メニュー

関連ページリンク

トップ > 868 > 868 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月2日 10時)

入沢康夫さん芸術院会員に

 現代日本最高の詩人にして、賢治研究の大先達である入沢康夫さんが、日本芸術院会員に選ばれたと本日発表がありました。以下、公式発表の紹介文です。

入沢 康夫 詩歌。実験的・前衛的な詩と、出雲神話や宮沢賢治の研究で知られる。88年藤村記念歴程賞。島根県出身、神奈川県在住。

 入沢康夫さま、おめでとうございます。
 今年の新会員は15人で、これで会員は計111人になったのだそうです。
 

作者:hamagaki

更新日:2008年11月28日 23時25分

このブログのホーム

「雲の信号」と雁(つづき)

1.作品

    雲の信号

あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
  そのとき雲の信号は
  もう青白い春の
  禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
                  (一九二二、五、一〇)

2.これまでのあらすじ

「雲の信号」詩碑 私は数年前に、「石碑の部屋」の「雲の信号」詩碑のページに、この「雲の信号」(『春と修羅』)という作品について、私なりに思うところを書いてみていました(詳細は「雲の信号」詩碑参照)。
 ところが最近、「雁は冬鳥なので日本では繁殖行動はしない」とのご教示をいただき、さらに先日の記事では、この作品の日付である「5月」という時期には、そもそも日本には「雁」は存在しないということを知り(重ね重ね無知でした!)、作品末尾の「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」という記述をどう解釈したらよいのか、途方に暮れていました。
 記事を書いた時点では、「雁の繁殖行動」というイメージを、まだ私は完全にはぬぐい去れていなかったのですが、それに対して nenemu さんがコメントを下さって、「雁や鴨を身近に見ていた農村の人間ならば、五月の日本列島のさわやかな景観には、雁の繁殖行動はイメージしにくいと思います」と明快にご指摘下さり、私のもやもやも、ある面ではすっかり晴れました。

 しかしその一方で、賢治が、「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」と書いたことの意味は、ますます謎として残ってしまいます。「雁」が5月の日本に存在しない以上、これは何か別のものの隠喩なのかとも思われました。
 いろいろと考えたあげく、私は先日の記事への nenemu さんのコメントへのリコメントとして、自分なりの推測を書いてみましたが、ちゃんとまとまった形でなかったので、ここにもう一度、記事として整理してアップすることにしました。

3.関連作品

 「雁」が登場する賢治の作品で、「雲の信号」と何らかの関連がありそうなものとして、以下が挙げられます。

(1) 「ラジュウムの雁」
 これは、「初期短篇綴」として分類されている賢治のごく初期の散文作品の一つです。その草稿には、題名下方に鉛筆で「大正八年五月」と記入されていて、これが、作品のもとになる体験のあった日付であろうと推定されています。
 内容は、賢治が親友の阿部孝とともに、二人でとりとめのない会話をしながら夕暮れの散歩をしている情景のようです。その中に次のような一節があります。

ふう、すばるがずうっと西に落ちた。ラジュウムの雁。化石させられた燐光の雁。
停車場の灯が明滅する。ならんで光って寄宿舎の窓のやうだ。あすこの舎監にならうかな。

 この箇所を見ると、「ラジュウムの雁」あるいは「化石させられた燐光の雁」という言葉は、「すばる」の詩的隠喩であることがわかります。空に浮かぶその星団の形を、雁に見立てたのでしょうか。

(2) 歌稿〔A〕762

薄明穹まつたく落ちて燐光の雁もはるかの西にうつりぬ

 これは、歌稿〔A〕の「〔大正〕八年八月以降」と題された項にあり、やはり「燐光の雁」が出てきます。ここでは「すばる」とは明らかにされていませんが、「薄明穹」「はるかの西にうつりぬ」という言葉から、やはり何かの天体であることが推測されます。

(3) 「〔冬のスケッチ〕」第22葉・第23葉
 これはおおよそ1921年(大正10年)終わりから1922年(大正11年)初めのある時期に書かれたと考えられている草稿ですが、その中に次のような箇所があります。

おゝすばるすばる
ひかり出でしな
枝打たれたる黒すぎのこずえ。
      ※
せまるものは野のけはひ
すばるは白いあくびをする
塚から杉が二本立ち
ほのぼのとすばるに伸びる。
      ※
すばるの下に二本の杉がたちまして
杉の間には一つの白い塚がありました。
如是相如是性如是体と合掌して
申しましたとき
はるかの停車場の灯(あかし)の列がゆれました。

 ここでは、「すばる」が杉の木の梢の上に見えている様子が、3回にもわたって描写されています。
 さらに、上の最終行には、「はるかの停車場の灯の列がゆれました」とあって、先に挙げた短篇「ラジュウムの雁」とも、共通した表現が認められます。

(4) 「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕
 これは、「詩ノート」に分類されている口語詩で、草稿には「五、七」と日付が記入されていますが、作品番号や前後作品との関係から、1927年(昭和2年)5月7日にスケッチされたものと思われます。つまりこの作品は、「雲の信号」よりも後に書かれたものです。
 この中に、次のような一節があります。

むかしわたくしはこの学校のなかったとき
その森の下の神主の子で
大学を終へたばかりの友だちと
春のいまごろこゝをあるいて居りました
そのとき青い燐光の菓子でこしらえた雁は
西にかかって居りましたし
みちはくさぼといっしょにけむり
友だちのたばこのけむりもながれました
わたくしは遠い停車場の一れつのあかりをのぞみ
それが一つの巨きな建物のやうに見えますことから
その建物の舎監にならうと云ひました

 これは明らかに、短篇「ラジュウムの雁」と同じ体験を、後年もう一度取り上げて見たものと思われます。「神主の子」は、鼬幣神社の宮司の息子だった阿部孝に違いありませんし、「春の今頃」との表現は、「ラジュウムの雁」もこの作品も、5月の日付を持っていることで符合します。「燐光の(菓子でこしらえた)雁」、「西にかかって」、「停車場の一れつのあかり」、「舎監にならう」の言葉も、「ラジュウムの雁」と一致します。
 阿部孝との再会から8年がたった同じ5月、賢治は親友との散歩のことをふと思い出したのでしょうか。「ラジュウムの雁」でもそうですが、「寄宿舎」というモチーフには、盛岡中学の寄宿舎で生活をともにした阿部孝との交友からの連想も働いているのでしょう。さらに言えば、こちらの作品で上記の少し後には、「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたづねてまゐりました」という一節があるのですが、この部分は盛岡高等農林学校の寄宿舎で一緒だった保阪嘉内のイメージに、はるかに重なるような気もするのですが、これはまた別の話です。

4.イメージの連鎖

 上の4つの作品に登場するモチーフには、このようにいくつか共通するものがあり、それらが賢治の記憶の中で互いに連鎖しているように思われます。これを何とか表現してみようと、下のような図を描いてみました。複数回にわたって一緒に出てくるモチーフほど、太い線でつなげてあります。

「すばる」をめぐるイメージの連鎖

 賢治の具体的体験としては、「大正八年五月」と推測される阿部孝との再会と、「〔冬のスケッチ〕」に記された日時不明の出来事との、少なくとも二つが重なり合っているようですが、この二つは、「すばる」と「停車場の灯」という共通する二つのイメージによって、結びついています。

5.「雲の信号」の雁

 さて、「雲の信号」に戻ります。この作品は、上に挙げた作品群とは、雰囲気が異なっているようですが、意識して見ると、いくつか共通点もあります。
 まずその季節です。「雲の信号」も、「一九二二、五、一〇」と記されているように、五月の出来事です。
 また、「山はぼんやり/岩頸だつて岩鐘だつて・・・」と賢治が眺めている山は、「岩頸」「岩鐘」という言葉から、花巻の西方に見える奥羽山脈系の山々であると思われます。(花巻から見える山としては、東には北上山地、西には奥羽山脈に連なる山々がありますが、例えば「〔そゝり立つ江釣子森の岩頸と〕」という作品に見るように、西には昔の奥羽山脈の火山活動によってできた「岩頸」や「岩鐘」があり、東の北上山地は、長年の風化・浸食によってできた「準平原」なのです。)
 さらに、この「雲の信号」という作品は、1922年の春に、それまでの「郡立稗貫農学校」が県立に昇格して、「花巻農学校」として新築移転するにあたり、職員と生徒が一丸となって新校舎敷地の開墾・整地作業に働いた際の体験にもとづいていると言われています。この、「学校が新たにできる」という出来事は、「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」において、「むかしわたくしはこの学校のなかったとき」・・・「そしてまもなくこの学校がたち」、という状況設定にも反映している可能性があります。

 ということで、一連の作品群に登場するモチーフの中で、「雲の信号」と共通する可能性のあるものに、上の図では黄色い色を付けてみました。

 5月の晴れた日、新校舎建設準備のために皆と一緒に心地よい汗を流した賢治は、ふと手を止めて西の山並みを眺める。3年前のやはり5月に、賢治は親友と再会して、夕暮れにこの西の山並みに沈む「すばる」を見たのだった。あの頃の自分は、あてもなく「寄宿舎の舎監になろうかな」などと言ってみたりしたけれど、今は教師になって、生徒たちとともにこうやって働いている。今日整地した場所には寄宿舎も建つだろうし、今後は寮生たちの世話をすることにもなるだろう。思えば、不思議なめぐり合わせだ。
 あの頃は、「すばる」のことを「燐光の雁」などと洒落て呼んでみたりした。そう言えば少し前には、すばるが杉の木の梢に懸かっているのを見た。
 ああ、今の季節ならば、すばる星はちょうどあの「四本杉」の上あたりの西の山並みに、沈むことになるだろう。

 こんなことを思ったりして、賢治は「雲の信号」の終わりに、「山はぼんやり/きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」と書いたのではなかったでしょうか。
 つまり、ここに出てくる「雁」とは「すばる星」のことだと、私は考えてみるのです。

6.四本杉に沈むすばるをどこから見たのか

 上のように「雁=すばる」と考えてみるとして、ではどこから眺めれば、すばるが四本杉の上に沈むように見えるのでしょうか。賢治はその場所を知っていて、実際に5月にはその場所からそういう見え方をすることを、この時までに経験していたはずです。

 そこで、素人が下手にこんなことをすると加倉井さんに笑われてしまいそうですが、Stella Theater Pro というソフトを使って、1922年5月10日の花巻の夜空を調べてみました。下の図は、このソフトからキャプチャーした、同日19時20分における西北西の方向の空です。

1922年5月10日19時20分花巻から西北西を見る

 これは、プレアデス星団(=すばる)がちょうど沈もうとしているところで、縦の点線に「120°」と書いてあるのは、真南から時計回りに120°の方角です。この測り方では「すばる」は約119°の方向に、言い換えれば真西から29°ほど北西よりの方角に沈むことになります。後述する理由で、すばるの高度は2.5°の位置で調べています。

 さて、下の図は、賢治の自宅((賢)印マーカー)から、現在の花巻中学校の北にある「四本杉」跡地((杉)印マーカー)を線で結んだものです。この青い線の指す方向は、真西から22°ほど北西へ向かっています。

賢治生家から四本杉の方向

 つまり、賢治が自宅(の2階?)から四本杉の方を眺めれば、おおよそその延長線の方向に、すばるが沈んでいくのです。

 なお、賢治の自宅の場所の標高は71m、四本杉の場所は標高94mで、地図上の直線距離は1500mです。杉の高さを10mとすれば、賢治の自宅から杉の梢までの高度差は34m、仰角は、1.3°になります。一方、西の山脈でだいたいこの方向には五間ヶ森があって、その標高は568.5m、賢治宅からの直線距離は12.68kmですから、仰角は2.24°になります。
 つまり、すばるは四本杉の梢に懸かる前に、山脈の向こうに沈むことになります。上の星図で、すばるの高度2.5°の時点で方向を調べたのは、星団が山の端にかかる前の位置を見るためでした。

 ということで、「雲の信号」の最後の、「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」という一節は、この日の帰宅後の宵の口に自宅から四本杉の方を見た時の情景を想像して、賢治は書いたのではないかと、私は思うのです。

7.おわりに

 以上、四本杉におりてくる「雁」の正体について考えてみました。しかし、題名にもなっている「雲の信号」というのが、いったい何の「信号」のことなのかは、まだよくわかりません。
 これは、今後の課題ということにしたいと思います。

プレアデス星団(Wikimedia Commons より)
プレアデス星団(Wikimedia Commons より)

作者:hamagaki

更新日:2008年11月27日 23時33分

このブログのホーム

伊勢神宮から延暦寺へ

 下のような本を見かけました。

神と仏の風景「こころの道」―伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで (集英社新書 456C) (集英社新書 456C)  神と仏の風景「こころの道」―伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで (集英社新書 456C)
 廣川 勝美

 集英社 2008-08-19
 売り上げランキング : 108474
 おすすめ平均

 Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 「伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで」という副題が、1921年(大正10年)の賢治父子の旅行を連想させたので、思わず読んでみました。ここで、この本をことさら皆様にお勧めしようというわけではありませんが、これから関西地方の神社仏閣を巡ってみようという方には、これまでとはちょっと違った案内本になるかもしれません。

 ところでこの本は、ある種の「壮大な」計画と連動したもので、その計画とは、明治初頭の「神仏分離」以前にあった「神仏同座」「神仏和合」の精神を復興させ、神社と寺院の両方を包括した一大「巡礼路」を作ろうというものです。その趣旨に賛同した関西150の社寺が、今年3月に「神仏霊場会」を設立し、9月からは「神仏霊場 巡拝の道」というルートが正式に発足して、専用の「朱印帳」も作られています。
 「巡拝の道」は、まず「特別参拝」と位置づけられた伊勢神宮から出発して、和歌山県、奈良県、大阪府、京都府、滋賀県と巡り、最後を150番目の延暦寺で締める、というコースになっています。それで、この本の副題は「伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで」というわけですね。
 昔から全国の各所にある「七福神巡り」というのも、仏教系の(インド由来の)神(諸天)と日本古来の神が混在していますが、それを何十倍かの規模にしたような感じでしょうか。150の加盟寺社の内容は、こちらのページなどで紹介されています。

 賢治父子は、今回のこの巡拝路とは違って、伊勢神宮に参拝した後に、直接比叡山延暦寺に向かいました。しかし、その翌日に参拝しようとした叡福寺や、実際に参拝した法隆寺、奈良で参拝したと推測されている春日大社も、この巡拝路にはちゃんと含まれています。
 ただ、出発点となる伊勢神宮は「特別参拝」ということで、150社寺による「神仏霊場会」には加わっていないようです。やはり神道の元締めとしては、「神仏和合」などということに、諸手を挙げては賛同できないということなのかと思ったりします。

 また、150のうち仏寺は90あるのですが、その宗派の内訳は、真言宗系が34、天台宗系が29と圧倒的に多く、それ以外では南都仏教系が9、臨済宗系が7、真言律宗系が5、修験宗系が3、融通念仏宗が1、浄土宗と真言宗または天台宗の並立がそれぞれ1、となっています。臨済宗系を除くと、いわゆる鎌倉仏教系の宗派の寺院はほとんど入っていません。
 つまり残念ながら、賢治が信仰した日蓮系の寺や、父政次郎氏が信仰した浄土真宗の寺は、この巡拝路には加わっていないわけです。
 仏教も新しくなるほどに、その教義は確固としたものになり、逆に言えば「融通無碍」ではなくなるということでしょうか。親鸞は「神祇不拝」で有名ですし、日蓮に至っては、もはや仏教の他宗派とも協調する余地はありえませんでした。

 しかし、一般庶民の間ではそうでもなかったようで、親鸞も日蓮も、それぞれに「伊勢神宮に参拝して霊験を現した」という「伝説」が、近世には広く受け容れられていたようです。
 親鸞の場合は、伊勢神宮に参詣しようとする前夜の神官の夢に神宮が現れて、「明日やってくる僧を瑞垣の内に入れよ、対面せん」と告げたという話があります(『高田開山親鸞聖人正統伝』)。
 また日蓮の場合は、比叡山を下りて関東へ向かう途中、伊勢・間の山の常明寺に百日籠って「発誓弘経」したところ、百日目の暁に皇太神宝殿の扉が自ずから開き、天照大神が獅子の座から「善哉々々法華経の為によく来れり」と勅したなどの話があります(博文館『帝国文庫』所収「高僧実伝」)。

 これらはもちろん史実ではないのでしょうが、政次郎氏が愛読していたという『帝国文庫』などを通じて、父子ともに親しんでいた話だろうと思いますし、二人が伊勢神宮に参拝する時には、念頭にあったことでしょう。
 すなわち、父子が関西旅行で訪ねた(訪ねようとした)親鸞・日蓮の聖蹟は、延暦寺と叡福寺だけではなくて、伊勢神宮にもその要素は一応あった、という話です。

作者:hamagaki

更新日:2008年11月24日 22時52分

このブログのホーム

「雲の信号」と雁

 数年前から、「石碑の部屋」の「雲の信号」詩碑というページに、この作品に関する私なりの解釈を載せていました。この「信号」というのは、いったい何の「信号」なのかということについて、わからないままにあれこれ思ったことを、書いてみていたのです。
 すると最近になってひょんなことから、賢治と鳥との専門家でいらっしゃる方から、「雁は冬鳥なので、日本列島では繁殖行動は見られないのですよ」ということをご教示いただきました。
 それで、この作品についてどう考えたらよいか、ちょっと思案中なのです。

 で、まずはその作品全文をご紹介しますね。

    雲の信号

あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
  そのとき雲の信号は
  もう青白い春の
  禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
                  (一九二二、五、一〇)

 詳しくは「雲の信号」詩碑のページをご参照いただくとして、簡単に言うと私は、「春谷暁臥」(『春と修羅 第二集』)においてそうだったように、この「雲の信号」という作品においても作者は、春の鳥たちの繁殖行動のことをほのめかしているのではないか、と思っていたのです。
 しかし、先に述べたように、「雁」の繁殖行動は日本では行われないとなると、この考えは成り立たなくなります。お恥ずかしい無知な「解釈」でした。

 しかしその後、「雁」の生態についてもう少し調べてみると、この作品の日付となっている「5月10日」などという時期に、花巻近辺で雁が見られるということ自体が、ちょっとありえなさそうなのです。
 一般に言われる「雁」とは、生物学的分類では、「マガン」、「ヒシクイ」、「カリガネ」など、カモ目カモ科で「鴨」より大きな水鳥の総称なのだそうですが、「全国ガン・カモ類飛来情報」という素晴らしいデータベース的HPでは、北海道・東北地方の83ヵ所で観測された、ガン、カモの情報が集積されていて、とても参考になりました。
 このHPによれば、「花巻市の水田」において観察される雁は、

■ マガン.出現期間 2月 - 3月上旬.最大個体数 43. 1992年2月16日1,500渡来. ■ 亜種ヒシクイ.出現期間 2月 - 3月上旬.最大個体数 1,330. 積雪が少ない年は1月に渡来することがある

ということで、その渡来地の状況は、

○春, 水田の積雪が消え始めるころに最初の群れが渡来する. 比較的短期間滞在するものが多いようである. ○花巻空港周辺の水田を採食地として利用することが多い. ○朝7時45分頃に決まって同じ水田に渡来し, 夕方5時40分頃に南方面(伊豆沼?)に向かう. ○夜間の行動についてはよくわかっておらず, 塒(ねぐら)の所在地についても断片的な情報しか得られていない

とされています。花巻で雁の仲間(マガン、亜種ヒシクイ)が見られるのは、だいたい2月から3月上旬まで、ということなのですね。(「花巻市水田」参照)
 2002年の観測データを点検しても、花巻で雁が見られたのは2月27日まで(亜種ヒシクイ)であり、さらに本州で見られた最後は、青森県小川原湖湖沼群における3月25日(亜種ヒシクイ)となっています。北へ帰る途中で立ち寄る北海道では、4月下旬からまれに5月初頭に見られることもあるようですが、やはり花巻に5月10日に現れるというのは、通常の渡りのスケジュールからは、無理のようです。

 となると、作品「雲の信号」において、「今夜は雁もおりてくる」と書かれているのは、いったいどういうことを指しているのか、ということが謎になってきます。
 以前に nenemu さんは、賢治の他の作品に登場する「もず」は地元の方言による呼称であって、標準和名では「ムクドリ」のことを指していると教えて下さいましたが、ここで出てくる「雁」も、一般に言う「雁」とは別の鳥のことなのでしょうか?
 あるいは、「今夜は雁もおりてくる」というのは、賢治がふと思い描いた一種のファンタジーなのでしょうか?

 いずれにしても、5月10日の暖かい春の日を背景としてならば、現実の鳥であれ、想像上の鳥であれ、繁殖活動にいそしんでいてもよさそうな気もしますが、私にはやはり謎なのです。

雁(Wikimedia Commons より)
雁 (Wikimedia Commons より)

作者:hamagaki

更新日:2008年11月20日 23時28分

このブログのホーム

制御しないという思想

 先月に私は、「悩みの果てに「いゝこと」と感じる」という変な題名のエントリにおいて、「小岩井農場」や「薤露青」に表れた賢治の思いを、「逆説的で不思議な感情」あるいは「珍しい感じ方」と書きました。
 しかし、あらためてゆっくり考えてみると、私自身の奥底にも、この「感じ方」に何となく共鳴できる部分があるんですね。ひょっとしてこれは、さほど「逆説的」で「珍しい」感情ではなくて、どこか人間にとって普遍的な性質も帯びているのではないかとも思ったのですが、皆さんはいかがお感じでしょうか。
 とりあえず、それについて考えてみるのが今回の趣旨です。

 まず、先日の当該記事で引用した作品部分を再掲しておきます。
 一つは、『春と修羅』の「小岩井農場」「パート一」で、賢治が小岩井駅で汽車を降りた後、農場まで馬車に乗ろうかどうしようかと迷う箇所です。

これはあるひは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
(中略)
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
 (あいまいな思惟の蛍光
  きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
 (これがじつにいゝことだ
  どうしやうか考へてゐるひまに
  それが過ぎて滅くなるといふこと)

 結局、賢治があれこれ考えているうちに馬車は動き出してしまって、乗ることはできなかったのですが、賢治はここで残念がったりすることもなく、「これがじつにいゝことだ」と受け容れるのです。

 そしてもう一つは、『春と修羅 第二集』の「薤露青」です。

声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
たしかに二つも入ってゐる
(中略)
   ……あゝ いとしくおもふものが
      そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
      なんといふいゝことだらう……

 前年には、亡くなった妹を追うようにサハリンまで旅をして、妹がどこへ行ったのかを知ろうと必死になっていた賢治ですが、上の作品では、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」と述べます。

 この二つに共通しているのは、自分の「意思」がかなえられず、それを越えたところで物事が進んでいってしまう時、それを不本意とせず、「いゝこと」として肯定しているところです。
 人間というのはある種の「能動性」を持っていて、自らの意思で世界に関わり、それを操作・制御しようとする側面があるでしょう。そして、そのような活動が挫折させられた時には、多少なりともフラストレーションを感じるのが通例だと思うのですが、ここで賢治が表現しているのは、そのような系列とは、また別の感性であるようです。


 ここで、分野はまったく離れてしまいますが、立岩真也という社会学者の述べておられるところを、少し引用させていただきます。立岩真也氏は、生命倫理の領域を中心にラディカルな思索を展開しておられる方で、偶然にも私と同年生まれであるにもかかわらず、その著作はいずれも圧巻です。

 私的所有論  私的所有論
 立岩 真也

 勁草書房 1997-09
 売り上げランキング : 66077
 おすすめ平均

 Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 上の『私的所有論』という著書の中で立岩氏は、ハリスというイギリスの哲学者・倫理学者が提示した「サバイバル・ロッタリー」という思考実験を紹介しています。

 すべての人に一種の抽選番号(ロッタリー・ナンバー)を与えておく。医師が臓器移植をすれば助かる二、三人の瀕死の人をかかえているのに、適当な臓器が「自然」死によっては入手できない場合には、医師はいつでもセントラル・コンピューターに適当な臓器移植提供者の供給を依頼することができる。するとコンピューターはアト・ランダムに一人の適当な提供者のナンバーをはじき出し、選ばれた者は他の二人ないし、それ以上の者の生命を救うべく殺される。

 まるで冷え冷えとした近未来SFを思わせるような設定ですが、多くの人は、このようなやり方には強い抵抗感を覚えるでしょう。しかし、それはなぜなのでしょうか?
 「最大多数の最大幸福」を善とする「功利主義」の立場からは、1人が犠牲になっても何人かの生命が救われるならば、この方法が正当化されることになります。しかし私たちはなぜか、それを実行しません。
 かりに他の惑星の知的生命体から見ると、私たち地球人は臓器移植の技術を持っているにもかかわらず、何らかの「感情」のために上のような方法を実施しないことによって、医学的には救えるはずの生命を見殺しにしているわけです。彼らは私たちのことを、何と残酷な生命体だ、と思うかもしれません。
 しかし私たちは、彼らにどのように説明すれば、私たちの気持ちをわかってもらえるでしょう?

 Wikipedia の「臓器くじ」という項には、この「サバイバル・ロッタリー」に対して想定される様々な反論と、またそれに対する再反論が掲載されています。
 そこに書かれているもの以外では例えば、「これは神の領域を侵すことになるから認められない」という意見もあるでしょう。しかし、これまでにも「人工授精」や「遺伝子組み換え」など他の多くの技術が、最初は「神の領域の侵犯」と非難されながらも、しばらくすると普通に実施されるようになりました。「サバイバル・ロッタリー」は、これらと何が違うのでしょうか?
 また私たちは、目的は何であれ、単に「人を殺す」ということに抵抗感があるために、「サバイバル・ロッタリー」を認めたくないのかもしれません。では、どこかの映画にあったように、親が我が子に臓器提供するために「自殺」するというのならどうでしょうか。この場合も私たちの多くは、これを「美談」とは見なさずに、自殺しようとする親を止めようとすると思いますが、その理由は何なのでしょうか?

 立岩真也氏は上掲書において、「サバイバル・ロッタリー」に対する様々な「反論」を詳細に検討し、そしてこれまで一般に出されている論点だけでは、私たちが抱く抵抗感を説明しきれないことを、明らかにします。そして、次のような新たな考え方を提示します。

 私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、「他者」と言うとしよう。その他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの、私が制御しないものとして在る。私達はこのような意味での他者性を奪ってはならないと考えているのではないか。
(中略)
 もっと積極的に言えば、人は、決定しないこと、制御しないことを肯定したいのだ。人は、他者が存在することを認めたいのだと、他者をできる限り決定しない方が私にとってよいのだという感覚を持っているのだと考えたらどうか。自己が制御しないことに積極的な価値を認める、あるいは私達の価値によって測ることをしないことに積極的な価値を認める、そのような部分が私達にあると思う。自己は結局のところ自己の中でしか生きていけない。しかし、その自己がその自己であることを断念する。単に私の及ぶ範囲を断念するのではない。それは別言すれば、他者を「他者」として存在させるということである。自己によって制御不可能であるがゆえに、私達は世界、他者を享受するのではないか。また、制御可能であるとしても、制御しないことにおいて、他者は享受される存在として存在するのではないか。(p.105)

 上のような考え方は、「制御すること・できること」に価値を置いてきた、西洋を中心とした近代の思想とは、まったく別の視点を与えてくれます。「制御すること」の価値に関しては、例えば立岩氏も引用しておられるのですが、フレッチャーというアメリカの思想家・倫理学者が、次のように述べています。

 人間たるということは、我々がすべてのことをコントロールの手中に置かなければならないということを意味する。このことが、倫理用語のアルファでありオメガである。選択のないところには、倫理的行為の可能性は存在しない。我々が強いられて余儀なく行為することは、すべて非倫理的で道徳とは無関係(amoral)なことである。(「遺伝子操作の倫理学的側面」, 1971)

 むろん立岩氏は、上のように「すべてのことをコントロールの手中に」置こうとする人間の性質を、毫も否定しているわけではありません。ただ、人間の感性は、それとは逆の価値に対しても開かれているのではないか、ということを述べているのです。

 生命などというたいそうなものについてだけではない。思想・信条を取り下げさせられることや、制服を着ないことや、髭を生やすことをあきらめさせられることを認めないこともまた同じである。それらを奪おうとしないのは、髭を生やすことが何かすばらしいことだから、その人の何かもっともな理由によって選択されたことだからではなく、その人の何かの役に立つというのではないその人の生の様式が許容されるべきだと私達が考えているからではないか。
 そのような価値を私達は持っており、多分失うことはないと思う。人は、操作しない部分を残しておこうとするだろう。それは、人間に対する操作が進展していく間にも、あるいはその後にも残るだろう。それは全く素朴な理由からで、他者があることは快楽だと考えるからである。(p.115)

 立岩氏の著書では、このような視点をもとに、さらに「能力主義」や「優生学」の検討に進むのですが、その続きは、上掲書そのものを読んでいただくことにしましょう。
 それにしても、立岩氏の論を読んだ時、私は目からうろこが落ちる思いがしたものでした。思えば、人が誰かを愛するのも、相手が「私が制御できない他者」だからであり、この感情は得てして「相手を制御したい」という欲求と裏腹になりがちではあるものの、「制御できた」と感じた途端に、愛情が冷めるという人さえあるほどです。(この場合、本当は「相手を制御できる」という思い込みが間違いなのでしょうが。)
 あるいは、人から愛されることの喜びも、相手が「制御できない他者」であるからこそ、なのでしょうね。


 と、話がだんだん逸れていくので、この辺でそろそろ冒頭の賢治の話に戻らないといけませんが、上のようなことも考えてみた後でもう一度、「小岩井農場」や「薤露青」で賢治が「いゝこと」と感じた状況を見てみると、それはやはり自分が制御できない(あるいは制御しようとない)領域に、その対象があるという場面においてだったことがわかります。
 馬車に乗るか乗らないかを自分で選択できず、死んだ妹の行方を知ることができず、そのような状況は、「すべてのことをコントロールの手中に置かなければならない」と考える人にとってはフラストレーションでしかないでしょうが、賢治は、「いゝこと」と言うのです。
 これこそ、「(制御されない)他者があることを快楽だと考える」、立岩氏の論と一致した感覚ではないでしょうか。
 一見「逆説的な」「不思議な」感覚に見える賢治の反応を、このような大きな枠組みから見ることもできるのではないかと、私は思ったのでした。


 あと、蛇足かもしれませんが、もう一歩だけ進めてみます。立岩氏も、上のような考え方を「「文化」の差異や独自性にも還元する必要もない」と述べておられますが(具体的には、「西洋的」なものと「東洋的」なものの対比として論じることには問題もあると指摘しておられますが)、ここで私としてどうしても連想してしまうのは、浄土真宗の開祖・親鸞における、「自力」よりも「他力」に焦点を当てた思想です。

 念仏は、行者のために、非行非善なり。
 わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに、他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには、非行非善なりと云々。(『歎異抄』第八条)

 自分自身で何か善いことをしようとさかしらに考えるよりも、阿弥陀如来の本願にすべてを任せてしまう方がよいという考えは、法然や親鸞の当時の日本人にとっても、「逆説的」なものだったでしょう。しかし同時に、大いなる「安心」を与えてくれる教えとして、鎌倉時代の人々の間に爆発的に広まりました。
 現代においても親鸞の思想は広く受容されていますが、その要素の一つとして、これが人間の中にある「制御しない(できない)ことの快」(立岩)という感覚を、見事に射抜いてくれるということがあるからなのではないかと、私のような不信心者には思えたりもします。

 そして、賢治の場合も、そのような「快」を感じていたのかもしれません。すでに「小岩井農場」に現れていることから明らかなように、賢治が、制御・操作できないことを「いゝこと」と言明したのは、トシの死の後の苦悩よりも以前からのことでした。
 ひょっとしたらこのような彼の感覚の基盤には、幼い頃から親しんでいた浄土真宗の教えも、どこか関与しているのではないかと、私は思ったりもしてみるのです。

歎異抄(蓮如書写本)

作者:hamagaki

更新日:2008年11月16日 23時49分

このブログのホーム

にない堂父子参詣説(3)

 延暦寺根本中堂脇にある賢治歌碑の横に、1996年10月に設置された「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という説明板の内容について、前々回前回に考えてみました。そして、説明板には、賢治が延暦寺参詣で得た宗教的理念が、その後の文学創作のエネルギーになったと書かれていますが、実際には賢治はこの時に何らかの新たな「宗教的理念」を得たとは言い難いのではないか、また、西塔にある「にない堂」に父子で参詣したという記載にも、疑問があるのではないかということを書きました。

 この「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板が設置された際の記念行事については、『比叡山時報』という延暦寺の機関紙の1996年11月号に、「賢治と比叡山」と題した下のような紹介記事が載っています。

『比叡山時報』平成8年11月号「賢治と比叡山」

 ちょっと小さい字で申しわけありませんが、宮澤清六氏、潤子さん、それから「関西・賢治の会」会長の平澤農一氏も出席して、解説版の除幕式が行われたことが記されています。

 そしてその5段目には、次のような記載があります。

 比叡山へ来るまでの賢治さんは法華経一辺倒で、他宗は邪教だと考えていたようでした。ところが、比叡山の伝教大師に直接ふれたとき、み仏の願い、大師の本懐は、自らが菩薩の働きをさせていただくことだと悟ったのだということです。

 ここにも、延暦寺参詣が賢治に大きな宗教的影響を与えた、という(延暦寺側の)解釈が述べられていますが、説明板においてはまだ「推測」という形をとっていたのが、さらに一歩進んで、「悟ったのだということです」という「事実の伝聞」の形で書かれています。
 現実には、「比叡山に来るまで」だけでなく、「下りた後」の賢治も「法華経一辺倒」で、例えば1921年7月に保阪嘉内と訣別せざるをえなかったのも、賢治の強引な折伏のためだったわけですし、同年7月13日付けと推定されている関徳弥あて書簡[195]にも、「おゝ。妙法蓮華経のあるが如くに総てをあらしめよ。」という言葉があります。また、「み仏の願い、大師の本懐は、自らが菩薩の働きをさせていただくことだ」という認識は、彼が法華経と出会って、すでに比叡山に来る前から自覚していたことだろうと、私は思います。
 「他宗は邪教だ」という考え方は、たしかに後年の賢治にはだんだん薄れていったように思われます。「銀河鉄道の夜」初期形にも、「けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。」との言葉が出てきます。しかし、そのような賢治の変化も、あくまで「徐々に」であって、延暦寺参詣が転機となって、というものではないのではないかと、私には思われます。

 次に、「にない堂参詣説」について。上の記事においても、最下段に次のような記載があります。

当日、関西賢治の会の会長平澤農一氏の依頼で、私は比叡山の「朝題目、夕念仏」について一時間ほどお話しをしましたが、宮沢賢治父子が比叡山を参拝した中で、大講堂に祀られている各宗派の祖師を拝み、更に西塔のにない堂で常念仏の修行をする常行三昧堂にも立ち寄っただろうということ。(中略)などを話させていただきました。

 当日に除幕された説明板との関係からして当然でしょうが、やはり父子が「にない堂」にも立ち寄っただろうということが、述べられています。ここで、「常行三昧堂(常行堂)」というお堂は修行僧だけが入れる場所で、一般人は中を見ることもできませんから、「常行三昧堂に立ち寄った」と言っても賢治たちは外から拝むことしかできず、これは「にない堂に参詣した」という表現を越える何らかの行動を意味しているわけではありえません。
 それを念頭に上の記事を見ると、説明板の記述では、「新事実」と断定していた事柄を、ここでは「常行三昧堂にも立ち寄っただろう」と、推測の形で記しているのが、私としてはちょっと気になります。前回、小倉豊文氏が平澤農一氏に送った書簡の内容について、にない堂参詣を「事実として」記してあったのではなくて、「推測や考察として」書いてあっただけだったのではないかという仮説について述べたのは、こういうことにも由来しています。

 以上、くどくどと考えてみましたが、あとこれ以上真相に迫ろうと思えば、故・平澤農一氏のご遺族に依頼して、もし小倉豊文氏から送られたという書簡が残されていたら、それを見せていただく、というようなことしかないかとも思います。しかし今のところ、私などにそんなことが可能とも思えませんし、せめて今後の課題として、心の底には留めておこうと思います。


 さて最後に、賢治父子の比叡山越えの時間的な側面を、見ておきます。

延暦寺案内図
「延暦寺三塔巡拝マップ」(比叡山延暦寺)より一部分を拡大

 上の図で、青の四角で囲んであるのが、一応定説として賢治父子が訪れたとされている、「根本中堂」、「大講堂」、「大乗院」です。右上の方に緑の四角で囲んであるのが、問題の「にない堂(常行堂・法華堂)」です。右下に記した「登山路」は、いわゆる「本坂」のルートを表し、左の「下山路」は、無動寺から京都の白川の方へ向かう道です。

 まず、『【新】校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇に収録されている当時の時刻表によれば、当日の朝に父子は二見浦駅を7時13分発の列車に乗り、亀山で関西本線に乗り換えて、柘植駅に着いたのが11時20分、さらに草津線に乗って大津駅で下車したのが13時08分ということです。湖南汽船の石場港から13時40分発の船に乗り、坂本港に着いたのは、14時30分と推定されています。
 ここから、徒歩で比叡山越えにかかるわけですが、以後は山道に関しては「山と高原地図」(昭文社)の「京都北山」図に記載されている、一般的な登下山所要時間を採用し、市街などの平坦地においては時速4kmという設定で計算してみました。
 「にない堂」には行かなかったとすれば、所要時間は下のようになります。

・坂本港
        >40分
・比叡登山口
        >1時間30分
・根本中堂
        >40分
・無動寺
        >大乗院往復20分
・無動寺
        >1時間15分 
・地蔵谷
        >30分
・仕伏町
        >40分
・出町
        >15分(市電)
・三条小橋

 これは、けっこう短めに見積もった時間で、なおかつ延暦寺諸堂での拝観に要した時間や、休憩時間は、含めていません。それでも、上記の時間を合計すると、5時間50分になります。
 すなわち、14時30分に坂本港を出たとすれば、三条小橋の旅館に着くのは、どんなに早くても20時20分ということになります。拝観に要した時間や、慣れない道だったことを考えると、少なくとも午後9時を過ぎていたと考えてよいのではないかと思います。

 そして、根本中堂や大講堂のある「東塔」から、にない堂のある「西塔」までは、徒歩で約30分かかります。すなわち、賢治父子がにない堂に参拝したとすれば、しなかった場合に比べて、往復で1時間余分にかかってしまうことになるのです。となると、旅館に着くのは午後10時以降ということですね。
 だからといって「にない堂に行かなかった」とは言えませんが、このような時間的な大変さも、考慮すべき一つの要素ではあるでしょう。

 それからもしも現在だったら、延暦寺の拝観時間は8時30分から16時30分までとされており、この日の賢治父子の行程に従えば、根本中堂に着く直前に時間切れとなってしまうところなんですね(笑)。

作者:hamagaki

更新日:2008年11月9日 19時20分

このブログのホーム

にない堂父子参詣説(2)

延暦寺西塔・にない堂(常行堂と法華堂)

 上の写真は、延暦寺の西塔地区にある通称「にない堂」です。正式には左側が「常行堂」、右側が法華堂で、二つの堂が渡り廊下で連結された対称形になっています。この廊下を「天秤棒」に見立てて、怪力の弁慶ならば肩にかけて「担う」ことができるだろうということから、「にない堂」と呼ばれているわけです。
 延暦寺パンフレットによれば、このにない堂の形は、「法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表し、法華堂では法華三昧の、常行堂では常行三昧の修行が行われる」のだそうです。

 さて、前回は本題に入れずに終わってしまいましたが、そもそも私が考えてみたかったのは、延暦寺にある「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という銘板に記されているように、賢治父子が1921年(大正10年)の旅行において、この「にない堂」にも参詣したのかどうか、ということでした。
 ここでもう一度、銘板のその部分を引用します。

一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。

 父子が「にない堂」に参詣したなどということは、上記のように賢治の短歌にも詠まれておらず、またこの旅行に関する重要資料である佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史各氏の文献にも記されておらず(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)、その結果、『【新】校本全集』年譜篇にも、書かれていません。
 これまでは賢治の短歌の内容から、延暦寺において二人が「根本中堂」と「大講堂」を訪れたことは確実と考えられ、また小倉豊文氏の記述から、「大乗院」にも行ったこともかなり有力視されていました。しかし、「にない堂」に行ったという記載は従来はどこにも見出されておらず、これが本当なら、まさに画期的な「新事実」です。

 それで、この「にない堂父子参詣説」について、ここで検討してみようと思うのですが、まずはこの銘板の記載と、従来の他の資料とを比較してみる必要があるでしょう。とりわけ、この「新事実」は、父政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたとされていますから、その小倉氏が残している他の文献と、照らし合わせてみなければなりません。

 ということで、下のような簡単な年表を作ってみました。

 1951年 2月 小倉豊文「旅に於ける賢治」発表(『四次元』第3巻第2号)
 1957年 3月 宮沢政次郎氏 死去
 1957年12月 小倉豊文「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」発表(『比叡山』復刊31号)
 1978年 8月 小倉豊文「『雨ニモマケズ手帳』新考」刊行
 1996年 6月 小倉豊文氏 死去
 1996年10月 「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板設置
 2004年 3月 平澤農一氏 死去

 さて、「にない堂父子参詣説」が、いつ、政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたのかということがまず問題ですが、「銘板」には、「戦後、後日談として」と書いてあるだけで、それ以上具体的なことは不明です。
 ただし、ここで少なくとも言えるのは、政次郎氏から小倉氏に伝えられたのは、1957年3月の政次郎氏の死去よりは前だったはずだということです。これは全く当たり前のことですが、後述するように重要なポイントとなります。

 まず、小倉氏が1951年に発表した「旅に於ける賢治」は、実際には1949年7月に書かれ、1950年11月に校訂されたことが末尾に記されていますが、いずれにしてもこれは政次郎氏の存命中に書かれたものです。この論文中には、「賢治父子がにない堂に参詣した」ということは書かれていないのですが、その執筆時点で小倉氏がこの「新事実」をまだ政次郎氏から聴いていなかったと考えれば、一応の説明はつきます。
 しかし、天台宗宗務局が発行している機関誌『比叡山』の1957年12月号(1957年12月2日発行)に小倉氏が書いた、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」と題された文章に関しては、事情が異なります。この一文は、例の賢治の「根本中堂」歌碑が1957年9月21日に延暦寺で除幕されたことを受けて掲載されたもので、小倉氏がこれを書いたのが、1957年3月1日の宮澤政次郎氏の死去よりも後であったのは、ほぼ確実と言ってよいと考えられます。
 つまり、小倉氏がこの文章を書いてから、さらにその後に政次郎氏から何かの「新事実」を伝えられるということはありえないわけで、この文章は、政次郎氏から小倉豊文氏への「最終情報」に基づいていることになります。

 そこで、そのような位置づけにある「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を読んでみると、次のような一節が目に入ります。

そして、父子同行二人の巡礼は講堂から戒坦院に及ばず、西塔や横川、四明嶽にも至らずして下山を急ぎ、大乗院や無動寺なども、そそくさと堂前を通りすぎたのみで七曲りから白川越にかかり、全く文字通りの「暗夜行路」で京都の街に入り、当時政次郎氏が愛讀していた「中外日報社」に立ち寄って、聖徳太子磯長の墓への道案内を受け、紹介されて近所の宿屋に勞れきった身をあずけたのであった。(強調は引用者)

 すなわち、小倉豊文氏は、政次郎氏の没後に書いた文章においても、賢治父子は(にない堂のある)「西塔」地区へは行かずに下山したと記しているのです。

 したがって、この「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」という史料と、「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板という史料の間には、矛盾があることになります。どちらが正しくてどちらが間違っているかをここで簡単に決めることはできません。例えば、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた頃の小倉豊文氏は、政次郎氏から生前に聴いていた話をなぜか一時的に忘却していて、しかしその後また思い出して、平澤農一氏に書き送ったという可能性も、絶対にないとは言えません。
 しかし、「史料批判」的に客観的に考えるとすると、「出来事」からの経過時間が短いうちに書かれた史料の方が信頼性が高く、また情報源に近い人物が書いた史料の方が信頼性が高いと、まずは考えてみるのが通例です。この場合、1957年に書かれた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、1996年に書かれた「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板よりも、また、政次郎氏から直接聴いた小倉氏自身が書いた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、政次郎氏→小倉氏→平澤氏→銘板の筆者、と多段階の情報伝達を経た銘板の内容よりも、信頼性が高いだろうと考えるのが、一般論としては合理的なわけです。
 もちろんこれは、現在明らかになっている資料から、どちらの蓋然性が高いかを言っているだけであって、確定的なものではありません。しかし、史料の真偽の考証においては、「満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか」(Wikipedia)ということも、重要視される要素です。私としては、政次郎氏の没後約40年も経た1996年になって、初めて世に出て来た「新事実」というところに、どうしても不自然さを感じてしまいます。

 ただ、詳しくは次回に述べる予定ですが、1996年10月に行われたこの銘板の「除幕式」には、平澤農一氏も出席しておられたことが、1996年11月発行の『比叡山時報』に記されています。そうすると平澤氏は、「このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって・・・」という銘板の文章も読んでおられたはずで、その内容に何らかの異議を唱えたという話も伝わっていませんから、やはり平澤氏が小倉氏から何かこのような書簡を受けとっていたのは、事実だった可能性が高い気もします。
 となると、小倉→平澤書簡があったことを前提とした上で、考えられる可能性は、

  1. 前述のように、小倉氏は生前の政次郎氏から「にない堂にも行った」という話を聞いていたが、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた時にはその話を忘却して、「西塔には行っていない」と誤って執筆し、後になってまた政次郎氏の話を思い出して、平澤氏に書き送った
  2. 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いていなかったが、年月が経つうちに記憶があやふやになり、「にない堂に行った」と聞いたことがあるような気がしてきて、平澤氏にそう書き送った
  3. 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いておらず、その記憶にも変化はなかったが、「もし行っていたら賢治の反応が興味深い」とか、「行っていた可能性も否定はできない」など、小倉氏による考察や推測を平澤氏に書き送ったところ、それが平澤氏から銘板執筆者に伝わる過程で、または銘板執筆者によるバイアスもかかって、「父子がにない堂に参詣した」という話に変化した

というようなところになるでしょうか。なんか、どれを見ても無理矢理っぽいこじつけのような感じがする仮説ばかりですが、皆様なら、どれを選ばれるでしょう。

 私自身は、この3つの中ならば、3. を採ろうかと思います。すなわち、父子はやはり「にない堂」には参詣しておらず、銘板に書かれた「参詣説」は、最近になって生まれた一つの「伝説」なのではないかと、考えるのです。
 確かに、賢治の信じる「法華」と、父の信じる「念仏」が、一体となって繋がっている「にない堂」の構造を思えば、対立していた父子がともに参詣する場所として、これほどうってつけのスポットはありません。
 そしてその構造こそが、延暦寺の思想の象徴だというのです。前回に見たように、「賢治が延暦寺参詣によって新たな宗教的理念を得た」と考えたいという立場があるとすれば、そこに、「にない堂父子参詣伝説」が生まれる土壌は、十分にあるのではないかと、私は思うのです。

[この項つづく]

作者:hamagaki

更新日:2008年11月6日 23時20分

このブログのホーム

にない堂父子参詣説(1)

 比叡山根本中堂の横にある、あの見事な賢治の歌碑「ねがはくは/妙法如來/正遍知・・・」の脇に、賢治父子の延暦寺参詣75周年を記念して、1996年10月に「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」と題した銘板が設置されました。
 歌碑との位置関係は、下のような感じです。

「根本中堂」歌碑と「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板

 左下にある金属製のプレートが「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板、石段を上って奥にあるのが、「根本中堂」歌碑です。ちなみにこれは今年の4月下旬の写真で、しだれ桜がまだ花をつけていました。

 まず、この「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板に刻まれている文章を、ここに引用して掲載させていただきます。

              宮澤賢治父子延暦寺参詣由来
               (参詣七十五周年記念銘板)

 賢治が父の勧めで島地大等著「漢和対照妙法蓮華経」を読み、同経の中の「妙法寿量品」第十六に感動したのは大正三年十八歳。生家の宗教浄土真宗を捨てて、法華経行者として生きていくことを父政次郎に告げたのは大正七年二月。盛岡高等農林研究科二年終了を機に、大正九年五月日蓮主義国柱会に入会。居室の二階には日蓮上人大曼陀羅、一階には阿弥陀仏を祀る二仏併祭の家となった。賢治の日蓮上人帰依は同年十二月。賢治はお題目を、父は代々の念仏を譲らず、家の中の母子はオロオロするばかり。学友等に対する熱心な折伏も成功せず、父に対するお題目の勧めも容れられず、苦しんだ賢治は自己信仰を強めるため花巻の町を太鼓を打ち鳴らしながら「お題目」を門づけして父や親戚を悩ませた。
 賢治は父の念仏信仰の固い事に業を煮やして、大正十年一月二十三日に無断家出、上京、国柱会日蓮思想普及宣伝に奉仕。東大学生のノートの筆稿(ママ)で生計をたて、低カロリーの食事。自己信仰活動の効果も不毛に近かった。
 父は賢治の将来を心配して花巻から上京。下宿先のウナギの寝床の部屋や質素な生活を目のあたりに見て熟慮の末の提案は、「お前の好きな伝教大師などへ父子で参詣する関西旅行の勧め」であった。賢治も特に反論もなく大正十年四月の初め某日六日間の関西旅行に旅立った。先ず伊勢神宮を参拝。一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。
 この日賢治の延暦寺参詣で得たものは大講堂では「・・きみがみ前のいのりをしらせ」。賢治の認識では伝教大師に問うたいのりは最澄十九歳で入山のときの「願文」であった。同、第五の「回施して悉く皆無上菩提を得せしめん」であったことを賢治は認識体認していたと推定される。又、「根本中堂」のうたは、妙法如来(御本尊薬師如来)を通じての祈願文であった。「・・大師のみ旨成らしめたまへ」のみ旨は、大講堂で伝教大師に対するいのりを確かめたところ、皆に無上得せしめることであったので、賢治は「大師の教えにみそなわして下さい」と歌いあげたものと思われる。
 にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「・・悉く皆の無上菩提・・」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の制作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。
 天才賢治を包容力をもって育成したのは父政次郎であり慈母イチの養育にあった。家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏み込ませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった事を江湖の方々に末長く伝えるため、賢治生誕百年を記念して、この銘板を建立するものである。
   平成八年十月十三日
                    宮澤賢治生誕百年関西記念事業委員会
                         賢治実弟     宮澤清六 撰文
                         延暦寺執行    小林隆彰 謹識

 長い引用になってしまって申しわけありません。この銘板そのものの写真は、下をクリックしていただければ、直接文字が読めるほどの大きな画像で見ることができます。

宮澤賢治父子延暦寺参詣由来(参詣七十五周年記念銘板)

 で、今回は、この銘板に記されている内容について考えてみたいのですが、まず最初に気になるのは、銘板の最後に「宮澤清六 撰文/小林隆彰 謹識」と書いてあるのは、具体的にはどういうことなのか・・・言いかえれば、上の文章を実際に書いたのは誰なのか、ということです。
 「撰文」というのは、普通は「文章を作ること」という意味でしょうが、上の文章の内容からすると、これは清六氏が直接書いたのではなくて、延暦寺に属する方が書いたのだろうと、私には思われます。というのは、後半部分で、延暦寺父子参詣が賢治に与えたプラスの影響、また伝教大師が賢治に与えた影響の大きさが、特に強調して書かれているからです。
 つまり、上の文章は、宮澤清六氏も内容的には了承をした上で、実際には当時の延暦寺執行・小林隆彰師が書かれたものだろうと、私としては推測します。


 次に文章の内容について、考えてみたいことはいくつかありますが、まず上にも触れた、「参拝が賢治に与えた影響」に関して。
 例えば、

にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「・・悉く皆の無上菩提・・」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の制作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。

という箇所や、

家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏み込ませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった

という箇所にあるように、賢治がこの「延暦寺参詣で得た宗教的理念」が、その後の文学の根本になったと言えるほど、この時に彼は何かを「得た」のか、という問題です。
 その本当のところは、賢治自身に聴いてみなければわからないことなのでしょうが、少なくともこの時に賢治が詠んだ短歌を見るかぎりでは、「新たなものを得た」というような感興は、まったく見受けられないのです。

776 いつくしき五色の幡はかけたれどみこころいかにとざしたまはん。
777 いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき。

 これらの歌について、小倉豊文氏は「旅に於ける賢治」において、

形式的な遠忌の盛大やその荘厳の華麗は、法そのものゝ興隆と何のかゝわりがあろう。事実は却つて逆であつて、「妙法如来正遍知」の教えは地に堕ち、「大師のみ旨」は地を払つてしまつてゐる仏教界の堕落、天台法華宗の衰微は「いつくしき五色の幡」が美しければ美しい程「ことにわびしき」ものであり、「みこころいかにとざしたまはん」と歌はずにはゐられなかつたのであろう。

と、天台宗にとってはかなり厳しい筆致で、評しています。賢治は、当時の叡山の状況を批判的にとらえ、嘆かわしい思いを抱いていたというのです。
 また、佐藤隆房氏も『宮沢賢治』において、

根本中堂に参じ大講堂を拝しました。信仰に燃える賢治さんは、参詣人もなく、研学の僧もいない、静かな大講堂を見て内心甚だしく憤懣の思いでした。

と書き、さらに堀尾青史氏も『年譜 宮澤賢治伝』の中で、

それより進んで大講堂へ。開祖伝教大師大遠忌の五色の幡が堂を飾っている。おごそかであり、美しくはあるが賢治には空しく見える。

と書き、いずれも賢治が当時の延暦寺や天台宗を、否定的に見ていたとの認識を示しています。
 開祖である伝教大師その人に対しては深い尊敬の念を歌にしながらも、一方で、自分の目の前にある叡山の現状には否定的であったというわけですが、このような賢治の考えは、延暦寺に参詣してその場で感じたというよりも、彼はもともと以前から、「日蓮の立場から見た天台宗」という一つの見方を、イメージとして強く持っていたところから来ているのだろうと思います。
 ここで「日蓮の立場から見た天台宗」とは、簡単に言えば、法華経を最高の経典として宣揚した伝教大師最澄は素晴らしかったが、彼以後の天台宗は密教や念仏も取り入れて、堕落してしまったという見方です。
 例えば日蓮御書の「三大秘法禀承事」に、

叡山に座主始まつて第三第四の慈覚智証存の外に本師伝教義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし

とあります。「理同事勝」とは、「法華経」よりも「大日経」の方が勝れているとした第三代天台座主・慈覚大師円仁の説で、このようなことから日蓮は、その後の天台宗は法華を誹謗していると断じました(「早勝問答」)。日蓮に傾倒していた賢治も、このような彼の考えを信じ込んでいたはずで、短歌中の「(伝教大師の)みこころいかにとざしたまはん」とか、「大講堂ぞことにわびしき」という言葉も、こういうところから来ているのだと思います。

 すなわち、賢治はせっかく父と延暦寺に参詣に来たのでしたが、ここで何かを新たに感得したわけではなく、それまで心酔しつつ読んでいた日蓮御書で示されている「型」にあてはめて、延暦寺を見たにすぎなかったのではないかと、私は思うのです。

 賢治がこの時、日蓮の解釈に従って延暦寺を眺めていた様子は、さらに次の二首の短歌にも表れていると思います。

781 みづうみのひかりはるかにすなつちを掻きたまひけんその日遠しも。
782 われもまた大講堂に鐘つくなりその像法の日は去りしぞと。

 781の「すなつちを掻きたまひけん」とは、若き日の伝教大師が根本中堂を建てるために、叡山の地ならしをしたことを指しています。賢治から見ると、「その日」は時間的に遠くなってしまったばかりでなく、開山における最澄の「み旨」の思想からも、(その後の延暦寺は)遠く隔たってしまったという嘆きを詠んでいます。
 782における「その像法の日」という言葉は、781の「すなつちを掻きたまひけんその日」を受けており、最澄が根本中堂を開いた時は、まだ「像法」の時代であったことを踏まえています。ここでことさら「像法」という仏教的時代区分を持ち出す理由は、その後に来る「末法」時代と対比するためと思われます。最澄の「末法燈明記」によれば1052年をもって世は「末法」に入り、日蓮が登場するのも、賢治の参詣も、この末法の時代のことなのです。
 日蓮御書の「観心本尊得意抄」に、

設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや。

とあるように、像法の時代の伝教大師の「法」は、その当時は有意義なものであったが、末法の時代には「去年の暦」のように役に立たなくなっているというのが、日蓮の考えでした。だから末法にあっては、ひたすら法華経に帰依して、「南無妙法蓮華経」と唱えることによってのみ、仏の功徳を受けることができると、日蓮は主張したのです。
 賢治が、自ら鐘をつくことによって、「その像法の日は去りしぞ」と告げ知らせたかった相手とは、実は比叡山全山の天台僧たちだったと言えるのではないでしょうか。
 したがって782の短歌を、私の解釈もこめて意訳すると、次にようになります。
 「私もまた大講堂に鐘をつく。叡山の人々よ目を覚ませ!大師がこの山を開いた像法の日はすでに去り、今やこの末法にあっては、昔の教えに依っていても衆生済度は果たせないのだ。どうかこのことに、皆々も気づきたまえ!」。


 さて、思わず長くなってしまいましたが、まずここで私が言いたかったのは、延暦寺に参詣した賢治の思いは、延暦寺に立てられている前述の「銘板」に記されているような綺麗事ではなくて、もっと苦いものだっただろう、ということです。
 しかし、ここまでは一種の前置きで、私が本来考えてみたかったのは、「銘板」の中に記されている、「父子が延暦寺のにない堂にも参詣した」という「新事実」についてでした。

 ただ、すでにあまりにも長くなってしまいましたので、申しわけありませんが本題に入るのは、次回とさせていただきます。
 

作者:hamagaki

更新日:2008年11月3日 18時14分

このブログのホーム

カテゴリー増設

 このブログ記事は、右の欄の「ブログ記事分類」という所に並んでいるような「カテゴリー」に分類してあるのですが、今日はそのカテゴリー構成を見直して、「伝記的事項」という項目と、「イーハトーブ・グルメ」という項目を、新たに作成してみました。

 前者は、賢治の生涯における行動や出来事を扱った記事を集めたもので、最近は何となくこのような内容のものが増えてきた関係上、項目を新設することにしました。本当は、「宮澤賢治の詩の世界」というタイトルで出発した初心からすると、細かい伝記的事項を詮索するよりも、私自身は作品そのものを素直に味わったり楽しんだりしようとしたはずなのですが、なぜか不本意ながら、近頃こういったことに足をとられています。
 後者は、賢治とは直接関係のない私の個人的な嗜好です。ただ、このようなカテゴリーを作るつもりでこれまでの記事を書いていなかったので、食べ物の写真などあまり撮っておらず、カテゴリーに属する記事数はまだごく少数です。それにこうやって集めてみると、「B級グルメ」的なのが多いですね。でもこれから、だんだん増やしていきたいと思っています。

作者:hamagaki

更新日:2008年10月30日 23時44分

このブログのホーム

妙円寺の石碑アップ

 先月、花巻の妙円寺で拝見してきた「農民芸術概論綱要」碑のページを作成して、「石碑の部屋」にアップしました。下の写真は、碑の後ろに立てられている説明板です。
 「花巻・賢治詩碑マップ」も、この石碑を加えて改訂しました。

碑の説明板

 「求道すでに道である」とは、ご存じのように「農民芸術概論綱要」の「序論……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……」の最終行、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」から採られていますが、この行の前半部は、胡四王山の登り口の碑に、行全体は、北上市の北上翔南高校にある碑に刻まれています。

作者:hamagaki

更新日:2008年10月26日 23時0分

このブログのホーム

運命の柏原駅

 1921年(大正10年)の賢治と父政次郎氏の関西旅行において、不思議なことの一つは、聖徳太子廟のある叡福寺に参詣するためにわざわざ大阪まで行きながら、なぜか同寺への参詣は中止して、法隆寺へ向かったことです。
 この頃、叡福寺では「聖徳太子千三百年遠忌」が執り行われており、やはり「伝教大師千百年遠忌」が行われていた比叡山延暦寺と並んで、そもそもこの旅行の二本柱とも言うべき目的地のはずでした。そして父子は、当日朝に叡福寺への行き方を尋ねるために、京都で中外日報社を訪れるという手間までかけたのに、どうして近くまで行ってから、参詣をやめてしまったのでしょうか。

 この謎を考えるためにいくつかの資料を見てみたいのですが、まずその前提として、ここで叡福寺へのアクセスを、整理しておきます。
 京都から、当時の大阪府南河内郡磯長村にあった叡福寺に行くには、まず京都駅から国鉄東海道本線に乗って大阪駅へ行き、ここから城東線(現在の大阪環状線の東半分)に乗り換えて湊町駅(現在のJR難波駅)または天王寺駅へ行き、さらにここで関西本線に乗り換えて、柏原駅で下車します。柏原駅からは、当時の大阪鉄道(現在の近鉄道明寺線)に乗り、さらに道明寺駅で乗り換えて(現在の近鉄長野線)、太子口喜志駅で下車、ここから徒歩約3.5kmで、叡福寺に到着します。

 父子関西旅行に関しては、当事者が直に書き残したものとしては賢治の短歌しかなく、後年の間接的な「二次史料」として、佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の各氏が政次郎氏から聞き書きした文章があります(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)。
 ここで、叡福寺参詣を中止した経緯について、三氏の記述を順に検討してみます。

 まず佐藤隆房氏は『宮沢賢治』(1942)において、次のように書いています。

 次の日の朝も早く宿を立ち、三十三間堂の近くにあった中外日報社を訪ねて行きました。それは聖徳太子の磯長の廟に行く道順をたずねるためでした。高野に行く線に乗ればよいと教えてもらったのですが、結局分かりにくい所なので方針を変え、奈良線に乗って奈良に向かいました。まず法隆寺駅に降り、寺に着いたのは午後二時頃でした。

 上の記述でまず誤りと思われるのは、「奈良線に乗って奈良に向かいました」という箇所です。奈良線というのは、京都から木津までの国鉄線ですが、実質的にはさらに木津から奈良まで関西本線に接続して、奈良までは一本の列車で運行します。つまり、「奈良線に乗って奈良に向かいました」ということならば、大阪は通らずに、京都から直接奈良に行ったことになってしまうのです。これは、大阪を経由したとする小倉豊文氏や堀尾青史氏の記述と、食い違ってしまいます。
 叡福寺(磯長の廟)に行くことを取りやめた経緯については、「教えてもらったのですが、結局分かりにくい所なので方針を変え」と書いてあります。「分かりにくい所」であるのはそのとおりですが、ここでは「方針を変え」たのが、どの時点であったのかということが問題です。「奈良線に乗って」という部分も含めて上記の記述をそのまま受けとれば、父子は京都にいる間に方針を変えて、直接奈良に向かったということになるでしょう。
 これは、理屈としてはありえることですが、上述のように小倉・堀尾氏の記述、そして現在『新校本全集』年譜篇にも採用されて現在の定説に近い扱いを受けている「大阪経由説」と相違してしまいますので、この佐藤氏の記述は、認めにくいと言わざるをえません。

 次に小倉豊文氏の記述ですが、「旅に於ける賢治」(1951)には、次のように書かれています。

 大阪市も全く素通りで、梅田の大阪駅から関西線始発駅の湊町へいそいだ。ところが当時磯長に行くのには関西線柏原駅に下車して大阪鉄道に乗り換え、更にもう一度道明寺で乗り換えて太子口喜志に下車、それから約一里を徒歩しなければならない。慣れぬ旅人には相当面倒である。そこで二人は柏原途中下車を中止してそのまま法隆寺駅まで乗つてしまつた。そしてそこで下車して法隆寺に参詣することにしたのである。「同じ太子の遺蹟であれば…」との下心であつたらしい。

 この記述から感じられる疑問としては、大阪で4回もの乗り換えがあり、確かに「慣れぬ旅人には相当面倒」なのは事実ですが、それは京都の中外日報社で行き方を聞いた時からわかっていたことのはず、それを承知の上で大阪まで来ておいて、せっかく近くまで来てからなぜ急に、「柏原途中下車を中止」という判断を下したのか、ということです。
 しかしこの疑問は、やはり小倉豊文氏の「『雨ニモマケズ手帳』新考」(1978)を読むと、私としては氷解しました。

 最後に前述の京都から法隆寺へ行くのに大阪を廻った異様な行程について記しておく。この旅行の父の計画については前述したが、聖徳太子の聖蹟では先ず河内の叡福寺の墓参りを予定していた。そこで京都に着くと年来愛読していた「中外日報」社に立寄って道筋を教わり、大阪に出て関西線に乗り、柏原駅で大阪鉄道河内長野行の電車に乗換え、太子口喜志駅に下車して徒歩参詣する心算だったのである。ところが柏原駅を乗り過してしまった。そこで叡福寺を法隆寺に振りかえたのだとのこと。「帝国文庫」と共に政次郎から聴いた思い出の笑話の一つである。

 すなわち、意図的に叡福寺参詣を中止したのではなくて、図らずも「柏原駅を乗り過して しまった」というのです。そうだったのなら、近くまで来てから急に方針が変わったのも納得がいきます。父子は前日に比叡山越えを敢行して、かなり疲れていたでしょうし、この日も朝から出かけていますから、車中で二人ともちょっと居眠りしてしまったとしても、不思議はありません。

 最後に、堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』の記述を見ておきます。

第四日、父愛読の中外日報社へいき磯長村叡福寺への交通をきき、大阪へ出て汽車に乗ったが教え方がまずかったか、線がちがうのであきらめて奈良へ出、興福寺門前の宿に泊る。

 ここでは、叡福寺参詣中止の理由を、「線がちがうのであきらめて」と書いてあります。この時父子は、間違った路線に乗ってしまったのでしょうか。
 しかし、大阪から法隆寺を経て奈良へ向かうのは「関西本線」であり、その途中に、叡福寺への乗り換えの柏原駅はあるのです。二人が現実に法隆寺や奈良に着いている以上、関西本線に乗ったのは確かですし、それならば柏原駅も通るはずなのです。
 それでもこれを前提に堀尾氏の記述を強いて解釈すれば、例えば関西本線に乗る前に、どこかの乗換駅で間違えて別の線に乗ってしまって引き返し、それで余分な時間を費やしてしまったので、叡福寺参詣をあきらめた、などということならば理解できなくはありません。しかしそのような場合には、「線がちがうのであきらめて」とは表現せずに、「線をまちがえて遅くなったのであきらめて」などと書くのが自然でしょう。
 少なくとも二人が乗った、法隆寺や奈良に至る線は、「線がちがう」わけではなかったのです。

 以上、叡福寺参詣中止をめぐる三氏の記述はそれぞれに違っていて、錯綜しています。しかし、私としては上記のように、小倉豊文氏が「『雨ニモマケズ手帳』新考」に書いている、「(関西本線で)柏原駅を乗り過ごしてしまったから」というのが、最も納得のいく説明なのです。


 さてここで二人が乗り過ごしたらしい関西本線柏原駅とは、実は賢治が5年前にはちゃんと下車して、農商務省農事試験場畿内支場に向かった駅でした。すなわち1916年(大正5年)3月25日、盛岡高等農林学校修学旅行に参加していた賢治は、午前10時6分の奈良駅発関西本線下り五一列車に乗り、10時47分に柏原駅で下車したのです。
 下の図は、柏原駅と畿内支場の敷地です。(『農商務省農事試験場畿内支場一覧』(1903)より:赤字部分は引用者追加)

畿内支場と柏原駅

 賢治たちは柏原駅で下車し、すぐ北西の畿内支場に行き、イネの人工交配による品種改良について、場長から詳しい講義を受けています。当時、この畿内支場は西ヶ原の農事試験場本場にもなかったような大規模なガラス温室設備を有し、これを用いてイネの人工交配研究においては世界の最先端の業績を上げていました。
 そしてその中心を担っていた加藤茂苞は、賢治がここを見学した1916年に、山形にある陸羽支場の場長へと転任し、そこで1921年(大正10年)に、あの「陸羽132号」が誕生するのです。
 後年に、賢治が農業指導者として「陸羽132号」を強く推奨するようになった背景には、学生時代にここ柏原村で聴いた、イネの品種改良の有効性に関する講義の影響も、きっと潜在していたのではないでしょうか。その意味では、この柏原の地は、賢治にとって重要な場所の一つと言ってもよいのではないかと思うのです。


 最後に下の写真は、現在の柏原駅です。線路の左奥が、畿内支場の建物施設があったあたりで、線路の向こうは、試験用畑地が広がっていたであろう場所です。
 賢治父子はここで乗り換えることはできませんでしたが、現在も柏原駅は、JR関西本線から近鉄道明寺線への接続駅の役割を果たしています。

現在の柏原駅

作者:hamagaki

更新日:2008年10月19日 17時47分

このブログのホーム

悩みの果てに「いゝこと」と感じる

 『春と修羅』、『春と修羅 第二集』などの作品の中から、賢治がトシの「死後の行方」について思い、言及した箇所を、以下に順に挙げてみます。

(1) 1922.11.27
   「永訣の朝
     けふのうちに
     とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

   「松の針
     ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
     ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
     わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
     泣いてわたくしにさう言つてくれ

   「無声慟哭
     おまへはじぶんにさだめられたみちを
     ひとりさびしく往かうとするか
     (中略)
     おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
     (中略)
     どうかきれいな頬をして
     あたらしく天にうまれてくれ

(2) 1923.6.3 「風林
     おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
     鋼青壮麗のそらのむかふ
        (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
         光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか

(3) 1923.8.1 「青森挽歌
     あいつはこんなさびしい停車場を
     たつたひとりで通つていつたらうか
     どこへ行くともわからないその方向を
     どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
     たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
     (中略)
     とし子はみんなが死ぬとなづける
     そのやりかたを通つて行き
     それからさきどこへ行つたかわからない
     それはおれたちの空間の方向ではかられない
     (中略)
     なぜ通信が許されないのか
     許されてゐる そして私のうけとつた通信は
     母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ
     どうしてわたくしはさうなのをさう思はないのだらう
     (中略)
     ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
     あらたにどんなからだを得
     どんな感官をかんじただらう
     なんべんこれをかんがへたことか
     (中略)
     あいつはどこへ堕ちやうと
     もう無上道に属してゐる

(4) 1923.8.2 「宗谷挽歌
     けれどももしとし子が夜過ぎて
     どこからか私を呼んだなら
     私はもちろん落ちて行く。
     とし子が私を呼ぶといふことはない
     呼ぶ必要のないとこに居る。
     もしそれがさうでなかったら
      (あんなひかる立派なひだのある
       紫いろのうすものを着て
       まっすぐにのぼって行ったのに。)
     もしそれがさうでなかったら
     どうして私が一緒に行ってやらないだらう。
     (中略)
     とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
     おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
     そんなしあはせがなくて
     従って私たちの行かうとするみちが
     ほんたうのものでないならば
     あらんかぎり大きな勇気を出し
     おまへを包むさまざまな障害を
     衝きやぶって来て私に知らせてくれ。

(5) 1923.8.4 「オホーツク挽歌
     わたくしが樺太のひとのない海岸を
     ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
     とし子はあの青いところのはてにゐて
     なにをしてゐるのかわからない

(6) 1923.8.11 「噴火湾(ノクターン)
     駒ヶ岳駒ヶ岳
     暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
     そのまつくらな雲のなかに
     とし子がかくされてゐるかもしれない
     ああ何べん理智が教へても
     私のさびしさはなほらない
     わたくしの感じないちがつた空間に
     いままでここにあつた現象がうつる
     それはあんまりさびしいことだ
         (そのさびしいものを死といふのだ)
     たとへそのちがつたきらびやかな空間で
     とし子がしづかにわらはうと
     わたくしのかなしみにいぢけた感情は
     どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

(7) 1923後半? 「〔手紙 四〕」
     けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました。
     「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、
     また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひと
     でも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒のあらゆる魚、あらゆるけものも、
     あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだか
     ら。チユンセがもしポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を
     出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それ
     はナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし
     勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まない
     か。」 それからこのひとはまた云ひました。
     「チユンセはいいこどもだ。さアおまへはチユンセやポーセやみんなのため
     に、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」 そこで私はいまこれをあなたに
     送るのです。

(8) 1924.7.5 「〔この森を通りぬければ〕
     鳥は雨よりしげくなき
     わたくしは死んだ妹の声を
     林のはてのはてからきく
        ……それはもうさうでなくても
           誰でもおなじことなのだから
           またあたらしく考へ直すこともない……

(9) 1924.7.17 「薤露青
     声のいゝ製糸場の工女たちが
     わたくしをあざけるやうに歌って行けば
     そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
     たしかに二つも入ってゐる
     (中略)
        ……あゝ いとしくおもふものが
           そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
           なんといふいゝことだらう……


 すなわち、当初から賢治は、トシが「とほくへいつてしまふ」ことは諦めて受け容れながらも、「どこへ行かうとするのだ」という問題に、悩みおののいていました。
 次に「青森挽歌」や「宗谷挽歌」では、「どこへ行つたかわからない/それはおれたちの空間の方向ではかられない」と頭では理解しつつも、それでもトシからの通信を求めつづけます。賢治の苦悩は、サハリンの自然によって、一時は少し癒やされたようにも見えましたが、この旅行の最終作品である「噴火湾(ノクターン)」も、「わたくしのかなしみにいぢけた感情は/どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」と結ばれます。

 一つの変化が起こるのは、旅行後に書いたと思われる「〔手紙 四〕」です。ここではやはり死んだポーセを「たづねる」という行為は続けられながらも、「たづねる」主体はポーセの兄のチユンセではなくて、「云ひつけ」によって手紙を出す「私」になります(「「手紙四」の苦悩」参照)。
 一人の人間の中で相反する思いが闘っている状態が「葛藤」ですが、人は時に、心の中の葛藤に耐えきれなくなると、相反する思いのそれぞれを心の中で別の「人格」に分担して背負わせるという対処をとることがあります。この機制は精神医学的には「解離」と呼ばれ、その最も極端な形は「多重人格」という形で現れます。
 賢治は「〔手紙 四〕」において、これと類似のことを、文学的な形態において行ったとも言えます。(あらゆる衆生のための=真の仏教徒としての行動と、死んだ妹の行方を「たづねる」=肉親としての行動を、「チユンセ」と「私」という別の人格に分担させることによって、葛藤を解消したわけです。)

 そして最終的には、1924年7月の2作品において、さらに賢治は気持ちの整理をつけているようです。「それはもうさうでなくても/誰でもおなじこと」で、「またあたらしく考へ直すこともない」・・・。そして「薤露青」に至っては、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という境地が語られます。
 これはとても逆説的で不思議な感情のようですが、しかしその逆説性にこそ、賢治の苦悩の跡が感じられるような気もします。

 と、思っていたら、「小岩井農場」においても、このような逆説的感情の描写が見られるのですね。「パート一」で、賢治が馬車に乗ろうか乗るまいか迷っているところです。

これはあるひは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
あすこなら空気もひどく明瞭で
樹でも艸でもみんな幻燈だ
もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
野はらは黒ぶだう酒のコツプもならべて
わたくしを款待するだらう
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
 (あいまいな思惟の蛍光
  きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
 (これがじつにいゝことだ
  どうしやうか考へてゐるひまに
  それが過ぎて滅くなるといふこと)

 ここでは結局、賢治が迷っているうちに馬車は動き出してしまうのです。普通なら、こんな時あわてて呼びとめようとしたり、諦めてからも自分の優柔不断さを悔やんだりしそうなものですが、賢治は、「これがじつにいゝことだ/どうしやうか考へてゐるひまに/それが過ぎて滅くなるといふこと」と、肯定的にとらえているのです。
 これは「薤露青」の、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」にも通ずるものだと思うのですが、「小岩井農場」では若干「悔しまぎれの開き直り」と聴こえなくもなかった言葉が、「薤露青」においては、深い仏教的な悟りをも感じさせています。

 いずれにしても、このようなちょっと珍しい感じ方は、トシを喪う前から、賢治のどこかに備わっていたものなのだろうと思うのです。

作者:hamagaki

更新日:2008年10月16日 23時40分

このブログのホーム

宮沢賢治研究会・比叡山セミナー

延暦寺会館 11日・12日と、比叡山の「延暦寺会館(右写真)」で行われた宮沢賢治研究会の「比叡山セミナー」に参加してきました。

 東京を中心とした「宮沢賢治研究会」には、今年の5月に会員にならせていただいたばかりで、二三の方々を除いては今回初めてお会いする方ばかりだったのですが、皆さん本当に暖かくこの新参者を受け容れてくださって、やはり「賢治を愛する仲間」という見えない糸で結ばれた縁を、深く感じました。
 「賢治研究会」の皆さん、どうもありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。そして、これからもよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m

 1日目は、仕事の関係で遅刻して、「関西における賢治の足跡をたどる」という私に課せられた話を始める時間になんとかすべりこみ、夜の懇親会では、皆さんの熱いお話に、時間の経つのも忘れました。
 2日目は、広い窓から差し込む朝日と、眼下に横たわる琵琶湖の眺望で目覚めました。午前中は叡山の「西塔」地区をみんなで歩いて巡り、「戒壇院」、「阿弥陀堂」、「浄土院(伝教大師廟)」、それから賢治父子も訪ねたという説がある「にない堂」などを拝観しました。この「賢治のにない堂拝観説」に関しては、私の不手際のためにセミナーの話でもきちんと触れることができなかったのですが、また記事を改めて書かなければと思っています。

法華総持院東塔と阿弥陀堂

 延暦寺会館に戻って昼食をとり、そこでツアーとしては解散となって、この後横川地区へ向かう人、ガーデン・ミュージアムを見に行く人、バスで京都へ降りる人、賢治父子のルートを歩いて下りる「踏破隊」と、それぞれの方角へと散っていきました。私は、踏破隊の人と一緒に途中まで無動寺谷まで行って、賢治父子が訪れたという「大乗院」などを見て、また引き返して京都の方にロープウェイとケーブルで降りました。


 さて、今回の「比叡山ツアー」の一つの目的は、賢治父子が徒歩で比叡山に登り、下ったルートがどの道だったのかということを、可能な限り推定してみようということにもありました。このたび私なりにも考え、研究会の皆さんともお話をする中で、現時点で到達しえた結論(の私なりの解釈)を、以下に記しておきます。

 まず登山路ですが、賢治父子が汽船で坂本港に着いて、ここから比叡山に登るには、(1)本坂(表坂)、(2)無動寺道、という下図のような二つのルートがあります。左の赤の四角で囲んであるのが、登り着いてまず参拝した「根本中堂」です。(画像をクリックすると拡大しますので、大きな地図でご覧ください。)