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[愚考]「中立」のデメリット

何かで「左右」を覚えなくちゃならないことってありますよね。たとえば道順を覚えるとき「○出口を出て左へ」とか。そういうときよく、「左右」に「左翼右翼」のイメージを重ね合わせて覚えるってことしませんかそうですか。私はよくします。「○出口を出てサヨク」とか覚えるのです。そうすると、たんなる中立的な「左右」という概念に、「共感」ないし「反感」という心理的に正反対の価値をもつラベルがつけくわわるので、たいへんに覚えやすくなります。さらに応用して「○出口を出て右」はたとえば「○出口を出て反革命」とかしたりするのも、より覚えやすいでしょう。

ところが、政治的「中立」を自認する方々は、そんな変換をしてもなんの意味もないのでしょうので、このワザは使えないはずですよね。本当にかわいそうだと思います。「中立」の方々は、「左右」を覚えたいときいったいどうしているんでしょうか?

作者:zarudora

更新日:2008年10月14日 17時2分

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[労働]まあ、皆ほんとに労働しない(と思われている)人嫌いだよね

 野宿者に対する、あるいは野宿者排除に反対する人へのバッシングに向ける、「フツーの」人々の大変な熱意、というのにはおどろかされます。これは、「まあ、皆ほんとに労働好きだよね」の正確なうらがえしである、「まあ、皆ほんとに労働しない(と思われている)人嫌いだよね」だと思うのですが、すこしそのへんに関連する話を紹介してみます。

 さて、大人たちのなかには、若者をバッシングして「フリーターだのニートだの、仕事をする気のない怠け者の若者が増えているのはこまったことだ」と言う人もいます。しかし、「そうした見方は誤解だ、若者は仕事をしたがっているのであり、若者に正社員の仕事がないのがいけないのだ。増えているのは、怠け者の若者ではなく、非正規雇用で過酷な条件で労働をしているワーキングプアーの若者だ」という考え方もあります。左翼の日本共産党のスローガンはそうした考え方をふまえています。街にはってある日本共産党のポスターには「若者に仕事を」というスローガンが書いてあります(youtubeの日本共産党のチャンネルにも大きく掲げられています)。

 ところが、ボブ・ブラックという人は、1985年に書かれた「労働廃絶論」という文章で、こう言っています。

リベラル派は、雇用差別を終わらせるべきであると言う。

私は、雇用を終わらせるべきであると言いたい。

保守派は労働の権利を主張する。

カール・マルクスの義理の息子で気まぐれなポール・ラファルグに習って言えば、私は怠ける権利を主張する。

左翼は完全雇用がよろしいと考える。

シュールレアリストを真似て言うと、 −私はふざけているわけではない− 私は完全失業がよろしいと考える。

http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html

 ボブ・ブラックという人の考え方は、左翼の一種の、アナーキズムに分類される考え方でしょうが、こうした考え方にたいして、最初にあげた若者バッシングの大人も、共産党をふくむ若者擁護の人も、両方、「ふざけるな」と怒るかもしれません。とくに後者は、こう言うでしょう。若者が仕事がなくて困っている(つまり「労働の権利」が奪われている)のに、「怠ける権利」だの、「完全失業がいい」などとは、どういうことだ!そんなことを言うから、「怠けたがっているニートの若者が増えている」などという誤解が生まれるのではないか!……と。

 しかし、そのような怒りが生まれるのは、「人間は働くものだ」という考え方、あるいは「働くということは人間にとって大事なことだ」という考え方が、空気のように、当たり前のことになっているからではないでしょうか。だから、ブラックのような「労働を廃止するべきだ」などという主張をきくと、多くの人は「ふざけている」とか「できっこない」と思ってしまうのです。

 ところで、岩波新書に、今村仁司という人が書いた『近代の労働観』という本があります*1

近代の労働観 (岩波新書)

近代の労働観 (岩波新書)

 1998年に発行されたこの本で、今村さんは、「労働が人間の本質であるとか、労働は本来的に喜ばしいとかいった思想」*2」は、「空気のように自明なもの」となっているけれど、それは本当のことだろうか?という疑問を出します。「労働は大事だ(労働は人間の本質である)」という考え方は、労働者を搾取する資本家や、資本主義に賛成する人たちはもちろんですが、彼らと対立する、労働者の味方である社会主義の人たち(左翼)も、共通してもっている考え方なのです*3。労働が大事なのは当たり前なのであるから、「労働者の味方をする」というのは、苦しい労働をしている労働者がいるなら、その「苦しさ」をなくして(労働環境の改善)、労働を、本来の「喜ばしいもの」にすることであって、「労働が苦しいから労働そのものを廃止してしまえ」なんてとんでもない主張だ、というわけです。

 ところが、今村さんは、こうした「労働は大事だ」という考え方があたりまえになったのはそんなに昔のことではなく、その考えは、たった300年か400年前のヨーロッパで生まれて世界にひろまっていったものでしかない、ということを教えてくれます。近代以前においては、多くの社会で、「忙しく働く」ということは「悪いこと」であり、「ぶらぶらしている」「なにもしない」ということは、むしろ「いいこと」である、という価値観は、普通のことであったのです。何千年もまえの古代ギリシャでは、手仕事をすることは卑しいこととされていました。手仕事をする奴隷は、卑しいものだった(もちろん、これは、奴隷制度という差別的制度ときりはなせないわけですが)。

太古的な労働経験とは、少ない生業の時間と余暇を享受する経験であった。近代以前の生活の社会的評価機軸は、余暇である。古代では一部の人間集団だけの余暇であったにしても、階層の上下を問わずすべての人々の価値意識を方向づける文明の価値基準は余暇(自由時間)にあった。多忙(時間がないこと)はマイナス価値であった。(p.25-6)

 今村さんの本には出てきませんが、日本だってそうです。昔私のブログでも昔紹介しましたが*4、クイズお江戸でござるで有名な、江戸時代のことについてものすごく詳しい杉浦日向子さんは、江戸時代も、町人とっては「ぶらぶらしてめったに働かない」というニートのような暮らし方は、別に普通の暮らし方だった、ということを教えてくれます。

 もうひとつ、今村さんが言っているのは、古代にだって、たとえば農民が農作業でいそがしく働いていたように見えるのですが、その場合の農民の行為は、道具を使って自然を変革し、何かを生産する、という近代的な労働としてはとらえられていなかったようだ、ということです。それはむしろ、宗教的な行為であり、宗教儀式と切り離せないような行為であった。だから、農作業の中にリズムがあったとしても、それは、宗教的な、儀式のリズムであった。

 さて、今村さんは、それまで普通だった、「なにもしないのは良い、いそがしいのは悪い」という価値観が、近代にはいると180度ひっくり返ったのだ、と言います。

近代では余暇と無為は、道徳的に悪になり、多忙さ(ビジネス)が道徳的にプラス価値になる。太古的な労働経験の崩壊過程はそのまま近代の出現課程になる。壮大な価値転倒が起きた。(p.26)

 今村さんによると、その「価値転倒」がおこったのは、17世紀の初頭のヨーロッパにおいてです。このころの都市には、農村から都市に流入した多くの貧民たちがいました。彼らは、「浮浪者」または「乞食」でした。もちろん、いつの時代にも貧しい人たちはいたのですが、この時代、多くの貧民が、「犯罪者」ないし「犯罪者予備軍」として、収容される、ということがおこります。

(……)貧乏であること、あるいは貧民であることは、罪であった。ひとによっては貧乏を道徳的罪とみなすこともあったが、たとえそうではないにしても、国家の行政的観点からみればひとつの犯罪の可能性であった。だから浮浪者や乞食という形をとる貧民は、特定の場所に収容されなくてはならない。この空間は、道徳的罪と犯罪の可能性を防止するための空間、つまり収容所になる。それは当時は「矯正院」あるいは「労働の家」と呼ばれた。(p.29)

 では、収容してどうするのか。犯罪者は、悪いことをしているのだから、つかまえて「罰」をあたえる、ということになります。その「罰」が「労働」だったわけです。「罰」は、いやなことをさせるから「罰」になります。みんながよろこんで牢屋に入りたいなら、監禁は罰にはなりません。しかし、罰としての労働は当初から二重の意味をもっていたのです。「強制労働」は、悪いことをした人への「罰」であると同時に、悪い人を、まっとうな人に治すための「治療」であり「教育」でもあったわけです。したがって、労働収容所は、監獄であり、病院であり、学校だったわけです。というか、労働収容所は、近代的な「監獄」「病院」「学校」の起源なのです。

 労働収容所の中で、貧民を労働させ、労働によって懲罰する。労働は仕事を教えると同時に教育する手段であった。(p.29)

 といっても、この収容は、貧民を「救済」する「慈善事業」という建前ももっていました。しかし、この「慈善」は、「監禁」と「拷問」と表裏一体だったのです。

 さて、当時の統治者(つまり「お上」ですね)は、貧民を、「貧しい人々」(ポーヴル)と「人間の屑」(ミゼラブル)という二種類に分類したそうなのです。お上が特に問題にしたのは、「人間のくず」(ミゼラブル)のほうです。お上は、「人間のくず」を、社会にとっての「異物」とみなしました。

 「ポーヴル」は社会的規範と生産体制にとって「受け入れ可能な」人々である。反対に「ミゼラブル」は、どうにも規範になじまず、生産体制を撹乱する存在であり、政治的にも経済的にも、さらには宗教的にも異物である。(p.38)

 政治と経済の秩序には到底受け入れがたい「人間の屑」が存在する場合には、そうした「屑」を特定の空間に集中的に収容して、彼らを「受け入れ可能な人間」に教育して「まともな人間」に変換させなくてはならない。「人間の屑」はその存在自体において「罪であるのだから、この罪に「罰」を加えて、再教育しなくてはならない。「罰」とは人間を矯正する強制的「労働」である。(p.40)

 近代における怠惰との闘争は、17世紀において開始するのだが、この時期の怠惰対策が怠惰な人間、「人間の屑」を施療院や矯正院に封じ込めて、彼らを近代経済にふさわしい労働人間に作り替えることであった。(p.45-6)

 つまり、現代の「労働者」「勤労者」の「祖先」は、「浮浪者」「人間のくず」「怠け者」であったともいえるのです。ところが、改造人間、つまり、「人間のくず」から「まっとうな人間」に改造されてしまった「勤労者」の子孫が、現代、自分たちの祖先である「浮浪者」を、「人間のくず」とさげすんでいるのです。なんという皮肉でしょうか。(つづく)

↓こちらもたいへんわかりやすくかいてありますのであわせてお読みください。

「スタンダード反社会学講座」http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson6.html

「労働廃絶論」http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html

「(元)登校拒否系」 http://d.hatena.ne.jp/toled/20080119/p1

*1:昔、私のブログでちょっとだけ触れたことがあります http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060625/p3

*2:p.199

*3:「労働は人間の本質であり、人間は労働を通して人間性を完成させていくだろうし、労働をとりまく否定的社会的条件または環境を改善するなり変革するならば、人間は労働のなかで、そして労働によって、人間にとって基本的な事柄や大切なことを実現するだろう(p.198)」という「労働中心主義的人間論(p.197)」は、20世紀の社会主義が盛んにふりまいてきたものでもあります。

*4:と思ったら、消した記憶ないのに、記事が消えてる!!??どういうこと?http://b.hatena.ne.jp/entry/2070496

作者:zarudora

更新日:2008年9月10日 12時9分

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[野宿者]がまんする人/しない人/させられている人

昨日の日記のブックマークコメント

# 2008年09月02日 sirobu sirobu 社会 家じゃなくても実際にそんな図書館を利用するかって言うと… 電車にヤツラが乗ってきたら臭いに耐えかねて車両が丸々空いたりするんですぜ?(強調引用者)

これはつまり、「実際どれほど耐えがたい臭いがしているのかおまえは知っているのか?」ということなのでしょうか?

で、思い出したのですが。

モンスターなんとかというのはいろいろありますが、モンスター・フィロソファーと言えば、日本の場合、なんといっても、中島義道先生です。で、その日本が誇るモンスター・フィロソファーの中島先生は、『うるさい日本の私』他で、だいたいこんなことをおっしゃっています(いまてもとに本がないので、だいぶ昔に読んだうろおぼえの記憶にしたがって書いています。中島さんの議論の正確な紹介ではないのであしからず。)

中島さんは、現代の日本の街中にあふれている、人工的な音が、文字通り耐えられないのだそうです。たしか、音量の問題ではなく、質的な問題で、電子音とか、スピーカーから流れる音声とかが、耐えられないのだそうです。しかし、現代の日本では、そうした音があふれています。だからといって家の中にとじこもっているわけにもいかず町にいくと、そのような音が聞こえてくる。中島さんは、そのたびに、その音を出している場所の担当者に直接話をしにいきます。

「あの音が私は耐えられないので困っています。あの音を止めてくれませんか?」

すると、担当者との間の会話は、だいたいつぎのようになるようです。

「??どうしてですか?」

「いや、だから今言ったように、あの音が私は耐えられないので困っているのです。だから、あの音を止めてくれませんか?」

「?がまんできないような音ではないと思うんですけど……」

「いや、あなたはがまんできるんでしょう?でもそれは今は関係ないのです。私はがまんができないんです。」

「?でも、今までみなさんから、とくに苦情がきたことはないんですが……」

「いやだから、みなさんのことは関係ないんです。私ががまんできないといっているのです。」

「……そうおっしゃられても……」

藤子F不二雄の『ミノタウロスの皿』にある「言葉は通じるのに話は通じない」という名セリフそのものの押し問答が、かならずくりひろげられるそうです。

担当者は、中島さんが意味不明なクレームをつきつけているようにしか思えないのでしょう。しかし、「現にがまんができないのです」と主張している中島さんに対する、「がまんできないような音ではないでしょう?」という返答こそ、中島さんにとってはまさに意味不明な返答です。中島さんには、「「私はあなたではない」という当たり前のことがなぜ理解されないのか」という絶望感が積み重なるばかりです。

おそらく自分が「普通の人」であると思っている担当者は、中島さんのことを、「こんなどうってことのない音もがまんできない、がまんの足りないおかしな人」という目で見ているでしょう。しかし、中島さんにとっては、それほど侮辱的なことはないでしょう。というのも、現在の日本では、中島さんには耐えられない音が氾濫しており、それでもそこで生活しなくてはいけない中島さんは、まさに、毎日がガマンなわけです。たとえば、そういう音がない場所を選んで通るとかもしているでしょうが、それもできないので、たしか、街中にでるときは、ヘッドホンステレオで、大音量でクラシックの曲を流して、街の人工音をかきけす、という自衛手段をとっているそうです*1

おそらく、多くの人にとっては、中島さんのこの行為は、「滑稽」なものにうつるでしょう。多くの人にとっては、この行為は、「必要ない行為=無意味な行為」と映るからです。しかし、それが「必要ない」のは、多くの、人工音が気にならない人にとってです。中島さんにとっては、この行為は真剣そのものの行為です。そして、「なぜ自分だけが、このような苦労をしなければならないのか」と理不尽な思いを抱きながら、日々、「耐えられない」環境の中、ガマンしながら、暮らしているのです。

さて、中島さんは、現代の日本の社会では、(人工音という側面に関しては)「マイノリティ」です。そして、「マイノリティ」とは、まさにこのように、日々、耐えがたい世界の中でガマンしながら、いや、ガマンさせられながら暮らしている人々のことだ、と言っていいでしょう。ところが、マジョリディは、ガマンする必要なく暮らしている人々のことです。だから彼らは、マイノリティが「ガマンしている」ということが理解できない、いや、しようとしないのです。それどころか、ガマンにガマンを重ねたマイノリティが、「耐えかねて」必死の思いで声を上げると、眉をひそめて、「そんなことがまんできるだろう、なんてガマンの足りないやつらなんだ」「じゃあ日本から出て行けばいいじゃないか」などと言うのです。*2

ところで、マジョリティの彼らは、一方では、当然のことのようにこんなことを言うのです。「ホームレスのニオイっていうのはな、本当にガマンができないほどひどいんだ。おまえはかいだことないんだろう?」などと。そして「おれたちにはホームレスのニオイはがまんできないが、ホームレスは図書館に入るのをがまんしろ。そんなの簡単なことだろう」と。

ではおまえは、逆に、マイノリティの意見をすべて通して、マジョリティはつねにガマンしろ、というのか、などというひともいるかもしれませんが、そういうことではありません(「マジョリティの意見をすべて通して、マイノリティはつねにガマンしろ」という状態をつくっておいて、よくそんなことが言えるな、とは思いますが)。

さきほど、「私はあなたではない」という当たり前の事実の話をしましたが、すくなくともタテマエ上、「民主的社会」とやらいうものは、お互い「私はあなたではない」という事実を前提とした上で、話し合って折衷案をみつけだすことによって作られることになっているわけででしょう? ところが、マイノリティというのは、一方的にガマンを強いられているばかりではなく、「話し合い」なるものがあってもどういうわけか決して呼ばれないのです。いや、「呼ばなくてもいい人たち」と勝手に前提されているのです。中島さんが声をあげても、いつも「スルー」されてしまいます。そして、ホームレスが図書館にいると、マジョリティの人々は、そのホームレスに目をあわそうともせずに、「あのホームレスどうにかならないかな」などという「話し合い?」をマジョリティどうしてはじめるのです。

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)

  • 作者: 中島義道
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 1997/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
うるさい日本の私 (新潮文庫)

うるさい日本の私 (新潮文庫)

追記

今、本棚で中島さんの『〈対話〉のない社会──思いやりと優しさが圧殺するもの』を発見しました。そんなヒマはまったくないにもかかわらずついぱらぱらと読み直して見たところ、以前読んだときより非常におもしろくかんじました。

しかし、上の記事に関することで、この本で氏自身が「マジョリティとマイノリティ」という言葉を使っていて、しかもその意味は、上の私の記事におけるのとはだいぶちがっていることが分かりました。というわけでやっぱりうろおぼえで書いてしまったのはちょっとまずかったのですが、とりあえず関連するかしょを引用します。

マジョリティとマイノリティ

マイノリティを徹底的に排斥しながら、その暴力にいっこうに気づかず「空気」に擁護されて自分たちの「正義」を確信している鈍感にもおめでたい人々(マジョリティ)のみが状況功利主義者なのではない。状況功利主義の蔓延する空間では、じつはマイノリティすなわちいつもオモテではシブシブ賛成し、ウラに回ると決定に難癖をつける弱く善良な人々もその力学に支配されているのだ。彼らもまた「様子を見る」ほうが「得」だと悟って、不平不満を露骨に言うことを控え、言葉を選び、反感をかわない動き方をするのだ。こうした社会では弱者であればあるほど「語らない」ことを選ぶのであり、対立を、〈対話〉を避けるのである。そのほうが「得」だということを彼らは早い時期に全身で学んだからである。

ここでちょっと確認しておこう。私はマイノリティを──身体障害者・被差別部落出身者・在日朝鮮人・同性愛者等々狭義の社会的弱者という意味ではなく──さまざまな意味で社会的に報われていないのであるが、個人の言葉を抑制し小心翼々と社会に適応しているフツーの「善良な市民」の意味で使用する。したがって、これと対立するマジョリティとは、個人の言葉を意図的に(ズル賢く)控えて社会的利益を受けているフルーの「善良な市民」のことである。

わかりやすい例で言えば、いつもいつも「常勤」を渇望してうめき声をあげている大学の非常勤講師はマイノリティであり、犯罪行為さえしなければ六十五歳まで遊んでいても首を切られることのない大学教授はマジョリティである。つまり、個人の言葉を発して身を挺して戦っている一握りの人々意外は、みんなマイノリティかマジョリティというわけである。(p.175-6)

この定義によれば、中島さんは、決して「マイノリティ」ではない、ということになりますね。

*1:ヘッドホンの音はいいのか、とかつっこみがありそうですが、繰り返しますがこれは私のうろ覚えの紹介なので、詳しくは中島さんの本を見てみてください。説明があったように思います。

*2:ちなみに私も、街中の人工的な音はぜんぜん平気なので、マジョリティのがわであり、中島さんのガマンできないという感覚そのもはわかりません。しかし、中島さんのいらだちそのものは、「わかる」ようなきがします。ところで、ねんのため、ほかの部分で氏の意見にすべて賛同しているわけでもありませんし、実はそれほど中島さんの本は読んでいません。

作者:zarudora

更新日:2008年9月3日 0時48分

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[野宿者]公園や図書館はお前の家じゃない

公園や図書館からの野宿者の排除に対して批判的な意見をのべると、必ずつくコメントというのがあって、それは「そんなことをいうなら、お前の家にホームレスを住まわせればいいじゃないか」というものです。ほぼ例外もなくそういうコメントがあらわれる、と言っていいようにすら思います。id:good2ndさんの「ホームレスだからって排除すべきじゃない。でも…」という記事にも、そんな「おまえんちでメソッド」というか、「おまえんちで論法」が、やはりあらわれました。

# 2008年09月01日 id:sol1og ホームレスの人権を守るためにこのヒトのうちに住ませるのではなにがいけないのかわからない。どんなによそで排除されても最後まで「公共の空間」として信頼されている、ということを、まず自分から誇りに!

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080901/1220252058

さて、ホームレスの人たちは、そもそも最初からsol1ogさんの家からは排除されています*1。おそらくsol1ogさんは、自分の家にホームレスがやってきたら、追い払ったり、あるいは警察を呼んで追い払ってもらったりするのでしょう。しかし、ホームレスの側から見たらどうでしょう?sol1ogさんのように、ホームレスに対して偏見や敵意をもっている人の家に入りたいと思わないのはもちろんのこと、そんな人の家の近くにも、怖くて行きたくない、と思うのが当然ではないでしょうか。まあそれはともかく、いずれにせよ、ホームレスの「私的空間」からの排除は、すでに完了しているのです。それは残念ながら当たりまえのことです。ただ、世の中には、私的空間をホームレスのために提供している人だっていくらもいると思います。場所だけでなく、お金や、食料や、衣類などを提供している人ならもっとたくさんいるし、さらには、id:Romanceさんのように、支援活動に参加して「私的な」時間や労力を提供している人だって、たくさんいるわけです。というわけで、ある意味ではそれだけで、もはや「おまえんちで論法」は崩壊している、ともいえるのですが。

ただもうひとつ、「おまえんちで論法」をとなえる人は、別の意味でおおいなる勘違いをしているとしか思えないのです。おそらく、「おまえんちで論法」を使う人は、「ブサヨの矛盾を突いたった!ブサヨのいたいところを突いたった!」というふうに思っているのではないでしょうか?つまり、「ブサヨは、公園とか図書館とか、自分の家ではないから、そんな風にきれいごとが言えるんだろう。ブサヨだって、俺たちと同じで、自分の家にホームレスがおしかけてきたらいやがるはずだから、「むぎゅう」と言葉につまるだろう」と。しかし、good2ndさんは、図書館が「自分の家ではないから」、つまり「自分と関係ないから」意見を述べている、のではないでしょう。むしろ逆に、自分の町の図書館のことだから、自分と関係がある問題だからこそ、「ホームレスの排除」について批判的な意見を述べ、議論を提起しているわけです。さっきいったようにそんなことはないでしょうが、仮にsol1ogさんの家にホームレスが押しかけてきたときに、sol1ogさんがそれを追い出すのは、現行の法体系のもとではみとめらるでしょう*2。しかし、今問題となっているのは、sol1ogさんの家のことではありません。まさに「公共空間」である図書館のことです。なぜ、「自分の家と同じように」ホームレスを排除させる事が、当然と考えるのでしょうか。公園や図書館からのホームレスの排除を当然とする人は、ホームレスに向かって(直接ではなくネット上でとかですが)「公園や図書館はおまえの家ではない」などと言うのですが、その言葉は、そんなことを言う人に対してこそ、そのまま返すべきではないか、と思うのです。

それと、「ブサヨだって、俺たちと同じで、自分の家にホームレスが来たらいやがるはずだ」みたいな勝手な決め付けも、迷惑なんですよね。「ホームレスは、公園だろうが図書館だろうがどこにも居場所がなくなって、自分の見えないところでのたれ死んでくれたほうがいい」などと思っているあなたがたといっしょにされたくない、と思っているブサヨの方々は多いと思います。

*1:sol1ogさんがホームレスではないという前提で話をしていますが

*2:でも革命がきたらid:toledさんがsol1ogさんの家をホームレス支援施設として接収するそうですよ!

作者:zarudora

更新日:2008年9月1日 23時56分

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[野宿者]モンスター・ライブラリーユーザー

モンスター○○っていうのは、ほんとうに増えているようだ。今度は図書館利用者にも出てきた。「図書館にホームレスがいるといやだから追い出してほしい」などという理不尽なクレームを言ってくる、モンスター・ライブラリーユーザーというのが出てきたようだ*1http://d.hatena.ne.jp/Romance/20080830#p1という記事のブックマークにも、大量に現れている。http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Romance/20080830%23p1 まあ、ここでヘイトスピーチをくりひろげているひとたちのどれほどが図書館をよく利用するのかわからないけど。あ、私ですか?私はほとんど図書館は利用しません。本は90パーセント、ドトールで読んでるので。人の話し声とか、コーヒーとかミラノサンドのニオイがないと集中できないんで。

それはともかく、あなたが図書館を利用したくて、たとえば市立図書館に行ったとする。それは、本が読みたい場合もあろうが、ただ返却のためかもしれないし、あるいは、ちょっとトイレをかりたいからかもしれないし、本を読みながらクーラーで涼みたいからかもしれない。休館日でもないかぎり、自動ドアをあけて、なんの抵抗もなく中に入ることができるし、なんのためにきたのか?なんて入り口で尋問されることもない…と思って、入ろうとしたそのとき…

入り口に人がたっていて、「あなたはダメです」と言われて、とうせんぼされ、入ることを邪魔された。他の人はどんどん入っている。「なぜ入れないのですか?」と聞くと、「あなたは○○だからです」という答えが返ってきた*2。あなたにとっては、この「とうせんぼした人」こそ、「迷惑千万な人」以外の何ものでもない。

つまり、○○の人を、○○だからという理由で図書館にいれない、というのは、○○の人に対する「迷惑行為」である。「○○を図書館に入れるな!」という要求は、「○○に迷惑行為をしろ!」という要求と同じなのだが、そういうことを言う人は、自分が「迷惑行為」を要求しているなどとは思っていない。いやむしろ思いたくない。というわけで、彼らはこういうのである。「いや、迷惑行為することを要求しているなんてとんでもない。私たち善良なライブラリー・ユーザーこそ、あの○○に迷惑行為を受けているんです。」と。で、その、「○○から受けている迷惑行為」なるものが何なのか?と聞くと「えーと、ニオイがくさくてこまります」とか「あの人は本を読む場所に本を読みにきてませーん。おかげでボクがすわれませーん」とか言うわけだ。つまり、なぐることは決まっているんだけど、あとから「なぐる理由」とやらをでっちあげる、ていうやつとたいして変わらないのだ。

○○が嫌いな人、○○に偏見を持っている人、というのは、○○を差別したい、○○に「迷惑行為」をしたい、という気持ちがどんどん高まってくるらしい。そこで、それを正当化するために、○○の悪いところ、「迷惑」なところ、とやらを血眼になってさがし、言いつのる。さらにそれによって、ますます○○を嫌う感情をたかぶらせていく、というマッチポンプである。

そうして、「トンデモなくいやなものが、とつぜん向こうからやってきたんだ、だから消えてなくなってほしい」と思いはじめたころには、そもそもその「いや」な性質を自分たちでそこに貼り付けたということはすっかり忘れているのだ。

あと、マッチポンプというのは、ただの感情の話というわけではなく、社会構造としてマッチポンプが組み込まれているということです。こちらからの孫引きで元の本は見ていませんが、売春について書かれた三浦俊彦のこの文章は、まさにホームレス問題にもあてはまりますね。

“ある事柄Aは悪だからと社会的認知を妨げて、Aの社会的不適合を生み出し、その不適合ゆえにAを悪と判定するパターンは、マッチポンプの典型例です。”(三浦俊彦『論理学がわかる事典』)

 * * *

ところで、以前、中国の貧困層を描いたNHKのドキュメンタリーのことを書いた記事http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20071003/1191441794で、ネットでみつけたこの番組に対するこういう感想を紹介した。

内蒙古の出稼ぎの若夫婦、あの夫はなんだ、仕事がない、金がないといいながら、タバコばかり吸っている。まず禁煙して、貯金しろよ、春節に夫婦二人も帰らずに倹約して、母親の治療費ぐらい捻出したらどうだ。あの男はなにがしかの取材協力費をとっているのではないか、との声

http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20071003/1191441794

で、こういう人がいたらどうだろうか。ものすごく風呂が好きで、毎日銭湯に行っているホームレスがいたらどうだろうか。こういう風に非難されるのだろうか。

ホームレスのあの男はなんだ、仕事がない、金がないといいながら、風呂ばかり入っている。まず禁銭湯して、貯金しろよ

とか。それとも、みだしなみを考えて立派だ、とほめてくれるとでもいうのだろうか。

まあ、何をいっても、結局「働かないのが悪い、働けば風呂にも入れるし家にもすめるしタバコも吸えるのだ」という声がわきおこってくるのが目に見えているので、むなしいんだけども。

つまり、「まあ、皆ほんとに労働しない人*3嫌いだよね。」というのは、id:madashanさんの「まあ、皆ほんとに労働好きだよね。」の正確なうらがえしなんだな、たぶん。

働くことについては今度書きます。

*1:kmizusawaさんのブクマコメントにあるように、まあ、そういう人は昔からいたんでしょうけど。

*2:「市外在住だから貸し出しません」とかはあっても、「○○だから入れません」という公立図書館はあるのだろうか?大学図書館は、「大学関係者ではないから入れません」が普通だが、私はこれは大いに問題だと思っている。

*3:実際には、ホームレスは労働をしているわけで、つまり正確には「労働しないと思われている人」だけど。

作者:zarudora

更新日:2008年9月1日 4時4分

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[愚考]「中立」のデメリット

何かで「左右」を覚えなくちゃならないことってありますよね。たとえば道順を覚えるとき「○出口を出て左へ」とか。そういうときよく、「左右」に「左翼右翼」のイメージを重ね合わせて覚えるってことしませんかそうですか。私はよくします。「○出口を出てサヨク」とか覚えるのです。そうすると、たんなる中立的な「左右」という概念に、「共感」ないし「反感」という心理的に正反対の価値をもつラベルがつけくわわるので、たいへんに覚えやすくなります。さらに応用して「○出口を出て右」はたとえば「○出口を出て反革命」とかしたりするのも、より覚えやすいでしょう。

ところが、政治的「中立」を自認する方々は、そんな変換をしてもなんの意味もないのでしょうので、このワザは使えないはずですよね。本当にかわいそうだと思います。「中立」の方々は、「左右」を覚えたいときいったいどうしているんでしょうか?

作者:zarudora

更新日:2008年10月14日 8時2分

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[労働]まあ、皆ほんとに労働しない(と思われている)人嫌いだよね

 野宿者に対する、あるいは野宿者排除に反対する人へのバッシングに向ける、「フツーの」人々の大変な熱意、というのにはおどろかされます。これは、「まあ、皆ほんとに労働好きだよね」の正確なうらがえしである、「まあ、皆ほんとに労働しない(と思われている)人嫌いだよね」だと思うのですが、すこしそのへんに関連する話を紹介してみます。

 さて、大人たちのなかには、若者をバッシングして「フリーターだのニートだの、仕事をする気のない怠け者の若者が増えているのはこまったことだ」と言う人もいます。しかし、「そうした見方は誤解だ、若者は仕事をしたがっているのであり、若者に正社員の仕事がないのがいけないのだ。増えているのは、怠け者の若者ではなく、非正規雇用で過酷な条件で労働をしているワーキングプアーの若者だ」という考え方もあります。左翼の日本共産党のスローガンはそうした考え方をふまえています。街にはってある日本共産党のポスターには「若者に仕事を」というスローガンが書いてあります(youtubeの日本共産党のチャンネルにも大きく掲げられています)。

 ところが、ボブ・ブラックという人は、1985年に書かれた「労働廃絶論」という文章で、こう言っています。

リベラル派は、雇用差別を終わらせるべきであると言う。

私は、雇用を終わらせるべきであると言いたい。

保守派は労働の権利を主張する。

カール・マルクスの義理の息子で気まぐれなポール・ラファルグに習って言えば、私は怠ける権利を主張する。

左翼は完全雇用がよろしいと考える。

シュールレアリストを真似て言うと、 −私はふざけているわけではない− 私は完全失業がよろしいと考える。

http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html

 ボブ・ブラックという人の考え方は、左翼の一種の、アナーキズムに分類される考え方でしょうが、こうした考え方にたいして、最初にあげた若者バッシングの大人も、共産党をふくむ若者擁護の人も、両方、「ふざけるな」と怒るかもしれません。とくに後者は、こう言うでしょう。若者が仕事がなくて困っている(つまり「労働の権利」が奪われている)のに、「怠ける権利」だの、「完全失業がいい」などとは、どういうことだ!そんなことを言うから、「怠けたがっているニートの若者が増えている」などという誤解が生まれるのではないか!……と。

 しかし、そのような怒りが生まれるのは、「人間は働くものだ」という考え方、あるいは「働くということは人間にとって大事なことだ」という考え方が、空気のように、当たり前のことになっているからではないでしょうか。だから、ブラックのような「労働を廃止するべきだ」などという主張をきくと、多くの人は「ふざけている」とか「できっこない」と思ってしまうのです。

 ところで、岩波新書に、今村仁司という人が書いた『近代の労働観』という本があります*1

近代の労働観 (岩波新書)

近代の労働観 (岩波新書)

 1998年に発行されたこの本で、今村さんは、「労働が人間の本質であるとか、労働は本来的に喜ばしいとかいった思想」*2」は、「空気のように自明なもの」となっているけれど、それは本当のことだろうか?という疑問を出します。「労働は大事だ(労働は人間の本質である)」という考え方は、労働者を搾取する資本家や、資本主義に賛成する人たちはもちろんですが、彼らと対立する、労働者の味方である社会主義の人たち(左翼)も、共通してもっている考え方なのです*3。労働が大事なのは当たり前なのであるから、「労働者の味方をする」というのは、苦しい労働をしている労働者がいるなら、その「苦しさ」をなくして(労働環境の改善)、労働を、本来の「喜ばしいもの」にすることであって、「労働が苦しいから労働そのものを廃止してしまえ」なんてとんでもない主張だ、というわけです。

 ところが、今村さんは、こうした「労働は大事だ」という考え方があたりまえになったのはそんなに昔のことではなく、その考えは、たった300年か400年前のヨーロッパで生まれて世界にひろまっていったものでしかない、ということを教えてくれます。近代以前においては、多くの社会で、「忙しく働く」ということは「悪いこと」であり、「ぶらぶらしている」「なにもしない」ということは、むしろ「いいこと」である、という価値観は、普通のことであったのです。何千年もまえの古代ギリシャでは、手仕事をすることは卑しいこととされていました。手仕事をする奴隷は、卑しいものだった(もちろん、これは、奴隷制度という差別的制度ときりはなせないわけですが)。

太古的な労働経験とは、少ない生業の時間と余暇を享受する経験であった。近代以前の生活の社会的評価機軸は、余暇である。古代では一部の人間集団だけの余暇であったにしても、階層の上下を問わずすべての人々の価値意識を方向づける文明の価値基準は余暇(自由時間)にあった。多忙(時間がないこと)はマイナス価値であった。(p.25-6)

 今村さんの本には出てきませんが、日本だってそうです。昔私のブログでも昔紹介しましたが*4、クイズお江戸でござるで有名な、江戸時代のことについてものすごく詳しい杉浦日向子さんは、江戸時代も、町人とっては「ぶらぶらしてめったに働かない」というニートのような暮らし方は、別に普通の暮らし方だった、ということを教えてくれます。

 もうひとつ、今村さんが言っているのは、古代にだって、たとえば農民が農作業でいそがしく働いていたように見えるのですが、その場合の農民の行為は、道具を使って自然を変革し、何かを生産する、という近代的な労働としてはとらえられていなかったようだ、ということです。それはむしろ、宗教的な行為であり、宗教儀式と切り離せないような行為であった。だから、農作業の中にリズムがあったとしても、それは、宗教的な、儀式のリズムであった。

 さて、今村さんは、それまで普通だった、「なにもしないのは良い、いそがしいのは悪い」という価値観が、近代にはいると180度ひっくり返ったのだ、と言います。

近代では余暇と無為は、道徳的に悪になり、多忙さ(ビジネス)が道徳的にプラス価値になる。太古的な労働経験の崩壊過程はそのまま近代の出現課程になる。壮大な価値転倒が起きた。(p.26)

 今村さんによると、その「価値転倒」がおこったのは、17世紀の初頭のヨーロッパにおいてです。このころの都市には、農村から都市に流入した多くの貧民たちがいました。彼らは、「浮浪者」または「乞食」でした。もちろん、いつの時代にも貧しい人たちはいたのですが、この時代、多くの貧民が、「犯罪者」ないし「犯罪者予備軍」として、収容される、ということがおこります。

(……)貧乏であること、あるいは貧民であることは、罪であった。ひとによっては貧乏を道徳的罪とみなすこともあったが、たとえそうではないにしても、国家の行政的観点からみればひとつの犯罪の可能性であった。だから浮浪者や乞食という形をとる貧民は、特定の場所に収容されなくてはならない。この空間は、道徳的罪と犯罪の可能性を防止するための空間、つまり収容所になる。それは当時は「矯正院」あるいは「労働の家」と呼ばれた。(p.29)

 では、収容してどうするのか。犯罪者は、悪いことをしているのだから、つかまえて「罰」をあたえる、ということになります。その「罰」が「労働」だったわけです。「罰」は、いやなことをさせるから「罰」になります。みんながよろこんで牢屋に入りたいなら、監禁は罰にはなりません。しかし、罰としての労働は当初から二重の意味をもっていたのです。「強制労働」は、悪いことをした人への「罰」であると同時に、悪い人を、まっとうな人に治すための「治療」であり「教育」でもあったわけです。したがって、労働収容所は、監獄であり、病院であり、学校だったわけです。というか、労働収容所は、近代的な「監獄」「病院」「学校」の起源なのです。

 労働収容所の中で、貧民を労働させ、労働によって懲罰する。労働は仕事を教えると同時に教育する手段であった。(p.29)

 といっても、この収容は、貧民を「救済」する「慈善事業」という建前ももっていました。しかし、この「慈善」は、「監禁」と「拷問」と表裏一体だったのです。

 さて、当時の統治者(つまり「お上」ですね)は、貧民を、「貧しい人々」(ポーヴル)と「人間の屑」(ミゼラブル)という二種類に分類したそうなのです。お上が特に問題にしたのは、「人間のくず」(ミゼラブル)のほうです。お上は、「人間のくず」を、社会にとっての「異物」とみなしました。

 「ポーヴル」は社会的規範と生産体制にとって「受け入れ可能な」人々である。反対に「ミゼラブル」は、どうにも規範になじまず、生産体制を撹乱する存在であり、政治的にも経済的にも、さらには宗教的にも異物である。(p.38)

 政治と経済の秩序には到底受け入れがたい「人間の屑」が存在する場合には、そうした「屑」を特定の空間に集中的に収容して、彼らを「受け入れ可能な人間」に教育して「まともな人間」に変換させなくてはならない。「人間の屑」はその存在自体において「罪であるのだから、この罪に「罰」を加えて、再教育しなくてはならない。「罰」とは人間を矯正する強制的「労働」である。(p.40)

 近代における怠惰との闘争は、17世紀において開始するのだが、この時期の怠惰対策が怠惰な人間、「人間の屑」を施療院や矯正院に封じ込めて、彼らを近代経済にふさわしい労働人間に作り替えることであった。(p.45-6)

 つまり、現代の「労働者」「勤労者」の「祖先」は、「浮浪者」「人間のくず」「怠け者」であったともいえるのです。ところが、改造人間、つまり、「人間のくず」から「まっとうな人間」に改造されてしまった「勤労者」の子孫が、現代、自分たちの祖先である「浮浪者」を、「人間のくず」とさげすんでいるのです。なんという皮肉でしょうか。(つづく)

↓こちらもたいへんわかりやすくかいてありますのであわせてお読みください。

「スタンダード反社会学講座」http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson6.html

「労働廃絶論」http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html

「(元)登校拒否系」 http://d.hatena.ne.jp/toled/20080119/p1

*1:昔、私のブログでちょっとだけ触れたことがあります http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060625/p3

*2:p.199

*3:「労働は人間の本質であり、人間は労働を通して人間性を完成させていくだろうし、労働をとりまく否定的社会的条件または環境を改善するなり変革するならば、人間は労働のなかで、そして労働によって、人間にとって基本的な事柄や大切なことを実現するだろう(p.198)」という「労働中心主義的人間論(p.197)」は、20世紀の社会主義が盛んにふりまいてきたものでもあります。

*4:と思ったら、消した記憶ないのに、記事が消えてる!!??どういうこと?http://b.hatena.ne.jp/entry/2070496

作者:zarudora

更新日:2008年9月10日 3時9分

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[野宿者]がまんする人/しない人/させられている人

昨日の日記のブックマークコメント

# 2008年09月02日 sirobu sirobu 社会 家じゃなくても実際にそんな図書館を利用するかって言うと… 電車にヤツラが乗ってきたら臭いに耐えかねて車両が丸々空いたりするんですぜ?(強調引用者)

これはつまり、「実際どれほど耐えがたい臭いがしているのかおまえは知っているのか?」ということなのでしょうか?

で、思い出したのですが。

モンスターなんとかというのはいろいろありますが、モンスター・フィロソファーと言えば、日本の場合、なんといっても、中島義道先生です。で、その日本が誇るモンスター・フィロソファーの中島先生は、『うるさい日本の私』他で、だいたいこんなことをおっしゃっています(いまてもとに本がないので、だいぶ昔に読んだうろおぼえの記憶にしたがって書いています。中島さんの議論の正確な紹介ではないのであしからず。)

中島さんは、現代の日本の街中にあふれている、人工的な音が、文字通り耐えられないのだそうです。たしか、音量の問題ではなく、質的な問題で、電子音とか、スピーカーから流れる音声とかが、耐えられないのだそうです。しかし、現代の日本では、そうした音があふれています。だからといって家の中にとじこもっているわけにもいかず町にいくと、そのような音が聞こえてくる。中島さんは、そのたびに、その音を出している場所の担当者に直接話をしにいきます。

「あの音が私は耐えられないので困っています。あの音を止めてくれませんか?」

すると、担当者との間の会話は、だいたいつぎのようになるようです。

「??どうしてですか?」

「いや、だから今言ったように、あの音が私は耐えられないので困っているのです。だから、あの音を止めてくれませんか?」

「?がまんできないような音ではないと思うんですけど……」

「いや、あなたはがまんできるんでしょう?でもそれは今は関係ないのです。私はがまんができないんです。」

「?でも、今までみなさんから、とくに苦情がきたことはないんですが……」

「いやだから、みなさんのことは関係ないんです。私ががまんできないといっているのです。」

「……そうおっしゃられても……」

藤子F不二雄の『ミノタウロスの皿』にある「言葉は通じるのに話は通じない」という名セリフそのものの押し問答が、かならずくりひろげられるそうです。

担当者は、中島さんが意味不明なクレームをつきつけているようにしか思えないのでしょう。しかし、「現にがまんができないのです」と主張している中島さんに対する、「がまんできないような音ではないでしょう?」という返答こそ、中島さんにとってはまさに意味不明な返答です。中島さんには、「「私はあなたではない」という当たり前のことがなぜ理解されないのか」という絶望感が積み重なるばかりです。

おそらく自分が「普通の人」であると思っている担当者は、中島さんのことを、「こんなどうってことのない音もがまんできない、がまんの足りないおかしな人」という目で見ているでしょう。しかし、中島さんにとっては、それほど侮辱的なことはないでしょう。というのも、現在の日本では、中島さんには耐えられない音が氾濫しており、それでもそこで生活しなくてはいけない中島さんは、まさに、毎日がガマンなわけです。たとえば、そういう音がない場所を選んで通るとかもしているでしょうが、それもできないので、たしか、街中にでるときは、ヘッドホンステレオで、大音量でクラシックの曲を流して、街の人工音をかきけす、という自衛手段をとっているそうです*1

おそらく、多くの人にとっては、中島さんのこの行為は、「滑稽」なものにうつるでしょう。多くの人にとっては、この行為は、「必要ない行為=無意味な行為」と映るからです。しかし、それが「必要ない」のは、多くの、人工音が気にならない人にとってです。中島さんにとっては、この行為は真剣そのものの行為です。そして、「なぜ自分だけが、このような苦労をしなければならないのか」と理不尽な思いを抱きながら、日々、「耐えられない」環境の中、ガマンしながら、暮らしているのです。

さて、中島さんは、現代の日本の社会では、(人工音という側面に関しては)「マイノリティ」です。そして、「マイノリティ」とは、まさにこのように、日々、耐えがたい世界の中でガマンしながら、いや、ガマンさせられながら暮らしている人々のことだ、と言っていいでしょう。ところが、マジョリディは、ガマンする必要なく暮らしている人々のことです。だから彼らは、マイノリティが「ガマンしている」ということが理解できない、いや、しようとしないのです。それどころか、ガマンにガマンを重ねたマイノリティが、「耐えかねて」必死の思いで声を上げると、眉をひそめて、「そんなことがまんできるだろう、なんてガマンの足りないやつらなんだ」「じゃあ日本から出て行けばいいじゃないか」などと言うのです。*2

ところで、マジョリティの彼らは、一方では、当然のことのようにこんなことを言うのです。「ホームレスのニオイっていうのはな、本当にガマンができないほどひどいんだ。おまえはかいだことないんだろう?」などと。そして「おれたちにはホームレスのニオイはがまんできないが、ホームレスは図書館に入るのをがまんしろ。そんなの簡単なことだろう」と。

ではおまえは、逆に、マイノリティの意見をすべて通して、マジョリティはつねにガマンしろ、というのか、などというひともいるかもしれませんが、そういうことではありません(「マジョリティの意見をすべて通して、マイノリティはつねにガマンしろ」という状態をつくっておいて、よくそんなことが言えるな、とは思いますが)。

さきほど、「私はあなたではない」という当たり前の事実の話をしましたが、すくなくともタテマエ上、「民主的社会」とやらいうものは、お互い「私はあなたではない」という事実を前提とした上で、話し合って折衷案をみつけだすことによって作られることになっているわけででしょう? ところが、マイノリティというのは、一方的にガマンを強いられているばかりではなく、「話し合い」なるものがあってもどういうわけか決して呼ばれないのです。いや、「呼ばなくてもいい人たち」と勝手に前提されているのです。中島さんが声をあげても、いつも「スルー」されてしまいます。そして、ホームレスが図書館にいると、マジョリティの人々は、そのホームレスに目をあわそうともせずに、「あのホームレスどうにかならないかな」などという「話し合い?」をマジョリティどうしてはじめるのです。

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)

  • 作者: 中島義道
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 1997/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
うるさい日本の私 (新潮文庫)

うるさい日本の私 (新潮文庫)

追記

今、本棚で中島さんの『〈対話〉のない社会──思いやりと優しさが圧殺するもの』を発見しました。そんなヒマはまったくないにもかかわらずついぱらぱらと読み直して見たところ、以前読んだときより非常におもしろくかんじました。

しかし、上の記事に関することで、この本で氏自身が「マジョリティとマイノリティ」という言葉を使っていて、しかもその意味は、上の私の記事におけるのとはだいぶちがっていることが分かりました。というわけでやっぱりうろおぼえで書いてしまったのはちょっとまずかったのですが、とりあえず関連するかしょを引用します。

マジョリティとマイノリティ

マイノリティを徹底的に排斥しながら、その暴力にいっこうに気づかず「空気」に擁護されて自分たちの「正義」を確信している鈍感にもおめでたい人々(マジョリティ)のみが状況功利主義者なのではない。状況功利主義の蔓延する空間では、じつはマイノリティすなわちいつもオモテではシブシブ賛成し、ウラに回ると決定に難癖をつける弱く善良な人々もその力学に支配されているのだ。彼らもまた「様子を見る」ほうが「得」だと悟って、不平不満を露骨に言うことを控え、言葉を選び、反感をかわない動き方をするのだ。こうした社会では弱者であればあるほど「語らない」ことを選ぶのであり、対立を、〈対話〉を避けるのである。そのほうが「得」だということを彼らは早い時期に全身で学んだからである。

ここでちょっと確認しておこう。私はマイノリティを──身体障害者・被差別部落出身者・在日朝鮮人・同性愛者等々狭義の社会的弱者という意味ではなく──さまざまな意味で社会的に報われていないのであるが、個人の言葉を抑制し小心翼々と社会に適応しているフツーの「善良な市民」の意味で使用する。したがって、これと対立するマジョリティとは、個人の言葉を意図的に(ズル賢く)控えて社会的利益を受けているフルーの「善良な市民」のことである。

わかりやすい例で言えば、いつもいつも「常勤」を渇望してうめき声をあげている大学の非常勤講師はマイノリティであり、犯罪行為さえしなければ六十五歳まで遊んでいても首を切られることのない大学教授はマジョリティである。つまり、個人の言葉を発して身を挺して戦っている一握りの人々意外は、みんなマイノリティかマジョリティというわけである。(p.175-6)

この定義によれば、中島さんは、決して「マイノリティ」ではない、ということになりますね。

*1:ヘッドホンの音はいいのか、とかつっこみがありそうですが、繰り返しますがこれは私のうろ覚えの紹介なので、詳しくは中島さんの本を見てみてください。説明があったように思います。

*2:ちなみに私も、街中の人工的な音はぜんぜん平気なので、マジョリティのがわであり、中島さんのガマンできないという感覚そのもはわかりません。しかし、中島さんのいらだちそのものは、「わかる」ようなきがします。ところで、ねんのため、ほかの部分で氏の意見にすべて賛同しているわけでもありませんし、実はそれほど中島さんの本は読んでいません。

作者:zarudora

更新日:2008年9月2日 15時48分

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[野宿者]公園や図書館はお前の家じゃない

公園や図書館からの野宿者の排除に対して批判的な意見をのべると、必ずつくコメントというのがあって、それは「そんなことをいうなら、お前の家にホームレスを住まわせればいいじゃないか」というものです。ほぼ例外もなくそういうコメントがあらわれる、と言っていいようにすら思います。id:good2ndさんの「ホームレスだからって排除すべきじゃない。でも…」という記事にも、そんな「おまえんちでメソッド」というか、「おまえんちで論法」が、やはりあらわれました。

# 2008年09月01日 id:sol1og ホームレスの人権を守るためにこのヒトのうちに住ませるのではなにがいけないのかわからない。どんなによそで排除されても最後まで「公共の空間」として信頼されている、ということを、まず自分から誇りに!

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080901/1220252058

さて、ホームレスの人たちは、そもそも最初からsol1ogさんの家からは排除されています*1。おそらくsol1ogさんは、自分の家にホームレスがやってきたら、追い払ったり、あるいは警察を呼んで追い払ってもらったりするのでしょう。しかし、ホームレスの側から見たらどうでしょう?sol1ogさんのように、ホームレスに対して偏見や敵意をもっている人の家に入りたいと思わないのはもちろんのこと、そんな人の家の近くにも、怖くて行きたくない、と思うのが当然ではないでしょうか。まあそれはともかく、いずれにせよ、ホームレスの「私的空間」からの排除は、すでに完了しているのです。それは残念ながら当たりまえのことです。ただ、世の中には、私的空間をホームレスのために提供している人だっていくらもいると思います。場所だけでなく、お金や、食料や、衣類などを提供している人ならもっとたくさんいるし、さらには、id:Romanceさんのように、支援活動に参加して「私的な」時間や労力を提供している人だって、たくさんいるわけです。というわけで、ある意味ではそれだけで、もはや「おまえんちで論法」は崩壊している、ともいえるのですが。

ただもうひとつ、「おまえんちで論法」をとなえる人は、別の意味でおおいなる勘違いをしているとしか思えないのです。おそらく、「おまえんちで論法」を使う人は、「ブサヨの矛盾を突いたった!ブサヨのいたいところを突いたった!」というふうに思っているのではないでしょうか?つまり、「ブサヨは、公園とか図書館とか、自分の家ではないから、そんな風にきれいごとが言えるんだろう。ブサヨだって、俺たちと同じで、自分の家にホームレスがおしかけてきたらいやがるはずだから、「むぎゅう」と言葉につまるだろう」と。しかし、good2ndさんは、図書館が「自分の家ではないから」、つまり「自分と関係ないから」意見を述べている、のではないでしょう。むしろ逆に、自分の町の図書館のことだから、自分と関係がある問題だからこそ、「ホームレスの排除」について批判的な意見を述べ、議論を提起しているわけです。さっきいったようにそんなことはないでしょうが、仮にsol1ogさんの家にホームレスが押しかけてきたときに、sol1ogさんがそれを追い出すのは、現行の法体系のもとではみとめらるでしょう*2。しかし、今問題となっているのは、sol1ogさんの家のことではありません。まさに「公共空間」である図書館のことです。なぜ、「自分の家と同じように」ホームレスを排除させる事が、当然と考えるのでしょうか。公園や図書館からのホームレスの排除を当然とする人は、ホームレスに向かって(直接ではなくネット上でとかですが)「公園や図書館はおまえの家ではない」などと言うのですが、その言葉は、そんなことを言う人に対してこそ、そのまま返すべきではないか、と思うのです。

それと、「ブサヨだって、俺たちと同じで、自分の家にホームレスが来たらいやがるはずだ」みたいな勝手な決め付けも、迷惑なんですよね。「ホームレスは、公園だろうが図書館だろうがどこにも居場所がなくなって、自分の見えないところでのたれ死んでくれたほうがいい」などと思っているあなたがたといっしょにされたくない、と思っているブサヨの方々は多いと思います。

*1:sol1ogさんがホームレスではないという前提で話をしていますが

*2:でも革命がきたらid:toledさんがsol1ogさんの家をホームレス支援施設として接収するそうですよ!

作者:zarudora

更新日:2008年9月1日 14時56分

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[野宿者]モンスター・ライブラリーユーザー

モンスター○○っていうのは、ほんとうに増えているようだ。今度は図書館利用者にも出てきた。「図書館にホームレスがいるといやだから追い出してほしい」などという理不尽なクレームを言ってくる、モンスター・ライブラリーユーザーというのが出てきたようだ*1http://d.hatena.ne.jp/Romance/20080830#p1という記事のブックマークにも、大量に現れている。http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Romance/20080830%23p1 まあ、ここでヘイトスピーチをくりひろげているひとたちのどれほどが図書館をよく利用するのかわからないけど。あ、私ですか?私はほとんど図書館は利用しません。本は90パーセント、ドトールで読んでるので。人の話し声とか、コーヒーとかミラノサンドのニオイがないと集中できないんで。

それはともかく、あなたが図書館を利用したくて、たとえば市立図書館に行ったとする。それは、本が読みたい場合もあろうが、ただ返却のためかもしれないし、あるいは、ちょっとトイレをかりたいからかもしれないし、本を読みながらクーラーで涼みたいからかもしれない。休館日でもないかぎり、自動ドアをあけて、なんの抵抗もなく中に入ることができるし、なんのためにきたのか?なんて入り口で尋問されることもない…と思って、入ろうとしたそのとき…

入り口に人がたっていて、「あなたはダメです」と言われて、とうせんぼされ、入ることを邪魔された。他の人はどんどん入っている。「なぜ入れないのですか?」と聞くと、「あなたは○○だからです」という答えが返ってきた*2。あなたにとっては、この「とうせんぼした人」こそ、「迷惑千万な人」以外の何ものでもない。

つまり、○○の人を、○○だからという理由で図書館にいれない、というのは、○○の人に対する「迷惑行為」である。「○○を図書館に入れるな!」という要求は、「○○に迷惑行為をしろ!」という要求と同じなのだが、そういうことを言う人は、自分が「迷惑行為」を要求しているなどとは思っていない。いやむしろ思いたくない。というわけで、彼らはこういうのである。「いや、迷惑行為することを要求しているなんてとんでもない。私たち善良なライブラリー・ユーザーこそ、あの○○に迷惑行為を受けているんです。」と。で、その、「○○から受けている迷惑行為」なるものが何なのか?と聞くと「えーと、ニオイがくさくてこまります」とか「あの人は本を読む場所に本を読みにきてませーん。おかげでボクがすわれませーん」とか言うわけだ。つまり、なぐることは決まっているんだけど、あとから「なぐる理由」とやらをでっちあげる、ていうやつとたいして変わらないのだ。

○○が嫌いな人、○○に偏見を持っている人、というのは、○○を差別したい、○○に「迷惑行為」をしたい、という気持ちがどんどん高まってくるらしい。そこで、それを正当化するために、○○の悪いところ、「迷惑」なところ、とやらを血眼になってさがし、言いつのる。さらにそれによって、ますます○○を嫌う感情をたかぶらせていく、というマッチポンプである。

そうして、「トンデモなくいやなものが、とつぜん向こうからやってきたんだ、だから消えてなくなってほしい」と思いはじめたころには、そもそもその「いや」な性質を自分たちでそこに貼り付けたということはすっかり忘れているのだ。

あと、マッチポンプというのは、ただの感情の話というわけではなく、社会構造としてマッチポンプが組み込まれているということです。こちらからの孫引きで元の本は見ていませんが、売春について書かれた三浦俊彦のこの文章は、まさにホームレス問題にもあてはまりますね。

“ある事柄Aは悪だからと社会的認知を妨げて、Aの社会的不適合を生み出し、その不適合ゆえにAを悪と判定するパターンは、マッチポンプの典型例です。”(三浦俊彦『論理学がわかる事典』)

 * * *

ところで、以前、中国の貧困層を描いたNHKのドキュメンタリーのことを書いた記事http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20071003/1191441794で、ネットでみつけたこの番組に対するこういう感想を紹介した。

内蒙古の出稼ぎの若夫婦、あの夫はなんだ、仕事がない、金がないといいながら、タバコばかり吸っている。まず禁煙して、貯金しろよ、春節に夫婦二人も帰らずに倹約して、母親の治療費ぐらい捻出したらどうだ。あの男はなにがしかの取材協力費をとっているのではないか、との声

http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20071003/1191441794

で、こういう人がいたらどうだろうか。ものすごく風呂が好きで、毎日銭湯に行っているホームレスがいたらどうだろうか。こういう風に非難されるのだろうか。

ホームレスのあの男はなんだ、仕事がない、金がないといいながら、風呂ばかり入っている。まず禁銭湯して、貯金しろよ

とか。それとも、みだしなみを考えて立派だ、とほめてくれるとでもいうのだろうか。

まあ、何をいっても、結局「働かないのが悪い、働けば風呂にも入れるし家にもすめるしタバコも吸えるのだ」という声がわきおこってくるのが目に見えているので、むなしいんだけども。

つまり、「まあ、皆ほんとに労働しない人*3嫌いだよね。」というのは、id:madashanさんの「まあ、皆ほんとに労働好きだよね。」の正確なうらがえしなんだな、たぶん。

働くことについては今度書きます。

*1:kmizusawaさんのブクマコメントにあるように、まあ、そういう人は昔からいたんでしょうけど。

*2:「市外在住だから貸し出しません」とかはあっても、「○○だから入れません」という公立図書館はあるのだろうか?大学図書館は、「大学関係者ではないから入れません」が普通だが、私はこれは大いに問題だと思っている。

*3:実際には、ホームレスは労働をしているわけで、つまり正確には「労働しないと思われている人」だけど。

作者:zarudora

更新日:2008年8月31日 19時4分

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