸気を利用した笛がピーと鳴っていた。
  のどかな風景であった。

作者:

更新日:2008年11月15日 8時6分

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中山公園を歩きました

中山公園を歩きました



11月10日。

陶君が眼科に連れて行ってくれるという日、

私は自分がどのくらい歩けるか試してみたいので、

中山公園か石老人海水浴場に行きたいとお願いしました。

目のほうはだいぶよくなりましたので、病院に行くのは後回しです。

結局、中山公園に行くことにしました。

車椅子を卒業して、ついに外出に挑戦です。


中山公園まではタクシーで行きました。

アパートから南京路の通りまで恐る恐るどうにか歩きました。

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↑中山公園入り口。



中山公園は今年の春から無料になり、

近郊からのお客さんでしょうか、にぎわっています。


ドイツ統治時代に植物園として造られただけあって

豊富な植物が園内を埋めています。

“もしかしたら”という期待も空しく紅葉にはまだ早かったようです。

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↑入り口の大木。



公園の奥のほうまで行きたかったのですが、

杖に頼ったり、陶君の肩につかまったりしながら、

入り口付近をよたよた歩くだけで時間がかかってしまいました。

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↑園内の花壇は菊の花で埋まっています。




出かける前までは、もう少し歩けるかと思ったのですが、

いざ歩いてみると、もっともっと鍛えないと一人歩きはまだ無理のようです。


帰りはバスでジャスコまで。

バスの乗り降りもやっとです。

自分の非力さを自覚できた外出でした。

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(2)秋の果物


話し変って・・・

―秋―、

秋の果物と言えば「柿」。


「そう言えば今年はまだ柿を食べてないなあ」


ふと漏らしたこの言葉に、

早速生徒が柿を買ってきてくれました。

この柿は小さいながら甘みは十分、

私の好きな柿です。

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別の生徒にまた買ってきてもらったのがこの柿。

ちょっと大きめですがタネがなくて柔らかです。

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↑やや大き目の甘くておいしいタネなし柿。



昔、家族みんなで柿を食べるとき、


「青島の柿はタネがなくていいね」


と、いつも父が言っていましたから、

子供のとき食べた柿はこれかも知れません。


そして、

中国の秋で忘れてはならないのが「甘栗」です。

食べ始めたらキリがありません。

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作者:

更新日:2008年11月12日 8時4分

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青島の庶民住宅「里院」

青島の庶民住宅「里院」



先日「『台西鎮』今昔物語」を「魚山」誌から転載しましたが、

記事の最後に、青島の庶民住宅「里院」を紹介しました。


その「里院」内部の写真を徐君から提供していただきましたので、

みなさんに公開いたします。

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↑里院の内部〓(徐君提供)

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↑里院の内部〓(徐君提供)

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↑里院の内部〓(徐君提供)



この写真の「里院」は小港一帯に建てられていた住宅で、

現在は再開発のため壊されました。

これは再開発前の写真ですので貴重なものです。

台西鎮の「里院」もおおむね再開発の対象になり、

今は存在しないそうです。

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↑里院の内部〓。共同水道が見える。(徐君提供)

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↑里院があった小港一路の通り。(徐君提供)




今後「里院」が保存される地域として、

中山路の山側一帯が指定されているそうです。

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↑中山路(2007年撮影)。右側が山側になる。

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↑中山路の山側にある四方路(2007年)。




また、新しいマンションを建設する際にも、

この住宅様式を取り入れようという案があるそうです。


中山路山側のほかにも「里院」様式の住宅が残っています。

以前、無棣路を歩いているとき見つけた住宅です。

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↑無棣路の里院入り口(2007年)。

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↑無棣路の里院内部(2007年)




周村路、楽稜路にも似たような様式の住宅が残っています。

博興路、鄒平路にあった住宅や、日本人の住んでいた社宅なども、

共用の中庭を二階建の長屋が囲むという、

「里院」様式の住宅が多かったと思います。

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↑周村路の長屋。日本人も住んでいた。



いずれにしても、中山路近辺の住宅保存は、

青島人の生活や住宅建築の歴史を研究する上で貴重なものになるでしょう。

作者:

更新日:2008年11月9日 7時55分

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青島の街角で

青島の街角で



<この記事は、青島日本中学第25期同窓会誌「魚山」

第24号(2000年1月号)より転載させていただきました。>



青島の街角で 

             楠田 寿江

1995年6月、札幌の小林恵美さん、大分の池辺禎子さんと三人で、

一泊で行ける最後の船便で懐かしの青息へ行きました。

翌日、船上から青島の山や街が目の前に迫って来た時は

夢を見ているのではないかと、

呆然と甲板に立ち尽くしてしまったものでした。


翌々日、私達3人と他に同行の人とで、

お互いの旧住所や勤務先、女学校、小学校、旧青島神社などを見て廻ろうと

通訳の人を頼み、タクシーをチャーターして市内をゆっくり見ることにしました。

青島へ着いてから興奮と感激の連続の3日間の私は、

完全に足が地についていないような状態でした。


中山路(山東路)から市場三路の郵便局の前まで来たとき、

誰が言うともなく車を下りて後からついて来てもらい、歩くことにしました。

聊城路(中の町)に続く大きな石段が目の前に見えて来て、

右側の電気館は外から見る限り、昔のままの姿で残っていました。

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↑今も残る電気館(2006年)




電気館と岩崎呉服店の間の小さな石畳の坂道もそのままで、

思わず足早にその坂を登りつめて李村路に出ると、

青島映画劇場が50年前と同じ姿を見せて私を迎えてくれました。

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↑李村路に登る坂道。手前が李村路(2006年)

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↑青島映画劇場跡(2006年)




総務部になっていて、毎日私か通勤していた事務所もそのまま・・・

思わず訳を話して中に入れてもらおうかと、

入り口迄行って場内をのぞいたのですが、

色々なためらいと、同行の人もいることなので、

暫く立ちつくしていたけど、

諦めて中の町(聊城路)の方へ歩いて行きました。

その時です。

後ろから五十半ば過ぎの男の人が追っかけて来て私に、


「您貴姓?」(貴方のお名前は)、

私は思わず

「我姓三浦」(私は三浦です)、

「対々、対々」(そうです、そうです)、


興奮気味にその人は話しかけて来ましたが、

私の単語だけの中国語はここまでで後はもうチンプンカン。

通訳の張女史がこれ叉上気して、彼が、


「自分の父は青島映画劇場で映写技師の主任をしていた李で、

自分も映写技師をしていたが今は劇場の前で店を開いている。

貴女が懐かしそうに劇場を眺めているのを見て、

もしや三浦さんの家の人ではないかと思い追っかけて来た。

遭えて本当に嬉しい」


と言っていると通訳してくれました。

青島に来てからの3日間の、

胸の奥に詰まっていた熱い想いが一度にどっと噴き出て、

李さんと何度も握手しながら、流れ出る涙をどうすることも出来ませんでした。

二人の友も、同行の人もみんな泣いてくれて、


「お父さんがよくなさってたのね」


と、言ってくれました。

再会を約して別れた李さんには、

2年後次兄と再び青島を訪れた折にご足労願って

電気館、青島映画劇場、東洋劇場の三劇場を案内してもらい、

三劇場の経理(支配人)の方々にも逢え、

ゆっくり場内を見せてもらい、交流を深めることが出来ました。

追っかけて来で声を掛けてくれた李さん。

若くしてこの世を去った末兄の友人の王さん夫妻。

通訳の蒋青年等懐かしい青島の友にもう一度逢いたい、

そして忘れがたい青島の街並みをゆっくり歩いてみたい、

と無性に思うこの頃です。(終)

作者:

更新日:2008年11月6日 8時16分

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ネットで買った電子辞書

ネットで買った電子辞書


イメージ 1


↑今や電子辞書は必需品。



日本語を教える時、今や電子辞書は欠かせません。

難しい単語や、説明しにくい単語は

電子辞書で入力すれば簡単に訳文が出てきます。


私が日中・中日辞典の電子辞書を買ったのが7、8年前です。

それまでは分厚い日中辞典をカバンに入れて教室に向かっていました。

それが電子辞書一つで間に合うのですから便利になったものです。



その電子辞書の調子が悪くなり、とうとう寿命が来ました。

どうしたものかと思案していると、生徒が


「先生、インターネットで買えますよ」


と教えてくれましたので、早速検索してもらいました。

電子辞書の安いのから高いのまで、

新しい機種から旧い機種まで、

ずらーっと一覧が出てきました。


「先生、どれにしますか」

「一番安いのでいいよ」


と言ってよく見ると、

一番安いのは、私が7、8年前に買ったものと同じ製品です。


「へー、まだ売っているのかぁ」


こういうものは新製品がどんどん出て、

古いものはすぐ製造中止になるのかと思っていましたので驚きました。


「これにしよう。使い慣れているし、余計な辞書が入ってないから」


私が必要なのは、日中・中日辞典ですから、

それに国語辞典、漢和辞典、英和・和英があれば十分です。


配達先は生徒の勤め先にして、お金も振り込んでもらいました。

値段は送料込みで1100元。

以前買ったときは2万数千円でしたが今度は2万円以下です。



2、3日して届いたという知らせです。


「速いなあ」


聞けば、大連に総合センターがあり、

青島の事務所で受け付けた製品はすぐ大連に報告され、

青島に発送されるという仕組みだそうです。

わざわざ日本に行って買わなくても、居ながらにして手に入る時代になりました。

中国も便利になったものです。

イメージ 2


↑昔と同じ型の電子辞書がありました。




先日、初級クラスの生徒が大連に転職しました。

彼女はアメリカの保険会社に勤めていましたが、

この会社は保険加入申し込み事務を青島に集中させ、

英語の堪能な中国人が受付を担当しているそうです。


今度の転職先もやはりアメリカのコンピューター会社で、

ネット専門で販売しているメーカーです。

この会社も大連にネット基地があり、

世界中からの注文をそこで引き受けているのです。


彼女は英語のほかに日本語も出来るというので即採用されました。

青島は中国で一番賃金の低い都市ですから彼女の給料も倍増です。



ニュースによると日本企業の会計や総務の仕事はどんどん大連に移って、

今や大連はアウトソーシンクの基地として発展しているそうです。

大連の背後には吉林省という朝鮮族の多い地域があります。

朝鮮族は小さいときから日本語を学び、

韓国語と似ている日本語はお手の物です。

大連は日本企業のアウトソーシンク基地として発展する道を選びました。


日本の若者たちにとっては大変な時代を迎えたことになります。


中国人は英語も得意ですから、

日本の若者としては、

さらに一段上の技能を身につけなければ太刀打ちできません。


頑張れ! 日本の若者。

作者:

更新日:2008年11月3日 7時51分

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